第41話 天下の行く末
「……ん……」
「俊明!」
「弥五郎っ!」
「気がついたかい」
目を開けると、伊与、カンナ、五右衛門の顔が視界に飛び込んできた。
「ここは……」
ゆっくりと身を起こして、周囲を眺める。
板張りの部屋。その上に絹の寝具が敷かれて、俺はその絹の上に身体を横たえていたのだ。
見覚えがある景色だ。
ここは……
「藤吉郎の屋敷か」
「そうよ。羽柴屋敷を借りて、あんたを寝かせたと。許しは得とらんけど、あんたなら藤吉郎さんも文句言わんやろ」
「寝かせた。……気を失っていたのか、俺は。どれくらい……そうだ、安土城は? 戦いはどうなったんだ!?」
俺が叫ぶと、伊与たちは気まずそうに目をそらしつつ、
「敏明。お前は2刻(4時間)ほど眠っていた。戦いは……ひとまず、織田方の勝ちだ。天主が明智の手によって炎上し、さらに本丸も、三介様(織田信雄)が敵を倒すために爆薬を用いたことで吹っ飛んでしまったが……」
「安土の天主と本丸が? ……そうか。……和田さんは? 明智は? どうなった?」
「和田どのは、討ち死にされた」
「な……」
「炎に巻き込まれて……。つい先ほど、ご遺体が見つかった。……だが無駄死にではないぞ。明智を……明智光秀を倒すことができたのだからな」
「明智も死んでいたよ。和田さんの短刀が胸に突き刺さったまま、焼け死んでいた。顔も身体もぼろぼろだったが、背丈や年恰好、それに身に着けていた脇差が間違いなく明智のものだったことから、やつの遺体だと分かった」
「明智光秀が死んだことで、戦いは完全に織田の勝ちと決まったとよ。残った明智兵も坂本城のほうへ逃げたけんね」
「……明智が、死んだ。……和田さんも……」
俺は情報量の多さに、立ち眩みのような感覚を覚えつつ、最後にその名前を出した。
「上様は?」
「…………」
「上様はどうなった。織田……織田信長様は!?」
「……分からない」
「分からない!? なんだ、それは――」
「本当に分からないんだ。あれほどの炎の中、生き延びることができたとはとても思えない。敏明、お前がこうして生きているのも奇跡のようなものだ。……上様は亡くなったのだと思うが、ただ、ご遺体も見つからないのだ」
「探せ。探すんだ。まだ、生きているかも」
「とっくにやっている! 三介様も蒲生どのも、天主の跡地だけでなく、安土城の周囲にまで足軽を繰り出して、探し回っている。……そうだ、お前の言う通り、まだ生きているかもしれない。だが……」
「あのとき、天主にいた人間で生きているのはあんただけよ、弥五郎。他の人間はみんな……」
「…………俺、だけ……」
俺はあの瞬間を思い出す。
和田さんの叫び声。明智のうめき声。
それでも俺は逃げた。そうすることが最善だと信じて。
だが信長は逃げなかった。
一瞬だけ、和田さんの声のためにその動きを止めて――
人間だった。
その行いはまさしく。
天下人織田信長ではなく、人間織田信長としての行動だった。
自分のために戦った人間を、完全に見捨てることができず、つい、振り向いてしまって――
それで命を落としたとしたら、天下人としては失格かもしれない。織田家の総領としても、賢い行動とは言えない。だがそれでも、あの方は――
「
俺は、半ば茫然自失としながら、ゆっくりと声に出していた。
その日の深夜である。
全身に負ったヤケドや、明智光秀に撃たれた弾丸の傷跡を治療していた俺は、羽柴屋敷で引き続き横になり、伊与とカンナのふたりに看病されていたのだが、そのときだ。
「いよう、弥五郎!」
その声を聞いて、俺はがばっと跳ね起きた。
激痛が走る。だが、その痛みは無視する。
「藤吉郎! ここだ!!」
「おう、おったかぁ、弥五郎!!」
どかどかという足音と共に、室内に飛び込んできたのは、言うまでもなく秀吉であった。
その傍らには、蜂須賀小六、それに次郎兵衛もいる。秀吉たち3人は、俺を見てにっこりと笑い、
「無事だったかよ、おい」
「アニキ、良かった。本当に良かったッス!」
「泣くなよ、次郎兵衛。いい年をして、大げさな」
「大げさなもんスか! 和田様まで亡くなったっていうのに、ここでアニキがいなくなったらあっしは、あっしは……」
「……和田殿のことは残念じゃった」
秀吉は、暗い顔をして、
「そして、上様のことも……残念、の言葉ではとても済まぬ。……あの上様が……」
「まだ、亡くなったっち決まったわけじゃなかとよ、藤吉郎さん」
「亡くなっておるわい! ……すべて報告を受けたぞ。あの蒲生殿が昼からずっと探しておるそうじゃが、影も形も見当たらぬ。ならば生きておられるはずがない。蒲生殿は優秀な男じゃ、上様がいるならばきっと見つけられるはず。それなのに、いないということは、上様は、上様は……」
秀吉は、大きな瞳に涙をいっぱいに浮かべて、
「お亡くなりになったのじゃ! そうではないか、弥五郎!」
「…………そうだ」
俺は、がっくりとうなだれた。
「お前の言う通りだ。きっと、そうだ。上様はお亡くなりになった。俺はあの方を守れなかった。あともう少しだったのに。力が及ばなかった」
「ならば、わしもそうじゃ、あと1日、いやさあと半日、安土城に向かっておれば、かようなことには……。信じたくはない、信じたくはないが、上様はもうおらぬ。……弥五郎、信長様じゃぞ。織田信長様が、もうこの世におらんのじゃ。どういうことじゃ。こんなことがあっていいのか! 信長様が……」
「落ち着け、藤吉郎。いつまでも泣くもんじゃねえ」
「小六兄ィに分かるものかよ! わしが、あのお方に、どれほど、どれほど……!」
だんっ、だんっ!!
秀吉は何度も、床を叩いた。
握りこぶしで、3度、4度、5度――
誰もが茫然と、それを見ていたが、やがて「よせ」と蜂須賀小六がその右手を止めた。
「……信長公……」
秀吉は、その名を改めて呼ぶと、しょげかえった顔で、みずからが殴りつけた床をじっと眺める。
「……小一郎は、どげんしたとね? 姿が見えんけど」
カンナが、落ち着いた声で次郎兵衛に尋ねる。
「小一郎様ならば、黒田様とご一緒に京の都におられるッス。都の羽柴軍を束ねるには、羽柴の一族がいなければどうにもならないッスから」
「於次丸様じゃ、まだ軍を束ねることはできねえしな」
蜂須賀小六がぽつりと言った。
「だから……安土にいるのも今夜限りだ。明日にはまた、都に戻らないといけねえ」
「そうだろうな」
俺はうなずいた。
これからが大変だ。
俺が知っている歴史通りになるならば、信長公も信忠もいなくなった織田家は、空中分裂を巻き起こす。
信長公の天下を継承するのは誰か。
後継者争いが起きるのだ。
「……弥五郎」
秀吉が、小さな声で言った。
「頼みがある」
「なんだ」
「こんなときに言うのもなんじゃが、銭を用立ててくれ。金がない」
「なに……」
「姫路城にあった金や米は、兵たちに残さず配った。おかげですっからかんじゃ。長浜にもさほどの銭はない。……しかし、明智を討った諸将や兵に褒美をやらねばならぬ。となれば、汝の力がほしい」
茫然とした顔のまま、指示だけは的確に下す秀吉。
これが、秀吉だ。藤吉郎だ。改めて思う。炎のような激情を内に秘めておきながら、頭脳だけは氷のように冷静に回転し、いまするべきことをしていくのだ。
「承知した。任せておけ」
「有難し」
秀吉は、俺の手を取り、わずかに笑った。
「……よし、それさえ言えば、続きは明日だ。実のところ、わしは死ぬほど眠い」
「そうだろう。寝たほうがいい。……みんなもだ」
「うむ。……ならば、寝る。……小六兄ィ、寝よう。寝るぞ! みな、寝るぞ! わしも寝る! 女はいらんぞ、寝るだけだ! 寝るぞ、寝るぞ、寝るぞ!」
秀吉は、悲しみを振り払うかのように立ち上がり、明朗な声をあげながら、部屋から出ていった。
見かけほどには、まだ立ち直っていないはずだが、それでも、いつまでも落ち込んでいたら家中の士気に関わる。秀吉はあえて、明るい声を出しながら歩いていったのだ。
室内には、俺と伊与とカンナが残る。
伊与たちは、落ち着いた顔で、俺に近づいてきて、
「俊明。くじけるなよ」
「そうよ。あんたはやるだけやっとるんやけん」
「分かっているさ」
悩みも落ち込みもしている。
けっきょく、おおむね史実のまま。
そう思った。信長公は亡くなり、明智も死に、安土城天主は炎上し、秀吉が都にいる。
細かいところは違っても、最終的には俺の知る歴史になっていく。一度は救ったと思った和田さんまでもが……。俺はくちびるを嚙み締めた。
だが。
心はくじけちゃいない。
「まだ、俺にはやるべきことがある。俺の立志伝はおわっていない。この天下を安定させるまでは。真の太平を築き上げるまでは、まだ……」
「そうよ、弥五郎。さすがやね、もう立ち直った」
「……しかし、俊明。……この世が、この後、お前の知っている通りになっていくのなら……。つまり、藤吉郎さんが豊臣秀吉となって天下を統一するのなら……」
伊与は、生真面目な顔で言った。
「お前は藤吉郎さんについて、これまでの友と戦うのか? 徳川様に、柴田権六様。それに、……滝川さんに、佐々さん……」
「…………」
俺は答えられなかった。
織田家中には多くの友がいる。
その中でも、滝川一益と佐々成政は、別格の仲間だ。
若いころから……あの尾張、津島の時代から苦難を共に乗り越えてきた友なのだ。
これから分裂を始める織田家。
そして秀吉は、滝川、佐々の2人と敵対する。
そういう運命にある。
ならば。
俺は……。
「考えは、あるんだ」
「どういう考えだ?」
「……いずれ話す。今日は……とにかく寝かせてくれ。傷口もうずくんだ……」
俺の言葉を聞いた伊与たちは、うなずきあって、部屋を退出した。
俺は、ひとりになった。
傷は相変わらず痛む。
眠い。
しかし、よく眠れない。
頭が興奮しきっているのか。
なるほど、こういうときに世間の男は、酒でも飲んですべて忘れて、ぐっすり寝るわけだな。……まったく、その程度のことをこの年になって気付くとは。
しかし、今夜は。……例え苦手の酒を飲もうが、ぐっすり眠れるかどうか。
「信長公……」
恋焦がれる少女のように、俺は暗闇を見つめながら、またその名前をぽつりと呼んだ。
けっきょく、俺が眠りについたのはそれから1刻(2時間)も経ってからのことだった。
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