Sparkle

木谷彩

前書き

 数年前から、「娘の個室を作るために、あなたの本を減らしてよ」と妻からずっと言われ続けていたのだが、ついに娘も小学校に入り、あと数年したら個室を欲しがる年齢になった。私の蔵書数は引越業者が言うには「普通の人の五倍」だそうだ。書斎として使っていた部屋には大型本棚三棹に、小型本棚二棹。みっちりと本が入っている。だから、妻の通告を無碍に断ることもできなかった。その時になってすぐに本を処分、というわけにもいかないので、そろそろ不要になった本を選び出して売ることにした。同時に収納に入っているものも精査し、いらないものは処分することにした。

 一番大きな収納の奥深くには、数多くの引越の際にも開けなかった段ボール箱が入っている。よれよれになった箱には走り書きで「昔のもの」と書かれていた。十数年ぶりに箱を開けてみる。幼稚園のときに使っていた粘土板、小学生のときに書いていた日記。一九八十年代の本、神戸で催されたポートピア博覧会のパンフレット。グッズがいくつか。大学の卒業論文の原本もあった。そして。

 

 そこにあったのは大昔に書いた原稿だった。まず肉筆で書き、その後、大学四年の時にワープロでリライトしたもの。就職のときにワープロが出来るのはウリになると思ったからだ。そして、その練習教材として、昔書いた原稿を選んでいた。


 それは十八歳のときの恋の顛末を書いたものだった。


 恋の相手を忘れたことはなかった。決定的な瞬間は三十年経っても覚えていた。だが、それ以外のことはすっかり忘れていた。

 あの日。刻まれたばかりのつらい記憶を早く消し去りたいという気持ちと、これほど心を燃やした相手とこの時代を記録しておきたいという気持ちのせめぎ合いの中で、書いたのがこの原稿だった。


 彼女のことを忘れよう、忘れようと思うことは、逆に心に思い出を刻みつけていくことだと悟るまで時間がかかった。ではどうしたらいいのかというと、結局は時間が解決するんだとわかるまでにさらに時間がかかった。いろんな歌や小説で言われていたけれど、じゃあ、「具体的に」どうすればいいのかはどこにも書かれていなかった。はがゆい。公式だけ書いておいて、用例のない参考書のようだ。

 何か別のことに熱中して、そのほかの記憶を一つひとつ重ねていくことによって、彼女の記憶は奥底に沈んでいき、枝葉が落ち、核心だけが化石のように固まっていく。やがて、その記憶のかけらもどこに置いてきたのか忘れていく。

 まどろっこしい、気絶しそうに膨大な時間の流れだけが、すべてを解決していく。

このようにして、思い出の忘れ方がわかったときには、もう、彼女を忘れていた。


 原稿を読んでみる。

 あまりにも幼くて不器用で、じりじりと臆病な私がそこにいた。

 時は三十年前にさかのぼっていく。

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