第8話 許されざる敵

 ――苦しい。

 ――とても、苦しい。


 息ができない。

 目も開けられない。

 死ぬ。死んでしまう。そう思った。


 死ぬってのは、寂しいもんだ。

 絶対的な孤独を感じる。ひとりぼっちで、深い深い海の底に沈んでいくような感覚だ。

 そうだ、思い出した。前世で、山田俊明として死んだときもこうだったな。死んだ瞬間、冷たい世界に放り出されるんだ。

 だれも俺を求めてくれない、悲しい空間。

 生命の炎が確かに尽きていく、この感覚。2度と味わいたくなかったのに。

 ちくしょう、もうだめだ。俺はもう1度、死んでしまうんだ……。


 そう思っていたときだった。


(弥五郎。弥五郎……)


 誰かが俺を呼んでいる。

 少女の声だ。聞き覚えがある。この声は――


(弥五郎。頼むから起きてくれ、弥五郎……)


 海底に、光が射し込んだ。

 ロウソクのような小さなぬくもりを感じる。

 このあたたかさ……なんだろう、これは……。

 俺は手を伸ばした。――届かない。ぬくもりにまで、右手が届かない。もう少し、あと少しなのに。


(弥五郎。弥五郎……)


 声が、俺を呼んでいる。

 呼んでくれ。もっと、俺を呼んでくれ。

 そう思った。俺はまだ、そっちにいたいんだ。俺を呼んでくれ。俺を、この俺を!




「――俊明としあき!」




「ッ!」


 そこで目が覚めた。

 見たことのある天井が、視界に飛び込んでくる。

 ここは、大橋さんの屋敷。その一室じゃないか?

 まだ居候していたころに、俺が使っていた部屋……。


「弥五郎! 起きてくれたか……弥五郎……!」


 室内には、伊与だけがいた。

 大きな瞳に、涙をいっぱいに浮かべて俺の顔を覗き込んでいる。


「伊与……?」


「よかった。目を覚ましたんだな。本当によかった!」


 伊与は、俺の右手をつかんでくれていた。

 彼女の体温が、じんわりと、しかし確かに俺のてのひらに伝わってくる。


「伊与。ここは、大橋さんの屋敷か……?」


「ああ、そうだ。……あのあと。弥五郎が毒でやられたあと、私とカンナと次郎兵衛で運びこんだのだ。神砲衆の屋敷より、こちらのほうが近かったからな。とにかく弥五郎を寝かせて、薬師に見せねばと思ったのだ」


「そうか……」


 俺は、低い声でうめいた。

 まだ、大きな声が出せない。

 身体もうまく動かなかった。毒のダメージは大きいらしい。


「薬師は、できる限りの処置はしてくれた。だが、弥五郎の意識が戻るかどうか、あとは体力と気力次第だとも言っていたよ」


「…………」


「……だけど。……ちゃんと戻ってきてくれたな、弥五郎。……よかった。……よかった……」


「……伊与」


 俺は、なんとか力を振り絞って、彼女のてのひらを握り返し。――問うた。


「伊与。お前……」


「ん?」


「さっき、俺のことを……俊明、って呼んだか?」


「…………」


 伊与は、ちょっと虚を突かれた顔をしたが、やがて小さくうなずいた。


「……その……不思議なんだが……。……諱のほうで呼んだら、弥五郎が戻ってきそうな気がしたんだ。……いや、本当に……奇妙なことなんだが……」


「…………」


 伊与の顔が、困ったように歪む。

 確かに、不可思議なことではある。

 だけど、実際に。……彼女の声は、闇の底にまで沈み込んでいた俺の魂を呼び戻してくれた。

 もし伊与が、俺を呼んでくれなかったら。……俊明、と叫んでくれなかったら、俺は恐らくあのまま、死んでいたんじゃないだろうか。そんな気がした。


「ありがとう」


 俺は、伊与の手をもう一度強く握って、くちびるを動かした。

 それだけで、確実に意思は伝わった。伊与はちょっとだけ驚いた顔をしたあと、すぐに大きな眼を細める。

 彼女の体温が、てのひらを通して俺の身体に流れ込んでくる。そんな感覚があった。……あたたかい。ほんのりと、良い匂いもする。伊与の香りが、傷付いた俺の肉体と精神を、どこまでも癒してくれていた。彼女の存在そのものが、ありがたかった。


 ――そのときだ。


 ガラリ、と戸が引かれ――


「……弥五郎!」


「アニキッ!」


 カンナと次郎兵衛が、室内に飛び込んできた。


「目を覚ましたとね、弥五郎。よかったぁ!」


「アニキ、すいやせん。あっしがついていながら、こんなことに……!」


 ふたりはそれぞれの言葉で、俺を心配してくれる。

 ここにも、俺を求めてくれる仲間がいた。――本当に嬉しかった。


 それから、少し話をする。

 今日は、俺が毒にやられてからすでに3日が経っているということ。

 事情を聞いた大橋さんは、熱田に使者を出し、銭巫女と接触したということ。

 しかし銭巫女は、俺たちを襲った3人について「知らぬ存ぜぬ」の一点張りだということ。

 そんな銭巫女に対して、大橋さんと小六さんは憤慨しつつも、しかし悔しげにこう言ったらしい。


「しかし今回は相手が悪い。……熱田の銭巫女。シガル衆よりも面倒な敵だ」


「ああ。闇討ち、毒盛り、なんでもござれの女だからな。いっそこっちも暗殺できればいいんだが」


「無理じゃろう……。銭巫女はその手の襲撃に対してとことん備えておるわ。どこまでも用意周到な女だからの……」


 ――と、そういうことらしい。

 織田信勝についている、熱田の銭巫女。

 思っていたよりも、ずっとずっと大きな敵が出てきたようだ。


「アニキ。もうあんまり、あの女とは関わらないほうがいいんじゃねえですか?」


 次郎兵衛は、そう言った。


「君子危うきになんとやら、って言うじゃねえですか。……あの女のことはほっといて、商売に励みましょうよ。それが賢明ッスよ」


 次郎兵衛の言うことにも一理ある。

 このまま銭巫女のことを放っておいて、俺たちは俺たちでマイペース。

 神砲衆として、商いに励んでいれば、それはそれとして充分な幸せを得られるだろう。


 ――だが。


「次郎兵衛」


「はい?」


「あの子供は、どうなった?」


「子供?」


「毒の爪で、俺を攻撃した子だよ」


「あ、ああ。……あいつは……」


「死んだ。だから、埋葬した」


 次郎兵衛ではなく、伊与が言った。

 その言葉を聞いて、俺は小さく「そうか」と答える。

 そして、改めて口を開いた。


「5歳だか6歳だか……そのくらいの子だったな」


「…………」


「銭巫女は、あんな子供まで、手先として使っていたわけだな」


「恐らく、そうだろう」


「……許せないんだよ」


 俺は、低い声音で言った。


「あの女にどんな過去があったか知らんが、だからって、小さな、……あんな小さな子供を忍びにして、毒まで使わせて。……許されることじゃない。いや、俺が許さない。あんな女に無法を許しておくようじゃ、山田弥五郎の名がすたるんだよ」


 げほっ、と咳き込みながら俺は言った。

 まだ、身体が本調子じゃない。全身に力が入らない。

 だが、心は熱い。燃え盛っている。銭巫女を倒す。そう決めた。

 歴史の行く末とか、織田家や藤吉郎さんのためとか、そういう理由だけじゃない。俺があの女を、許せないのだ。


「俺が倒す。30000貫がなんだっていうんだ。……また貯めてやる。そして熱田の銭巫女を――叩き伏せる……!」




《山田弥五郎俊明 銭 2000貫》

<最終目標  30000貫を貯めて、銭巫女を倒す>

商品  ・火縄銃    1




 俺のセリフに、カンナはうなずく。

 次郎兵衛も、やや遅れてから小さく首肯した。

 

 ……だが。

 伊与だけは、首を縦に振らず、ただじっと押し黙っていた。




 さて、目標は定まった。

 しかし、さあ商売だ、また武器開発だ、というわけにはいかなかった。

 実際に動くには、俺の身体は弱りきっていたからだ。それだけ毒の影響は大きかったのだ。


 神砲衆の指揮と商売を、伊与とカンナに任せ、俺はしばらく身体の治療に専念する。

 やがてリハビリのために運動などもしたりして。――体調が完全に回復したのは、半年以上経ってからのことだった。

 ようやく元の身体に戻った。さあ商売だ、あるいは武器や道具を作るぞ、というときだ。

 藤吉郎さんが、神砲衆の屋敷にやってきた。


「よう、弥五郎。身体はすっかりいいようじゃの」


 明るい声を、かけてきてくれる。

 この半年、藤吉郎さんも何度か、見舞いに来てくれている。顔を合わせるたびに「前より顔色がいい」とか「明日にはもう走れるんじゃないか?」とか、励ましてくれるのが嬉しかった。

 その藤吉郎さん。――声こそ明るいが、目が真剣だ。

 これは仕事の話だな、と、俺は直感した。


「なにか、大きなお役目でもいただきましたか?」


「さすが相棒、話が早い。……病み上がりで悪いのじゃがな」


「いえ、もう身体は大丈夫です。それよりも話を」


「うむ。……こたびの仕事は、ずいぶん大きいぞ」


「なんなりと、お話しください」


 俺がそう言うと、藤吉郎さんはニヤリと笑った。


「今川領に潜入し、情勢を探るお役目をいただいた。……弥五郎。わしに力を貸してくれんか?」

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