第35話 嵐の前
「具足を、1000着は仕入れたい」
と、嘉兵衛さんは言った。
「1000着の新具足を着込んだ足軽衆を先頭に立たせて、川中島の争いを威力調停する。それが今川屋形の意向だ。頼むよ、梅五郎」
具足1000着か……。
金自体はなんとかなると思う。
尾張の津島において、具足は10貫で入手できる。
良い具足は、もちろんもっと高値であり、それこそ何百貫とするようなものもある。
だが、とりあえず足軽に与える具足ならば、10貫の具足でも充分すぎるほどだ。
だから、その10貫の具足を1000仕入れても、10000貫以上の銭を持っている俺ならば、なんとかなる。
あとは、1000着もの具足を仕入れられるかどうかだが……。
「大橋さんに文を送ろう」
俺と藤吉郎さんは、神砲衆の部下に命じて、大橋さんに「具足1000を調達したい」旨を記した手紙を送った。
それと同時に『今川家に具足を与えるのは問題ないか、信長によく尋ねておいてほしい』『今川義元は川中島の調停に乗り出そうとしている」『松平元信(家康)は短気だが、話せば分かる人物。信長に対して好感を抱いていた』――などなどの情報も、送った。
数日後、大橋さんから手紙が戻ってきた。
『今川家に尾張の具足を売るのは差し支え無し。むしろおおいに今川の銭を吸い取るが良し』
と、信長は言っているらしい。
『尾張には、連装銃や銃刀槍など、弥五郎の作った武器が存在し、尾張具足も過去の遺物と化してきている。ゆえに、販売しても問題はない』
とのことらしい。
それで、俺は安堵した。再び、大橋さんに手紙を送る。
『それでは具足1000、ただちに駿府まで輸送されたし。代金は到着してからまた送る』
それからまた10数日して、具足1000は駿府に届いた。
手紙も同時に到着した。
『具足1000着はさすがに多く、美濃まで行ってかき集めた。少し時間がかかったが許されたし。具足の品質は確かなので安堵されたし』
「……うん、本当だ」
俺は、届いた具足をいくつか目の前に持ってきて、その質を確認した。
さすがは大橋さんだ。仕事にソツがない。送られてきた具足は、どれも立派なものだった。これなら今川義元も満足するだろう。
「今川義元に具足を売るとは、弥五郎、汝もいよいよ立派な商人じゃのう」
かたわらの藤吉郎さんが、冷やかすように言った。
「はは、自分でも驚いていますよ。武田軍の手伝いをしたり、今川家に具足を売ったり、松平家のパームピストルを売ったりしましたからね」
「ふむ、見事なもんじゃ。持ち金もすでに数万貫。いよいよ天下の大商人じゃのう」
「……なんだかすでに懐かしいですね、その響きも。シガル衆と戦ったときが遠い昔のようです」
「いかにも。あのときわしは天下の大将軍になると誓ったが、まだまだ足軽組頭じゃ」
「なに、これからですよ。今回のお役目が終わればまた覚えがめでたくなります」
「そうありたい」
藤吉郎さんは、薄い笑みを浮かべ――
「ん。……弥五郎。この文、2枚目があるぞ」
「え。……あ、ホントだ」
大橋さんから届いた文の2枚目に、目を通す。
俺と藤吉郎さんは、わずかに目を見開いた。
『ところでご忠告。熱田の動きが近ごろ活発』
「……熱田……」
「銭巫女か。……織田勘十郎と熱田の銭巫女」
藤吉郎さんが、その名を口にする。
久しぶりに聞いた、その名前。……信長の弟、勘十郎信勝と、その配下たる熱田の銭巫女。
だが俺は、ふたりのことを忘れてはいなかった。織田信勝は、いずれ信長と戦うことになる相手だし、そしてなによりも、銭巫女。5歳か6歳くらいの子供を暗殺者に使ったあの女――俺にとっては許されざる敵だった。
『織田勘十郎は、近ごろ、織田三郎信長を差し置いて、弾正忠を名乗りつつあり、いよいよ織田家の家督を簒奪しようとたくらんでいる模様。また熱田の銭巫女もなにやら動きを活発にしているらしいが、その動きはこちらでもつかめていない。……ともあれ、それゆえに、今回の具足の輸送は、熱田側に補足されぬよう、船を用い、海路を使って駿河に送る手はずにした』
「さすが大橋っつぁん。抜け目がないのう」
「ええ。海路は正解です。これなら、熱田の銭巫女が俺たちの存在を知ることもないでしょう」
尾張から、三河、遠江、そして駿河に向けて移動すると、どうしても熱田の近くを通ることになる。
数人の動きならばまだごまかせるが、具足1000着を運ぶほどの動きとなると、確実に熱田にその活動をつかまれてしまう。
だから、船を使ったという大橋さんの行動は英断だった。
『弥五郎殿、藤吉郎殿、なにとぞご注意あれ。熱田がよからぬことを考えている予感がする。駿府で充分、情報を仕入れたと思ったら、即座に尾張に帰還するべし』
そこで手紙は終わっていた。
俺と藤吉郎さんは、しばし沈黙し。
「三郎さま(信長)と勘十郎さま(信勝)が、いよいよ戦になるんかのう」
「疑いなく、そうなるでしょう」
「尾張は、また荒れるか」
「…………」
俺は考え込んだ。
信長と信勝の争いは、このままいけば恐らく史実通りになる。
この兄弟は織田家の家督を巡って争う。
結果だけいえば、この争いは信長の勝利に終わる。
織田信勝は争いに負け、一度は許されるが、結果的には殺される。
信長は勝つ。このまま歴史が進めば。
――だが。
俺は知っている。
この世界は、俺が動かない限り、史実通りにならない世界だ。
そういう展開をこれまで何度も経験してきた。俺がなにもしなければ、信長は敗北していたという流れがいくたびもあったのだ。
今回もそうなる気がする。
それは予感というよりもはや確信だった。
特に、あの熱田の銭巫女。歴史の表舞台にまったく名前が残っていないあの女がイレギュラーだ。あいつの動きがまったく読めないので、この戦いの行く末が分からないのだ。
「尾張に戻る、か……」
俺はつぶやいた。
それもいいと思う。
今川領の情報はずいぶん手に入れ、お金もかなり稼いだ。
ここらでいったん、帰還するのもひとつの策だ……。
「弥五郎、しかし」
藤吉郎さんが言った。
「せっかく今川屋形の願いを叶えたのじゃ。具足1000着、確かに手に入れた。これを今川家に届け、代金を貰い、そして出来うるならば駿府城内の様子を確かめ。……尾張に戻るのはそれからでも遅くはない。そうではにゃあか?」
「……ごもっともです」
俺はうなずいた。
そうだな、ここまできたんだ。
なんとか駿府城に入るとか、今川義元と対面するとか、そこまでやってから尾張に戻りたい。
織田信長と織田信勝の戦いは、まだ来年の夏なのだ。半年以上、残っている。
もう少し、今川家の情報を得てから尾張に帰るべきだろうな……。
「梅五郎はいるかな?」
そのとき、嘉兵衛さんがやってきた。
俺は慌てて、読んでいた文をフトコロに入れ、
「おります。具足1000着、揃えましてございます」
そう言って、嘉兵衛さんを出迎えた。
嘉兵衛さんは、ニッコリと笑ったものである。
「ありがとう。今川屋形もきっとお喜びになるだろう!」
その無邪気な笑顔に、俺はちくりと胸が痛み。
……なぜだろう。なにかその表情に、激動の予感を覚えたのである。
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