第12話 於次丸、羽柴家の養子となる

「相手の男の名前は、絹屋の仁左衛門というんだ」


 松下さんは、その名前を口にした。


「人物は保証する。どうだろう、弥五郎」


「悪い話ではないと思うが……」


 と、会話に入ってきたのは樹の母親、伊与である。


「しかし、二つある。山田家の縁組みとなると、羽柴家、それに上様(信長)にも相談をしておいたほうがいいだろう。それに」


「それに?」


「樹自身がどう思うか。……つまり、その、私やカンナは好きな男を相手に夫婦となっているのに、自分は命じられた男と一緒になるというのは」


「親として気が引ける、と? ……ふふ、伊与は思いやりのあることだな」


 松下さんは、目を細めたが、


「それほど気になるなら、娘本人に尋ねてみたらどうだい。駿河まで嫁いでいくか、どうか」


「……そうですね」


 確かに樹本人の意思が知りたい。

 もう夜だが、まだ樹は起きているだろう。


「誰かある。樹をこの部屋まで呼んできてくれるか――」


「……もうおるんやけど。父上」


「え」


 部屋の外から声が聞こえたので、その場にいた全員がぎょっとした顔を見せる。

 すーっと、ふすまが開く。樹と、またその後ろには五右衛門がにやにや笑いながら座っていた。その景色を見るだけで俺はすべて合点がいった。


「五右衛門。お前が樹を呼んできたな?」


「その通り。なんだか面白そうな話をしていたからさ、こりゃ樹本人を連れてこなきゃと思って、呼んできたわけさ」


「あんた、そんな、こそこそしくさってから……。弥五郎の許しもなしに、そげなこと……」


「……構わん、カンナ。かえって手間が省けた。……樹、聞いての通りだ。駿河の商人との縁談が出てきている。どうだ、行く気があるかどうか」


「俊明。……せめて、相手の男と一目会ってから、話を進めても」


「松下さんが、人物は確かだとおっしゃっているんだ。ならば大丈夫だろう」


 俺がそう言うと、伊与は押し黙った。


「どうする、樹。……この縁談に乗るか、否か」


「なにしろ突然の話で、驚いたんやけれども。……でも、うん。樹は、……この婚姻話、受けてもええと、思う……」


「樹。いいのか?」


 伊与が誰より驚いた顔を見せるが、娘本人は、凜とした表情になって、


「……それが山田家のためになるのなら」


「樹……」


「樹だって、なにかのお役に立ちたい。


 以前、父上たちのお役目に同行したことがあったけれど、あのとき樹は、自分が本当に子供だということを思い知らされたとよ。父上たちは、いまの自分よりも幼いころから商いやら戦やらしよったというのに、樹はこの年になっても、なんの仕事もできんで。


 それでこのまま婚姻もせず、ただ家におるだけやったら、そんなもん、ただの役立たずやけん。……松下様が大丈夫だというのなら、それば信じて、樹はそのお相手の方、――絹屋の仁左衛門というひとと、夫婦になりたか。……そう思う……」


「役立たずなんて、そんなことはないさ」


 俺は心からそう言った。


「人間にはそれぞれ天分がある。いまはなにもできなくても、必ず、その才が輝くに足る場所や役目にたどり着けるときがくる」


 万感を込めてそう言った。

 それは山田弥五郎としてではなく、二十一世紀の世界で燻り、なにもできずにいた山田俊明としての言葉だった。


 この俺の武器作り、道具作りの才も、歴史の知識も、戦国の世界に来たからこそ輝きを帯びたのだ。あのまま未来の日本にいたら、どうなっていたか。おそらく、なにもできずに、人生を終えていただろう。


「そう自分を卑下することはないんだよ、樹。……その上で、もう一度、尋ねたい。駿河に嫁ぐかい?」


「嫁ぎます」


 樹は、一直線に俺を見据えてから言った。


「父上のおっしゃること、よう分かりましたけん。その上で樹は、樹自身の意思で、山田家のお役に立つために、また自分自身の幸せのために、駿河国に嫁いでいきたい」


「そこまで言えたら一人前だ」


 年齢のわりには幼い我が娘だと思っていたが、いつの間にか、彼女なりの悩みと、考えを有するに至っていたようだ。


 父親として、あまり教育に関われなかったが……。

 しかし、やっぱり伊与の娘だ。しっかりするべきところはしている。


 いや。

 伊与だけじゃない。

 俺の娘でもあったな。


「よし、話はまとまったな。それでは某のほうでこの話、進めさせてもらおう。我が殿(家康)のお耳にも入れておく」


「お願いします。上様と藤吉郎には俺のほうから伝えておきます。……なあに、上様は女性にょしょうにお優しい。藤吉郎だって、自分の女関係が好き放題なんだ。文句を言ったりはしないはずです」


「そうだな。……きっとそうなる。……では弥五郎、縁談はこのまま進めよう。いや、よかった。実のある旅となったよ。はっはっは……」


 松下さんは朗らかに笑った。




 松下さんはその日、近侍といっしょに山田屋敷に泊まり、翌日、安土を出立した。

 俺と伊与、それにカンナの三人は松下さんを屋敷の前で見送る。


「これでええとね? 弥五郎」


「いいさ。樹が決めたことだし、縁談は松下さんがうまくやってくれるだろう」


「まさかこんなに早く、娘の縁談が決まるとはな」


「まあ、ええんやない? あたしたちのときみたいに何年もかけてゴタゴタするよりは。……ねーえ、弥五郎?」


「よ、よせよ、昔の話は。……まあ、徳川家康と交流のある駿河商人なら、今後、そう、まずいことにはならないさ。家康はこれから数年後に、駿河国を手に入れる。その後、駿河には大きな戦乱も起きない。樹が戦いに巻き込まれてどうかなることはないさ」


「あ。……あんた、ちゃんとそういうこと考えとったんやね」


「当たり前だ」


 今後、荒れ狂っていく可能性の高い京の都や、近江や美濃、尾張に嫁ぐよりは、駿河のほうが樹が幸せになれるだろう。


 荒れ狂っていく、か。

 そう、もしも史実通り、信長が本能寺で亡くなれば。

 近江や美濃は、すさまじい戦場になるのだから。


 ……そうしないために、俺は動きたいんだが。

 現状、まだ、動く方向が見えない。


 俺は織田信長を助けたい。

 ならば、いまのうちに明智光秀を殺しておくのが一番なのだが。


「果たしてそれが歴史の正解となるかどうか」


「なんだ、俊明。なにをぶつぶつ言っている」


「なんでもないよ……」


 歴史の悩みを抱えつつ、家族の幸せも考える。

 なんとなくだが、信長もこれに似た悩みを抱えていたりするのかな、と俺はふと思った。




「竹千代(家康)とも繋がりのある商人ならば、間違いはなかろう。すべて、山田と松下嘉兵衛に任す」


 松下さんが出立した日の昼下がり。

 安土城に登城した俺は、信長に内謁し、娘の縁談のことを伝えたが、信長の返事はこのようなものだった。


 信長は、忙しそうだった。


「間もなく余は三河へ下る。竹千代と鷹狩りをして参る」


 松下さんが言っていた件だな。


「しばらく安土には戻らぬからな、左様心得ておけ。……そうだ、藤吉郎がそろそろ播磨から戻ってくるはずだ。もし帰ってきたら、これを藤吉郎にくれてやれ」


 信長が手を叩く。

 すると小姓が、茶釜を持ってきた。


乙御前おとごぜの茶釜という。前からやつが欲しがっていたものだ。播磨平定の褒美にくれてやることにした。山田、そちから藤吉郎にこれを渡しておけ」


「心得ました」


「ああ、それともうひとつ。良き機会しおゆえ、そちにも引き合わせておこう。――誰か、於次おつぎを呼んで参れ」


 信長は小姓にそう命じた。小姓が、さっと部屋を出る。

 於次……。信長はいま、確かにそう言ったな。


 五分と経たないうちに、室内へ、若い――

 というより幼い侍が入ってきた。小学生くらいだろうか。


「山田。これが余の四男、於次丸おつぎまるだ。この者に羽柴の家を継がせることと相成った」


「羽柴家を。於次丸様が――」


 と、言いつつも、俺はこの展開を知っていたので、あまり驚きはしなかったが――

 於次丸。のちの羽柴秀勝。織田信長の息子であり、秀吉の養子となった人物だ。


 秀吉には実子がない。

 そこで秀吉は、家を甥に譲ろうかと考えていた。

 しかし、現実にはご覧の通りで、羽柴の家は於次丸が継ぐような流れとなった。


 これは歴史通りの展開だ。驚くに値しない。

 ただ、なぜこうなったのかを俺は知りたかった。


「なにゆえ、於次丸様が羽柴の家を?」


「ねねに頼まれた」


 信長は、こともなげに言った。


「藤吉郎。――あのハゲネズミが、近ごろ、子供が欲しいと申して、ところ構わず女を作っておること、そちも知っておろうが。それで藤吉郎とねねはずいぶん夫婦喧嘩をしているようで、余としてはまったく鬱陶しい」


 と言いつつ、信長は、面白そうに笑みを浮かべ、


「そこで夫婦喧嘩のもとである、子供の問題を、この余がみずから解決してやることとした。羽柴家に於次丸をくれてやるのだ。そうすれば、羽柴家は跡継ぎに困ることがない。藤吉郎とねねもケンカをするまい。山田、そうであろうが」


「は。……」


 俺は内心、少しだけ驚いていた。

 於次丸――於次丸様を羽柴家に養子としたのは、信長の案だったのか。


 於次丸が秀吉の子供となった理由は、後世でも謎とされている。

 ただ秀吉からすれば、主家たる織田家と縁続きになる話であり、信長からしても、今後、秀吉にどれほどの領土や褒美を与えようと、最後は実子の於次丸が引き継ぐという話だから、そう悪い話ではない。


 元より百姓の子供だった秀吉に、自分の子供をやるというのは、身分や出自を意識しない信長らしいやり方ではあるが。


「於次。名前くらいは知っておろう。ここにいるのが神砲衆の山田弥五郎じゃ」


「あい」


 於次丸は、表情をあまり変えずに俺の方を見た。


「藤吉郎とは若い頃よりの友である。今後もずいぶん付き合うことになろうから、顔をよう覚えておけ」


「於次丸様。上様にお仕えする山田弥五郎でございます。以後、お見知りおきくださいませ」


 俺は、相手が子供とはいえ、信長の四男なので、慇懃に平伏したものだが、


「あい」


 於次丸は、ただその言葉のみであった。よろしく、ともなんとも言わない。

 子供らしい、といえばらしいが。確か於次丸は今年で、満年齢でいえば9歳だ。9歳といえば、……こんなものだろうか。


「於次丸は来年より、長浜にゆく。よろしく頼むぞ、山田」


 於次丸本人ではなく、信長が俺に言った。

 子供を頼むぞということだろう。俺はまた頭を下げて「はっ」と答えた。

 於次丸は、にこりともせず、ただじっと俺を見つめ、やがて父親たる信長を、どこか不安そうな目で見つめていた。




「いよう、弥五郎!」


 天正5年(1577年)12月半ば。

 秀吉が予定通り、安土にやってきた。だが信長がいなかったので、乙御前おとごぜの茶釜は、俺が山田屋敷の一室で秀吉に手渡した。


「ありがたき幸せよ。茶釜じゃ。このわしに、茶の湯をやれということじゃな。ありがたや、やれ、ありがたや」


 秀吉は、その場で、建設中の安土城天主に向かって平伏した。

 相変わらず芝居気のあることだ。俺はにやにやしてしまった。


 その夜、俺は秀吉といっしょに飯を食いながら、樹の婚姻話や、松下さんのことを語り合った。


「松下嘉兵衛様か。わしは久しく会うておらん。会いたいのう、あの方に」


 秀吉が、あの方、なんて表現をするのは信長のほかだと松下さんくらいだ。


「藤吉郎は本当に松下さんが好きだな」


「心が落ち着くのよ。あの方は、欲が少なくていい。わしや汝と違って、金だ戦だと、欲の皮が突っ張った生き方をしておらぬゆえのう」


「悪かったな、欲まみれで。……そんなに欲まみれか?」


「日に三食も、白飯を食うておろうが。かつては日に二食、ヒエ・アワでも生き延びておった山田弥五郎が。欲が出てきたんじゃろうが。のう?」


「言ってくれる。ここまで出世すれば、飯くらいは自在の生活をしたいからな」


 お互いに軽口を叩き合う。

 近侍も、部屋の外に出している俺たちである。二人きりだ。

 伊与もカンナも、すでに就寝済みである。俺たちは夜更けまでいろいろと話し込んだが、やがて、


「そういえば、於次丸様をお迎えになるそうだな」


「ほう。ねねか小一郎から聞いたか?」


「いや、上様から直接。於次丸様にもお引き合わせいただいた」


「そうか。上様が。……そうか。いや、汝にもはよう伝えておこうと思いつつ、つい忘れていての」


「いや、それは構わんが。……めでたいことだな。これで羽柴と織田は縁続きだ」


「うん。……」


 秀吉は、どこか浮かぬ顔である。


「どうしたんだ、そんな顔をして」


「いや、なに。……弥五郎。これから申すことは、決して他言してくれるな」


「言うなと言われたら、言わぬ。しかし、改まってどうした」


「少々、頭が煮えるときがある」


「……なに?」


「於次丸様のことを考えると、よ」


 秀吉は、ニコニコとした顔で。

 しかし声は、ずいぶん低い。


「なあ、弥五郎。汝が白飯を食うのにどれだけの艱難をくぐり抜けた? わしが長浜城を建てるのに、どれほどの血と汗と涙を流した? 言葉にはできん。……上様もそうじゃ。幼いころから、うつけ、うつけと呼ばれ続け、ついには弟の勘十郎様とも戦をして、尾張の国を引き継いだ」


「そうだな」


「それなのに於次丸様は――上様のお子というだけで、わしの城を、領地を、受け継いでしまう。……いや、頭では分かっておるよ。上様と縁続きになるのは大変名誉なことじゃ。於次丸様も、可愛い若殿様よ。……しかし、時として心が、煮えたぎる。……人間、生まれる家ひとつで、こうも運命さだめが変わるものかのう……」


「…………」


 一心不乱に成り上がった秀吉らしい言葉であった。

 言われてみれば確かに、俺にも、多少、思うところがあるが――


「子供とはそういうものさ。樹だって、この縁談話が来るまで、山田屋敷で食う飯の苦労もせずに育った。俺や伊与やカンナと比べたら、はっきり言えばなにもしていない。だが俺はそれこそが泰平の証だとも思う。……俺が味わった悲しみや苦労を、子供には味わってほしくないからな。……親の苦労、子知らずの天下になるのが、俺の、いや、俺たちの願いだったじゃないか、藤吉郎」


「分かっておるよ。うん、頭ではなにもかも分かっておる。……しかしのう」


 秀吉は、酒も飲んでいないのに、顔をわずかに赤くして、


「生まれひとつで、運命がのう……」


 ほんの少しだけ、俺の中に嫌な予感が生まれた。

 それは手取川の戦いの前に生まれたものと同じ種類の、うまくは表現できないが、ただ漠然とした嫌な空気。


 ……天下はいずれ、平定される。

 そして信長の息子たちが受け継ぐ。このままいけば。

 それはもう、確定的な未来だ。……その未来を、秀吉がほんの少しだけ、思うところがあるというのなら。


 あるいは、他の人間も、……秀吉のような気持ちを、抱いているとしたら。

 このまま信長の息子が天下を受け継ぐことを嫌だと思っているのであれば。


「…………」


 論理が飛躍しすぎだろうか?

 だが俺は、改めて考えるのだ。


 本能寺の変まで。

 あと4年半。

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