第9話 前田利家の笄(こうがい)斬り

 あかりちゃんから前田さんのことを聞いた俺は、すぐさま清州城に向かった。

 登城すると、いきなり見知った顔に出くわす。


「山田。……久しいな」


 それは佐々成政さんだった。

 京でも会っているので、それほど久しぶりでもないのだが。

 しかし京ではお互いに忙しく、会話もほとんどしなかったので、そういう意味では確かに久々だ。


 だが、俺はあいさつもそこそこに、


「佐々さん。前田さんの件を聞いて、やってきたのですが」


 そう尋ねると、佐々さんは片眉を動かす。

 あまり愉快そうな顔ではなかった。そして、


「やつのことなど、知らん」


 吐き捨てるように、言った。


「あのような短気者とは、お前も、もはや縁を切れ。こちらが損をするだけだぞ」


「ずいぶん激しい口調ですね、佐々さん」


「激しくもなる。……自分は、もはやあの傾奇者とは二度と会わん」


 そう言いながら佐々さんは、俺を信長に取り次いでくれた。

 そのまま謁見の間に通され、信長の登場を待つ。

 佐々さんと共に、信長を待ちながら、俺は考えていた。




 これはいわゆる、前田利家のこうがい斬り事件だな、と。




 前田利家――

 信長にとって若いころからの腹心である彼は、しかしこの時期、一時的に織田家を追放されている。

 なぜなら前田さんは、この年(1559年)に、信長お気に入りの小姓・拾阿弥じゅうあみを殺害してしまったからだ。

 これを『前田利家のこうがい斬り』という。


 なぜ、笄斬りと呼ぶのか。

 それは、前田さんが拾阿弥を殺した理由が、笄に関係しているからだ(なお笄とは、髪をかきあげてマゲを作るための棒状の道具だ)。


 拾阿弥はある日、前田さんのこうがいを盗んだ。

 しかもその笄は、前田さんの奥さんであるおまつさんの父親の形見であり、大切な品物だった。

 それを盗んだのだから、非は拾阿弥にある。前田さんが怒るのも、当然ということだ。


 だが拾阿弥は、そもそもなぜ、前田さんの笄を盗んだのか?

 それは単純な話で、彼は信長のお気に入りだったから、もともと横柄なふるまいが多かった。

 他人のものを盗むのも、これが初めてではなく、丹羽さんや滝川さんも笄や脇差を取られたことがあったのだ。




 俺自身も、経験がある。

 去年、所用があって清州城に登城したとき、俺は拾阿弥と偶然出会った。


「これは山田どの。毎度、ご機嫌がよろしいようで」


 表面は如才なく微笑み、しかし目はどこか俺を馬鹿にしたような感じ。

 俺は最初出会ったときから、この拾阿弥があまり好きではなかったが、向こうが下手なので、とりあえずこのときは目礼した。


 その後、用事が済んだあと、城から退出しようとしたのだが――

 気付くと、俺の草履がなくなっていた。


「あれ、どこにいった?」


 草履取りに尋ねる。

 俺の草履はあかりちゃんがこしらえてくれたもので、材料もいいものを使って作られた、この世にふたつとない大切な草履だった。


 だが草履取りは、答えない。

 そこへ藤吉郎さんがやってきて、渋い顔をして言った。


「例の拾阿弥じゃ。やつが奪っていったそうじゃ」


「なんですって!?」


「怒るな、弥五郎。やつはあれでも殿様のお気に入り。揉め事を起こせば損をするのは、汝ぞ」


「し、しかし。……拾阿弥の悪い評判は聞いていましたが、まさかこんな……。上総介さまは、なぜあんなやつがお気に入りなのです?」


「汝も、知っておろうが」


 藤吉郎さんは、困り顔のまま言った。


「拾阿弥は、勘十郎さまお付きの小姓であったゆえな」


「……!」


 そうなのだ。

 拾阿弥は、信長の弟、織田勘十郎信勝から気に入られていた小姓だった。

 しかも顔や雰囲気、年恰好も、どことなく信勝に似ている。……だから信長は気に入っていたのだ。


 この時期。

 つまり1558年。

 信長の弟、織田信勝はすでに死んでいる。


 先年の稲生の戦いのあと、信勝はいちおう許された。

 信長・信勝、両方の母である土田御前のとりなしによるものだ。


「いろいろありましたが、勘十郎はそなたの弟。許してやりなさい」


 と、土田御前が言ったので、信長も信勝を許したのだ。

 しかし信勝は、その後も織田家の家督をついに諦めきれず、信長の命を狙った。

 これにはかつて信勝派だった柴田勝家も呆れ、ついに勝家は完全に信長派に転向。

 信勝は、柴田勝家の密告により信長を狙っていることを知られ――その結果、ついに殺害されたのだ。


 争い合ってきた弟。しかし信長にとっては――やはり弟は大切なものだったらしい。

 信勝の子、坊丸(のちの津田信澄)は信長によって庇護されたし、信勝の亡骸なきがらも手厚く葬られた。

 そして信勝の家来はほとんどが信長に吸収された。拾阿弥もそのひとりだ。信勝にどこか似ている彼を、信長はこよなく愛した。はっきり言って、ひいきしていた。


 藤吉郎さんは、言う。


「上総介さまは心優しき名君であれる。しかしその優しさが、ときには悪いほうに向く」


「今回のように、ですか」


「うむ。……世間からは、上総介さまは厳しい殿様のように思われているが、わしから見れば――あの方ほどお優しく、そして――見方によっては甘い殿様もおらぬ。気に入った者にはどこまでも優しく甘くなるお方だ」


「…………」


「特にお身内には、実に甘いように思われる。……わしは上総介さまのそういうところが好きじゃが、ああいうところがいつか、殿様の命取りにならぬか。わしは心配でならぬよ、弥五郎……」




 ――と、ここまで俺の回想。

 まあそういうわけで、拾阿弥は家中から嫌われていた。

 信長は常に、それをかばい続けていたわけだが、今回、ついに前田さんに殺されたわけだ……。


「山田、よくぞ参った」


 謁見の間である。

 信長が、近侍を従えて眼前に現れた。俺は平伏した。


「固いあいさつは抜きじゃ。藤吉郎から京や堺の土産も見せてもらった。役目大義であった」


「はっ」


「ところで山田、そちも、余になにかくれるそうだな」


「はっ、こちらでございます」


 俺は用意しておいた、銀の十字架を献上した。

 レオンさんから貰ったものだ。信長は「ほう、これをくれるのか」と甲高い声をあげて十字架を受け取り、珍しそうに眺め、ほくほく顔で受け取った。


 ここまではよい。

 だが――


「ところで、上総介さま。……前田さんの件ですが」


「聞かぬ」


 俺がその話題を口にすると、信長は露骨に顔をしかめて、その話題を両断した。


「又左(前田利家)は余についておる小姓を怒りに任せて斬りおった。そんな輩は織田家にはいらぬ。かの者が、城の敷居をまたぐことは、二度とないものと心得よ」


「しかし、殿様――」


「聞かぬと言ったら、聞かぬ! 山田、そちも出仕を解かれたいか!」


「…………」


 信長は、甲高い声で怒鳴りあげた。

 かと思うと、小さく息を吐き、俺の献上した十字架を掲げ、


「……この土産のこともあるゆえ、こたびは許してやる。二度と余の前で 又左の話題を口にするな」


 信長はそう言って、部屋を退出した。

 部屋には、俺と、ずっと黙っていた佐々さんが残される。


「……山田」


 佐々さんが、ふいに口を開いた。


「今回のこと、正直なところ、どう思う」


「……前田さんが可哀想です。今回の件は笄を盗んだ拾阿弥に、そして畏れ多きことながら、かの者を重用した上総介さまに非があるかと」


「うむ。なるほど、確かに拾阿弥には非があった。だがしかしだ、それでもやつは殿様付きの小姓。それを殺して無罪放免とはいくまい。見方によっては主君を侮辱していることにもなる。そうは思わないか、山田」


「…………」


「さらに言えば、だ。カッとなったら主君付きの小姓さえ、いきなり斬り捨てるような男。……こんな男を、山田。お前なら家臣に置いておきたいと思うか? ……殿様は前田のことを気に入っていた。だからこそ今回のことには失望し、おおいに怒ったのだ。相手が悪いとはいえ、腹が立ったら即、斬殺。……前田又左はこの程度の侍だったかと、がっかりし、追放したのだ」


 佐々さんは、珍しく今日は雄弁である。

 普段の無口が嘘のようだ。


「自分も、前田には失望した」


 佐々さんは、吐き捨てるように言った。


「酒場のごろつきでもあるまいに。あの短気ではとうてい、一人前の武将にはなれぬ」


 心底、がっかりした顔付きだった。




 津島・神砲衆の屋敷に帰った。

 なんだかくたびれた気持ちで自室に戻ったわけだが、そのとき伊与がやってきて、


「弥五郎。戻ってきたばかりで悪いが、お客様だぞ」


 と、伝えてくれた。


「客? 誰だよ。至急の用じゃないのなら、伊与かカンナが話を聞いて――」


「いや、お前でなければだめだ。――やってきたのは、あの柴田権六さまだぞ」


「柴田……権六!?」


 あの柴田勝家が、俺に!?

 なんで、また……!?




 屋敷の一室で、俺は柴田勝家と向かい合った。


「……こうしてまともに顔を合わせるのは、あのとき以来かな」


 ひげもじゃの顔を、わずかに緩めながら、彼は言った。

 あのとき、というのは数年前、熱田の銭巫女と織田信勝が俺を拉致同然に連行したときのことだろう。


 かつて敵味方となって戦った柴田勝家。

 だが、いまは信長の家臣となっている彼。

 稲生の戦い以降、清州城内で何度か顔を合わせ、会釈するくらいはしていたが、会話は――あれ以来、まともにしたことがない。


 その勝家。

 まさかいまさら、俺に復讐するわけでもあるまい。

 供も、脇差を帯びた若侍をひとり、従えているだけだ。

 俺も、いちおう護衛兼近侍として伊与を隣に連れているが、勝家はそれを気にした様子もなく、


「山田弥五郎。……いや、山田どの。こうして神砲衆の屋敷に来たのは、ひとつ頼みがあってのことだ」


「頼みとは?」


「前田又左のことは、すでに聞き及んでおろう」


「……それはもう」


「困った傾奇者だ。短気を起こして殿の小姓を斬りおった。拾阿弥など、刀の錆にするのも惜しい愚か者というのに。……いや、短慮はこの柴田権六もあまり人のことは言えぬが」


 勝家は、自嘲気味に笑って、


「とにかく又左だ。これも知っていることと思うが、かの者は妻を娶ったばかり。しかもその妻はすでに腹も大きいのだ。妻子のことを考えても、これを捨ておくわけにはいかぬ。……そこで、どうだろうか、山田どの。しばらくの間、又左を神砲衆の屋敷で養ってはくれまいか」


「前田さんを? うちで、ですか?」


「そうだ。稲生の戦いでは敵味方になったが、又左は小さいときからこの権六とも顔見知りの仲。それを見捨てるわけにはいかぬ。……権六自身が養いたいところだが、しかしそれは殿が許さぬことだろう」


「それを言うなら、神砲衆だって織田家付きですよ」


「いや、山田どの。織田家に御恩を戴いている柴田家なら知らず、神砲衆は織田家の禄を食んでいるわけではない。おぬしが相手ならば、殿様も結局は遠慮をする。それにおぬしは殿から特に気に入られておる。他の者なら知らず、おぬしが養う分には、殿も黙って見過ごしてくれるだろう。……頼む。又左を救ってやってくれ。おぬしの他におらんのだ。頼む、この通りだ!」


「ちょ、ちょっと、待ってください、柴田さん――」


 柴田勝家が頭を下げ始めたのを見て、俺は慌てて駆け寄り、頭を上げるように言った。

 勝家の供がぴくりと動いたが、しかし俺たちの雰囲気を見て、立ち上がったりはしない。


「分かりました、前田さんと奥さんは、確かにこの山田弥五郎が身柄を引き受けます。どうかご安心ください」


「そうしてくれるか! ……ありがたし、山田どの! これは又左も喜ぶぞ。……さっそく、又左をここに呼んでもよいか!?」


 勝家が――

 いや、柴田さんがそう言うので俺はうなずく。

 柴田さんの供が使者として屋敷を飛び出し、ほどなくして、前田さんが登場した。

 話がつくまで、津島の茶店で、一時待機していたらしい。


「山田、すまねえ」


 前田さんは、いつもの陽気さなど微塵もなく、うなだれていた。


「今回ばかりは、自分にあきれ果てた。……女房のいる男のやることじゃなかった。本気で反省している」


「前田さん、顔を上げてください。済んだことを悔やんでも仕方ありません。それよりも、これからです。いずれ上総介さまもお許しになりますよ」


 それは史実だった。

 この事件によって一時織田家を追放された前田利家。

 しかし数年後には織田家への帰参が許されて、結局は織田家の重鎮のひとりとなるのだ。


 俺は正直、この事件が起きるのを知っていた。

 だが発生を止めなかったのは、前田さんがそうして元通り、織田家に戻ってくるのを知っているからだ。

 そして拾阿弥については前述の通り、俺の草履を盗んだりするなど困った男だったので、とうてい救う気になれなかった。


 とはいえ。

 いまの前田さんは、厳しい顔をして、


「許されるには、もっと強くならないといけねえ」


 小さく、つぶやいた。


「けっきょく、オレっちの心の弱さが招いたことだ。カーっとなって大暴れして、情けねえ。もっと、もっと強くならないといけねえ。槍や刀の腕前じゃねえ。もっと、もっと心が強くならねえと……そうしなきゃ、上総介さまが許したって、オレっちがオレっちを許せねえ」


「その気持ちは分かるぞ、又左」


 柴田さんが、こちらもうめくように言った。


「この権六も、勘十郎さまと上総介さま、ふたりの器の違いを見極めることができずにああいう間違いを起こした。目が節穴だったのだ。もっと、もっと強く、男としてもののふとして、上に行かねばならぬ。そうでなければこの乱世を生き残れぬ。……そう痛感している……」


「……柴田のオッサン。……そうだな、強くなろうぜ、お互いに」


「殿様のためにも、な」


 ふたりの男は、深々とうなずき合った。

 強くありさえすれば。……その思いは、俺にも痛いほど分かる気持ちだった。

 俺は隣にいる伊与に目を向ける。彼女も、柴田さんたちのやり取りに、なにか思うところがあったのか、わずかに目を俺のほうへと向けていた。




 この日、前田さんは神砲衆の一員となった。




 これが――

 この、前田利家と柴田勝家の動きが。

 のちに桶狭間の戦いにおいて、ある意外な結果へと繋がるのだが。

 それはもちろん、この場にいた者は、誰ひとり知る由もない未来であった。




 そして前田さんが仲間になってから、瞬く間に数か月の月日が流れ――




 1560(永禄3)年がやってきた。

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