第36話 中国大返し
俺、信長、信忠、それに付き従う織田軍は、本当ならば山科から東に向かい、大津から安土へと向かいたかった。
しかし大津は明智光秀の領地、坂本からあまりにも近い。明智のことだ。すでに先回りして、大津にも兵を忍ばせているかもしれない。
「少々手間ですが、南の山々を突っきって、甲賀へ抜ける間道を行ったほうが間違いがないかと」
と、俺は進言した。
信長はうなずいて「任せる」と言った。
こうして俺たちは甲賀方面へ向かい始める。
ようやく夜が明けた山道。けもの道を突っ切っていくのだ。
道中、傷口が痛むのが辛かったが、仕方がない。
「竹千代は無事だろうか」
ふと、信長が口にした。
竹千代とは堺の町を見学中の家康のことだ。
「やつのほうにも明智の手のものが向かっているだろう。大坂の丹羽と合流してくれていたらよいが」
「俺が知っている歴史の通りなら、徳川様も我らのように山々を乗り越えて、無事に三河にたどり着きます。おそらく大丈夫かと」
「で、あるか。……ふむ、竹千代のほうには酒井も石川も本多もおる。心配するまでもないか。心配するならば、そちと、――奇妙のほうか」
信長は優しげな顔で、俺と信忠を交互に見た。
俺は明智に撃たれた傷が、そして信忠も先ほどの戦いで手傷を負っている。道なき道を越えていくのは身体にこたえる。
「父上、心配はいりませぬ。傷など大したことはありません。歩きます」
「ならばよし。甲賀までの辛抱じゃ。おのれの足で歩め」
と、口ではそう言いつつも、信長の目は実に心配そうだった。
「三介(信長の次男:信雄)が伊勢から軍を出し、明智を牽制してくれれば良いのだが」
信長は歩きながらそう言ったが、信忠は首を振り、
「無理でしょう。そのようなところで気の利く弟ではありませぬ」
「そうよな。……あまり期待はできぬな」
「父上が甘やかすからです」
「甘やかしたつもりはないが……」
と、口ごもる信長がおかしかった。
親子だけで気さくに会話をすると、信長はこうまでただの父親顔になるのか。
なるほど、信長は甘い。身内には特に甘い。改めてそう思う。
「――山田。余は甲賀まで行き、情勢をよく観察してから安土に舞い戻るつもりだが」
「はい」
「安土はいま、
「存じております。あの人なら適任です」
桶狭間の戦いや、信長の上洛戦などで何度も出会った蒲生さんの顔を思い出した。
粘り強く誠実な人だ。日野鉄砲の生産指導をしてからしばらくの間、疎遠になっていたが――蒲生さんに会いたいと思った。
「……しかし蒲生は安土を捨てて、一度、日野に行くのであったな?」
信長はヒソヒソ声で俺に尋ねてきた。
俺はうなずいた。
「歴史通りであれば。蒲生さんは上様のご家族を引き連れて、いったんご自分の居城である日野城に戻られます」
「相手が明智とあればそれもひとつの判断であろうな。……ならば甲賀から安土にまっすぐゆかず、日野に立ち寄るか」
「それも上策かと。これも俺の知識ですが、日野で待っていれば、山越えをしている徳川様がやがて書状を送ってくるはずです。そこで徳川様と連携をすることもできるかと」
「本当によく知っておるわ。……ならば日野に向かい、蒲生と合流し、竹千代と連絡をしてから安土に向かうか」
「その頃には、備中の藤吉郎が上方に大返しをしてくるはずです。東の織田、西の羽柴で挟み撃ちにするもまた良しかと」
「羽柴筑前は、まことに早く舞い戻るか」
「来ます。必ず」
「それも知識か」
「いいえ」
俺は断言した。
「こればかりは知識ではありません。信頼です」
羽柴秀吉は、俺が危ういと知れば絶対に来てくれるのだ。
確実だ。
備中高松城を攻めていた秀吉軍だったが、黒田官兵衛と蜂須賀小六の努力によって毛利軍と和睦を果たした。
信長が明智光秀に襲撃された事実は、まだ毛利軍に伝わっていなかった。
もしも伝われば、秀吉軍はただちに毛利軍に襲撃されたであろう――と、羽柴軍の重臣たちは誰もがそう思ったが、しかし秀吉は、
「次郎兵衛、敵陣にあえて噂を撒いてくるんじゃ」
と、次郎兵衛に向けて言った。
「織田信長が明智光秀に謀反された――という噂が広まっているが、これは秀吉の策略じゃ、とな。毛利軍が嬉々として羽柴軍を襲撃すれば、羽柴軍は山田弥五郎の作った連装銃で毛利軍を完膚なきまでに滅ぼすつもりらしい、と」
「承知!」
次郎兵衛は、お見事とばかりに膝を打つと、即座に羽柴本陣を離れて毛利軍陣営に向けて走っていった。
どうせ明智謀反の知らせは毛利軍にいずれ伝わる。ならばその話をあえて認め、その上で尾ひれをつけた噂を流せば、敵は必ず混乱する。少なくとも動きにためらいが出る。
「そのためらいがいまは大事よ」
秀吉は、にこりともせずに言ったものだ。
やがて和議が成立すると、秀吉軍は大急ぎで都に向けて疾走を始めた。
あらかじめ、用意されていた船に兵糧など大事な荷物を載せ、また足の遅い者も載せ、足の早い兵や乗馬している武士は陸路を使った。
「弥五郎が船を用意してくれていて、よかったわい」
馬上、秀吉は独りごちた。
毛利攻めのために弥五郎が準備した船や、整備した道路が、いまとなっては撤退にも役立つ。
「あいつめ、このような事態が起こることを知っていたかのようじゃ。……ふん、やつの先読みの才は天才的よ。しかし自分がやられるとは、思っていなかったようだのう」
秀吉はふところに手を入れた。
弥五郎の血がこびりついたリボルバーが、指先に当たる。
(待っておれよ、弥五郎。わしが必ず救ってやる!)
その誓いだけは絶対であった。
この瞬間、秀吉の脳裏には信長も光秀もなく、ただ弥五郎の顔のみが浮かんでいたのである。
それから2日後、秀吉は姫路城に入城した。
「湯漬けを寄越せ。それから事態をよく知らせよ」
大声でわめき散らしながら、具足を脱ぎ捨て、その場に放り捨てる。
すると「藤吉郎さん」と言って、湯漬けを差し出してきた男装の女がいる。
五右衛門であった。
疲労困憊だった彼女は、船に乗せられ姫路城に戻ってきていたのだ。
「おう、五右衛門。気が利く。まず貰うぞ」
秀吉は湯漬けをかっこみ始めたが、やがてちらりと五右衛門を見て、
「詳細を、いま一度申してくれ」
「備中で伝えた通りさ。明智光秀が謀反をした。光秀個人ではなく、明智家全体が敵となったんだ。その中でも斎藤利三は抜群の働きだった。……弥五郎はよく戦ったが、手傷を負い、いまは上様と共にいるはずだ。上様と殿様は、襲われこそしたが無事で、いまは逃げている。……上様おつきの、丹羽や森、野々村などは討ち死に――」
「他の者はどうした。森乱の弟もおったろうが。毛利新介は。菅屋は。福富は。伊与やカンナは」
秀吉はさすがによく人の名前を覚えていた。菅屋長頼や福富秀勝といった、信長の側近の名前まで出したが、五右衛門は首を振り、
「そこまでは知らない。みんな必死だったからね。伊与とカンナは一足早く、上洛していた博多商人を連れて安土へ逃げたけれど」
「そうか。よし、分かった」
秀吉は判断した。現場にいた五右衛門ですら、事態を完全に把握できていないのであれば、他の者たちも――おそらく明智光秀ですらも、現在の畿内がどのような状態か、把握できていまい。
「五右衛門、官兵衛に伝えてくれ。遅れている者もおるので、今日は姫路に残り休む。明日から行軍する」
「分かった。藤吉郎さんはどうする? 寝ておくかい?」
「左様な暇はない。
秀吉は播磨から摂津、大坂にいる諸勢力に向けて、手紙を書いて書いて書きまくることにしたのだ。文面はすでに思いついている。――上様と殿様は危機を切り抜けた。上様ご側近である福富秀勝の活躍が大きかった――
福富が実際にどうであったかなど、誰も見ていない。五右衛門ですら知らない。だからこそ、あえてその名を出した。手紙に現実味を出すためだ。
(上様と殿様が無事、ということを伝えるのが大事よ)
秀吉はまるで眠くなかった。
むしろ、暴れたかった。弥五郎の危機とあれば早く助けに行きたい。しかしここで自分ひとりが京の都に向かっても、無駄死にするだけなのが分かっている。待つのだ。そして信じるのだ。
(弥五郎、汝は生きている。必ず生きておるわい。上様をお守りしながら、生き延びていてくれるわい。そうじゃろうが!)
「兵が散ったか」
甲賀に向かう山中で、一晩野宿したが、夜明けとなると、信長軍の兵が減っていた。
夜の間に逃げてしまったのだろう。
「やつらめ。ことが落ち着けば草の根分けても見つけ出し、首を刎ねてくれる」
信忠は憤っていたが、信長は冷静で、
「負け戦のあとはこういうものよ。最初の桶狭間のあともこのように惨めであった。奇妙、そちがこういう戦を経験したのは良かった。人間五十年、常に順風であることはないものよ」
「は。……ははっ」
「怒っている暇はない。甲賀に向かうぞ」
「ははっ。明智が来ますからな」
「明智ならば良いが」
と、信長は渋面を作った。
信忠にはその顔の理由が分かっていないようだったが、――10分と経たずに分かってしまった。
「おおい、落ち武者だ。織田の落ち武者がおるぞぉ!」
――落ち武者狩り。
上方で信長の敗戦を知った者たちが、10数人。
織田家の侍を襲撃しようと山中をうろついていたのだ。信長が危惧していたことが起きてしまったのだ。
「父上。名乗りましょう。織田の大将であることを言えば」
「馬鹿め、逆に血眼になって襲われるわ。……奇妙、山田、怪我人どもは下がっておれ。余が戦う」
「上様、いけません。ここは俺が」
傷口の痛みをこらえながら、脇差を片手に一歩前へ出た俺であった。
刺し違えてでも、ここはやつらを倒し、信長を守らねばならない――
そのときである。
「山田うじ!」
ざざざざざ、と森の中から数人の男たちが飛び出してきて、ざん、ざん、と落ち武者狩りの連中を一気に刀で斬り倒してしまった。――忍び装束に身を包んだその男たちの頭目を、俺は確かに知っていた。
「わ、和田さん!」
「山田うじ、助けに参った。……織田様、お久しゅうございます」
「和田……伝右衛門か!」
俺たちの前に助けに現れたのは、和田惟政さん、その人だったのである。
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