アルビオンの7
暗い部屋の中、日の差し込む窓は元から一つしかなく、そのうえ曇っているとなると本格的に明かりとなるものは何もない。
今更そんなことに恐怖を感じるほどここで過ごしてきた時間は短くなかった。
目の前のちゃぶ台に乗せられているであろう食事に手を伸ばす。何を食べているのかイマイチ分からないが、食べていればいいのだ。
味などしない、これはあくまで栄養摂取だ。それ以上の意味は持たない。
明かりもおいしい食事も、どうせ望んでも得られないのならば、最初から望みたくはない。無駄なエネルギーはすべて生きることに回したい。
明かりなど、光など――
突然、部屋の中に月明かりが入り込んできた。ぼんやりとした光は優しく少年の体を照らす。
開かれた入口のほうに誰かいるが見えない、目が暗闇に慣れてしまったせいで、月明かりでさえ直視できなくなっているのだ。腕で顔を隠す自分のもとへ、足音が近寄ってきた。
その影は少年のほうに近づくと、手を差し伸べてこう言った
「なに一人で寂しく食べてるの龍二、お姉ちゃんと一緒に食べるわよ」
少年――龍二――は遅ればせながら気づく。
――ああ、夢か。
夢から覚めるその瞬間まで、結局姉の顔は見えなかった。
でもそれでいい、だってこれは思い出でしかないのだから。
それに死んだ人間に固執してると、それこそ姉に怒られそうだ。
※ ※ ※ ※
昨日は見る余裕すらなかったが、この都市を歩いているといやでも目に飛び込んでくるものがある。
都市を囲うようにそびえ立つ山々だ。
城壁のように広がる山、時代が時代ならここは難攻不落の城西と呼ばれていたかもしれない……いや、もしかしたら今もそう呼ばれている可能性もある。
なにせ龍二はこの世界のことを何も知らないのだから。
そんなことを考えている龍二の耳に、はつらつとした声が飛び込んでくる。
「リュージはやく!」
石造りのアルビオンの町並み、人ごみの中を器用に駆けて行くアリスを眺める。
今日の彼女は出会った時のようなオーバーオールを着て、その特徴的なポニーテールを帽子で隠していた。
目が覚めて朝食を済ませた龍二は、直後に外に連れ出された。
腕時計が壊れていなければ現在午前九時、都市内は徐々に人の数が増えていっている。
今現在二人が歩いているのは、いわゆる商店街の様な通りだった。
大声を張り上げる店員、値切りを要求する若者、地面にものを置いて売っている露天商、青い空の下、彼らが放つ熱気は確かに一帯を温めていた。
「おいアリス、今日はなにかの祭りか」
「いつもこんなものよ、アルビオンで買いものしようと思ったらここくらいしかないもの」
「なるほど――で、俺たちはどこに向かってるんだ」
「最近ね、アイスクリームって食べ物ができたんですって、一回食べてみたかったのよ」
「……そうか、最近できたのか」
「え? なにか言った?」
「いや、何も、楽しみだな」
釈然としない顔のアリスと共に、通行人の流れに乗って前に進んでいく。
当然だが龍二にも外出の理由がある。
情報が欲しいのだ。ここがどういう世界なのかを知りたい。
帰るのが容易でないことは分かる。
何をどうすればいいのか見当もつかない今、おそらくしばらくの間はこの世界で生活することになるだろう。
それならば、出来る限りのことは知っておくべきだ。
常識、文化、人種、価値観、知っておくべきだ。アイスクリームの有無がどう役に立つかは置いておくが。
「そういえば本屋は無いのか」
「有るけど、本なんて読むの?」
「……普通は読まないか?」
「ううん、そんなことないけど……リュージってどこかの兵士でしょ?兵士って皆剣ばっかり振ってるから珍しいなって思ったの」
「いや俺は兵士じゃないぞ」
龍二が有らぬ誤解に驚くと、むしろアリスはそのリアクションに驚いていた。
「え!? じゃあなんの仕事してるの」
「……商人、になるかもな」
サラリーマンなので間違ってはいないはずだ。
アリスはきょとんとした顔で龍二を見上げると、堪え切れないといったようすで笑った。小さな腹に小さな掌をあてて、
「冗談でしょ、あんなに強い商人なんてきいたことないわ」
「そんなこと言われても困るぞ。本当のことだ」
「下手な嘘つかなくても言いたくないならそう言えばいいのに、あぁおかしい」
目もとに溜まった涙をぬぐっていると、商店街の一角に長い行列が見えた。恐らくあれが件のアイスクリーム屋なのだろうと龍二は見当を着けた。
二人が最後尾に並ぶ、思ったよりも行列は続いている。その先頭にたどり着くのはいつのことか。
ぼんやりと空を見上げる。気温は少し肌寒いくらいだが、雲ひとつない状態で降り注ぐ日の光を浴びていると流石に暑い。
汗が首筋から流れて行く感覚、昨日洗ってもらったばかりのスーツは今日も洗ってもらわないといけないかもしれない。
そんなことを考えていると、突然強めの風が吹いた。隣に居たアリスがかわいらしい声を上げてスカートを抑える。すると風は代わりと言わんばかりに帽子を空高く舞い上げた。
「あれまあアリス様じゃないですか」
「ああ本当だ!」
「おおい皆アリス様が並んでるぞ」
「あ……」
最初は前後に並んでいた数人にバレただけだったが、そこからは早かった。
伝言ゲームは非常に正確に最前列まで伝わる。
列に並んでいた全員が、一斉に道を開けて最前列までの通路を作り出す。
アリスは慌てて何かを言おうとしているが、それよりも早く二人の前に並んでいた男が、気のいい笑顔で言う。
「アリス様、お先にどうぞ」
「い、いやダメよ、皆だって並んでたんだから」
「良いんですよ、むしろアリス様を並ばせるなんてできやしません!」
ひとりがそう言えば、並んでいた別の女がそうだそうだと賛同する。
「皆市長には足を向けて寝れないほど感謝してるんです。その娘さんを並ばせるわけにはいきません」
「で、でも……」
「まあまあ、わしらを恩知らずにさせないためだと思って、さぁ!」
あれよあれよというまに、アリスは最前列まで連れて行かれる。
龍二は仕方なく列から抜けて、その横を通ってアリスのもとへと向かう。
店の前にたどり着いた時、両手にアイスを持ったアリスが列を譲ってくれた町人たちに軽く頭を下げてこちらに向かってきた。
「随分愛されてるな」
「感謝されてるのはパパよ私じゃない」
「そうか? 俺にはそうは――」
「いいから行きましょ?もっとゆっくり出来る場所で食べたいもの」
その表情に不満をありありと浮かべながら、アリスはその場から離れようと早足で歩きだした。
龍二はその後に続きながら、顔だけ振り返って並んでいる人々を見る。
アリスはあんなふうに言っているが、リュウジから見てあの人たちの顔にあったのはアリスに向けられた親愛の情だったと思う。
リュージは顔を前に戻すと早足でこの場を離れようとしているアリスの背中に、一抹の寂しさのようなものを感じた。
※ ※ ※ ※
薄いバニラの香りが鼻を抜けてゆく。
今二人が要るのは街の片隅にある公園、そこにある像の前だ。五メートルほどの像は台座部分から水を流す噴水になっていた。
二人は椅子にかけてアイスを味わっていた。ここに来るまで不機嫌だったアリスは新たな味覚との出会いにすっかり機嫌を直している。
「おいしい! かき氷みたいなのかと思ってたけど、違うものなのね!」
「……かき氷があるのにアイスはないのか?」
「何言ってるのよ、全くの別物でしょ? かき氷は味のついた氷みたいなものよ。こんな不思議な食感はしてないわ」
なるほど、つまり今までこの世界には天然の氷はあれど、冷凍技術が存在しなかったということだろう。
そういう意味では、龍二はこの世界の歴史的瞬間に立ち会っているのかもしれない……正直そんなに興味はないが。
龍二は、ベンチに背中を預けて空を仰ぐ。
口に入れたアイスと、ふっと流れていく風が温まっていた体をいい具合に冷ましてくれていた。
「良い場所だな。涼しくて、安心できる」
「でしょ? 私の一番のお気に入り、女神さまも見守ってくれるし」
「女神様ってのはあの像の人か」
「……そうに決まってるじゃない、まさか女神様まで知らないなんて言わないでしょうね」
「…………ああ、もちろんだ」
危うく顔に出そうになった焦りを、無理やり押しとどめて龍二はうなづいた。
どうやら知っていなければおかしいものだったらしい。
女神というからには、この世界の宗教だろうか――だとするなら非常に厄介だ。
龍二はその手のものに関わった試しがないため、推測することすらできない。ぼろが出るとすれば、ここになるかもしれない。
幸いアリスは龍二の様子には気づいていないようだった。
「それに、ここはいつも人が少ないから……楽でいいわ」
小さな声で理由を付け加えるその横顔は少し寂しそうで、龍二は順番を譲ってもらった時のアリスの様子を思いだした。
「……俺には善意で順番を譲ってくれたように見えたぞ」
「リュージはアルビオンのことどれくらい知ってる?」
「さっぱりだ」
「……ここはね、他の場所で生きられない人たちが集まって来る都市なんだよ」
「ほかでは生きられない? どう言う意味だ?」
「アルビオンはパパとママがはじめた都市、田舎って言われてる西の大陸の、一番西にある都市なの、リュージも外から来たなら分かるでしょ」
分からない、とも言えないので黙っていると、それを肯定と受けったのかアリスは話を続ける。
「一番近い都市まで馬車で三週間はかかる、情報的にも隔離された陸の孤島なの」
「……陸の、孤島」
「そんな場所にあるから、外で生きづらい人たちが集まって来るわ」
没落貴族、破産した商人、借金で首が回らなくなったもの、駆け落ちしたカップル、そんな世間では白い目を向けられる人々が最後のよりどころとして選ぶ場所、それが――
「開拓都市アルビオンってわけか」
「うん、パパもそういう人たちを拒まないから、皆パパにすごく感謝してる……その娘にも、良くするわよね」
特別扱いというのは疲れるものだ。
たとえそれが蔑視から来るものでは無くても、絶えずその視線にさらされるのはストレスがたまる。
この少女はいつも人から親切を受けるたびに、その善意の向こう側に父親の姿を見ていたのだろう。それはとても辛く、とても悲しいことだ。
「……なあアリス、お前はこの都市に住んでる全員と知り合いなのか」
「ううん、そんなことないけど」
「だったら決めるのは早すぎるだろ」
「え?」
「あの中にもしかしたら一人、二人三人、いやもっと、お前がお前だから順番を譲ってくれた奴も居たかもしれない」
「私が、私だから……?」
「ああ、全員に確認取ってこいとかガキみたいなことは言わないが、もしそういうやつがいたら、今のお前の言葉に傷つくんじゃないか」
「……」
「まあお前に何が分かるんだって言われたらそこまでだが、たまには俺のみたいに変な奴もいる――」
決めるには早すぎるだろ、と龍二は繰り返した。
少し説教臭くなってしまったが、十二もなってない少女が疲れた顔をして他人を語るのを見るのは嫌だった。
自分も『おっさん』になってしまった。まさか異世界で実感するとは――
「リュージ……」
「ん?」
「私、そんなにすぐに納得できない」
「ああ」
「――でもね、ありがと」
その笑顔は、少なくとも無理はしていなかった。
二人がそのまま噴水を眺めていると、公園の入り口から数人の子どもが入って来た。五、六才だろう。
「子どもは来るんだな」
「ええ、他にあんまり遊ぶ場所もないし……」
「どうした、不安そうな顔して」
「……あれくらいの子どもって、親がいないと危ない遊びをするんじゃないかって」
「心配しすぎじゃないか」
この公園には遊具らしいものは無い、せいぜい走って転ぶとか、喧嘩して擦り傷を作る程度だろう。
そんなことを考えていた時だった。一人の子どもが他の子どもの足を引っ掛けて転ばせた。
転ばされた子どもはきぃきぃと文句を言っていたが、相手が反省の色を見せないとみるや――片手を掲げて相手に向けた。
「いけない!」
子どもの指先から小さな火が灯ったのと、アリスの掌から飛び出した水が子どもたちをずぶぬれにしたのはほぼ同時だった。
「こら! 喧嘩で魔法使ったら、騎士団に捕まるわよ!」
子どもたちは蜘蛛の子を散らす一斉に逃げだした。アリスは何事もなかったことに安堵しながら、椅子に座り直し、
「ほら、だから危ないって言ったじゃない、あの年の子どもは魔法の使い方を覚え始めるから親が見てないと――どうしたの」
今の今まで異世界と言う言葉の重みに気づいていなかったのかもしれない。
せいぜい国が違い、ルールが違い、文化が違う、帰り方が分からないだけで外国と変わらないと思っていた。
だが決定的な、どうしても埋められない溝が有るとすれば、間違いなくこれだろう。
「今のは、なんなんだ」
剣と魔法のファンタジー、自分が足を踏み入れてしまった世界のあまりの荒唐無稽な常識に、さすがに顔を引きつらせていた。
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