休暇、請け負います。

弐ノ宮条次

[案件1] 『無理』というのは、嘘吐きの言葉だと思う。

「藤宮くん、ちょっといいかな?」


 課長の声でピタリとキーボードを打つ手を止める。

 佐々木課長の席はここから座席3つ分程度の距離なので、しばしばこうして、課長席から直接声をかけられる。

 抱えている6つの案件のうち2番目に重要な案件の資料を、日が昇る前からずっと作成している途中だったから、イスから立ち上がる時にひどい立ち眩みで倒れそうになったけど、勤労意欲を振り絞って課長のところまで向かった。


「はい、なんでしょう」


 課長の丸みを帯びた顔が、少し気まずい空気をまとっているのが分かった。これはいつものやつだろうか。


「君は最近、休みを全然取っていないだろう?」


「休み、ですか……?」


 意外な言葉に少し戸惑った。追加の案件が入ったとか、業務上の問題が発生したとか、なんにせよ、「今より忙しくなるからよろしく頼むよ」といったことをいつものように告げられると思ったからだ。


「そうだ。勤怠記録では、藤宮くんが最後に休んだのはもう20日前になっている。君は働きすぎだよ」


 「20日前」を思い出そうとしたけど、どうにも記憶があいまいになっている。

 不規則なリズムで交互に繰り返される出勤と退勤の連続が、ずいぶん長く続いているのは確かなんだけど、それがいつから続いているのか覚えがない。20日前と言われればそんな気もするし、3か月前とか半年前、それどころか生まれた時からと言われても納得してしまいそうだ。


「土曜も日曜も変わらず出勤している。仕事熱心なのは素晴らしいことだが、いいかげん休みを取らないと体に影響が出てしまうと私は思うのだが……」


 佐々木課長の言い分ももっともだが、今は休むわけにはいかない。仕事が残っているんだ。仕事が残っていて、クライアントが待っているのなら、ご迷惑をお掛けしないために働き続けるのが社会人の「責任」だ。

 「責任」は人を成長させる。素晴らしいことだ。成長の喜びを想像すると体にぐっと力が湧いてくる。立ち眩みを魔法のように消したあの力だ。僕はまだ働ける。


「課長、お気遣いはありがたいのですが、今僕がどれだけの案件を抱えているかご存知でしょう? こんな状況で休むなんて無責任もいい所です。責任こそ社会人のアイデンティティです」


「なるほど……。君の正直気持ち悪いくらいの勤労意欲が、一体どこから湧いてくるのか見当もつかないがね、これは君のアイデンティティよりも重要な問題なんだよ。働き方改革という言葉は知ってるよね? 最近は私も、上から色々と言われててね」


「それは……」


 課長の言わんとすることは分かった。どうやら、昨今の働き方改革の影響を受けて、休みが少ない職場環境を改善させたいと経営陣が判断したんだろう。今ごろ他の部署でも、部内で一番忙しい社員が休みを取るよう勧められているのかもしれない。この部署ではそれが僕だったというわけだ。


「どうか分かってくれないかな、藤宮くん」


 そういう事情があるのなら、さすがに考えないわけにはいかない。とはいえ、こっちにもこっちの事情があるんだ。引き下がりたくない。一体どう答えようかと悩んでいるうちに、ふと2日前に手に入れた名刺のことを思い出した。


「課長、少し待っててください」


 僕は席に戻って自分の鞄の中を探り、一枚の名刺を手にした。課長のもとへまた戻り、少し前に社外で受け取ったものなんですが、とそれを渡した。

 なんだねこれは、と課長が訝しげに名刺の印字を見ている。

 


 2日前の会社の帰り、寄っていた書店の出入口を出たタイミングで、見知らぬ女性から声をかけられた。


「わたくし、このようなものなのですが」ピシッとしたスーツ姿の若い女性が名刺を差し出している。

 

 普段この手の勧誘は適当にあしらって関わらないようにしていたけど、ちょうど書店で人生にとって必要不可欠であるビジネス書やありがたい自己啓発書を1ダースほど購入して上機嫌だったから、なんとなく名刺を受け取ってこの人の話を聞いてみることにしたのだ。


「まことに失礼ながら、店内でのご様子を拝見させていただきました。大変熱心に仕事に打ち込んでいる方と存じて、お声がけした次第でございます。

 恐れ入りますが、最近、休暇をほとんど取っていらっしゃらないのではございませんか?」


 どうやら僕の長い立ち読みはずっと観察されていたらしい。

 渡された名刺を見ると、この女性が「オルタナティブワークス」という会社で働く、「一ノ瀬カワリ」という名の社員であることが分かった。変わった名前だが、それ以上に奇妙な肩書きが名前の側に印刷されていた。



「休暇……代行士……?」課長が困惑した表情で口にした。


 僕も似たような表情で同じことを口にしたのを覚えている。あっけに取られた僕に対して、この一ノ瀬カワリという女性は明瞭な声で説明し始めた。

 

 世の中の中々休みが取れない社会人のために、代わりに休みを取ってくれるサービスを提供する仕事があるということ。

 休暇代行士である自分がその仕事を請け負っていて、という一見矛盾に満ちた行いを実現できるということ。

 そして、もしご利用の機会があれば記載のアドレスか電話番号に連絡をしてほしいということ。


 僕は彼女から聞いた話を、そのまま課長に説明してみせた。


「いやそんなバカな話が……」


 課長はさっきより困惑した表情になっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る