彼方の雫
鏡野ゆう
第1話 突然の訪問者
真夏の日差しが照りつける野外のイベント会場。
会場には、来場者に少しでも涼を感じてもらおうと、人気のキャラクターを模した氷柱が立てられたり、涼しげな音を響かせる風鈴を下げたり、また、会場のあちらこちらに、最近はやりのミストシャワーも設置されている。
そんな中で、浴衣に着替えた
夏休みのイベントとあって家族連れが多い中、もちろんアルコールが飲めない来場者用には、ノンアルコールの梅ジュースで作ったシャーベット等も用意している。晴天で気温がどんどん上昇する中、どちらも好評で売上は上々だ。
「あっつーい!」
午前中の担当時間を終え、休憩のために別のスタッフと入れ替わりテントに戻ったとたん、汗がドッと吹き出てきた。クーラーボックスに入れておいたスポーツドリンクをがぶ飲みしながら、一緒に入れておいたタオルで額や首筋を拭う。
「お疲れさま。水分補給はきっちりして、熱中症にならないようにね」
そう声を掛けてきたのは、実家の造り酒屋で働く事務員の女性。
彼女だけではなく他の社員達も、今日のイベントのために
「大丈夫ですよ、こっちの暑さは慣れてますから。
「それは私が年寄りってことかしら?」
「まさかー! 東北と関東じゃ夏の暑さも違うでしょ? こっちはコンクリートジャングルだし、ここはまだ海が近いからマシだけど、照り返しは半端ないもの」
「たしかに、うちの会社の周りはまだ自然が豊かだから、夏でもそれなりに涼を感じることはできるわね」
彼女達がこちらに出てきてまず驚いたのは、ビルの高さと空の狭さだったと言う。生まれた時から東京に住んでいる千夏にとっては当たり前の景色が、彼女達にとっては、どこか異世界的な雰囲気が漂う世界に見えるらしい。
千夏は母親の実家に戻ると、東京では見ることのできない零れ落ちそうな星空が拡がっていたり、小川では蛍が舞っていたりと、昔話の絵本の中から飛び出した風景のようだと思っていたが、それとは真逆の印象を、彼女達は千夏のホームタウンに抱いたらしかった。
「それで商品の在庫具合はどうです? あと一日、持ちそうにないような気がするんだけど」
「こんな暑さでしょ? 思いのほか梅ソーダと梅ジュースが人気でね。お酒よりそっちの方が怪しくなってきたから、追加で持ってきてもらうことにしたわ。今頃、うちの旦那が、こっちに向けてトラックを走らせているはず」
梅酒と梅ジュースも、実家で手作りされたものだ。近くの寺院の敷地に咲いている梅の木が実をつけたものなのだが、毎年引き取り手も無く落ちて腐るのに任せていたのを、もったいないと祖父母が譲り受け梅酒を作るようになって十数年。今では日本酒と並び、定番商品としてすっかり馴染んでいた。
「じゃあ、ゴンさんにも会えるんだ」
「旦那も張り切ってたわよ。久し振りに千夏ちゃんに会えるって」
「だけどほとんどの社員がこっちに出張ってきちゃって、あっちは大丈夫なのかしら? 残っているのは伯父さん達だけ?」
「あれ、知らなかった? あっちは今週は臨時休業。今はインターネットで受注できる時代だからね。出荷人員さえいれば問題ないみたいよ」
「いつの間にネット通販まで……」
以前は、全国のデパートで催される催事にも出品していたのだが、インターネットの普及に目をつけたイトコが、数年前から売り上げの一助になればと、小規模ながらも通販サイトを立ち上げたのだった。それが軌道に乗り、今では売上の四分の一を、通販サイトの売り上げが占めているということだった。
「地元だけじゃなく、日本全国の日本酒好きな人に飲んてもらいたいっていう、社長の野望の第一歩ってところね」
「ああ、そっか。伯父さんの野望は『目指せうちの日本酒で世界征服』だもんね」
つまり、販路拡大は日本全国ではなく、全世界を目指しているということなのだ。小さな造り酒屋が、どこまで世界に通用するか分からないが、夢は大きくというのが伯父のモットーであり、今のところ一歩ずつではあるが、順調に進んでいるようだ。そしてその第一歩が、今では夏の定番商品になった、スパークリング清酒や清酒シャーベットという新しい商品だった。
「もしかして、本当に世界征服しちゃうかもね。そのうち海外からも引き合いがきたりして」
「英語、ちゃんと勉強しておかないといけないかしら」
この年でも今から頑張れば、英語を読むぐらい何とかなるかしらねと、依田さんが楽天的に笑った。そこへ売り子として出ていた店員の一人が、少しばかり困った顔をしてやってきた。
「どうしたの?」
「いえ、今、お客さんが来てるんですけど外国の人で」
「え、まさか世界征服の第一歩?!」
まさか?!と顔を見合わせる。
「そんな感じじゃないんです。ただこのお酒を造った人の話を聞きたいって。しかも、ものすごく日本語が
「日本語が話せるの? だったら安心ね。造った人と言っても、
「え、私?!」
「だって経営者親族でしょ?」
「そうだけど、お酒の造り方なんて、私もネットで調べられる程度の知識しかないんだけどな……」
詳しいことを尋ねられたらイヤだなと思いつつ、伯父の野望の足掛かりになるかもしれない相手を
テントから出て売り場のあるブースに行くと、背の高い見るからに外国人でございますという男性が立っていた。その手には紙コップがあり、匂いをかぎながら一口ずつ味わって飲んでいるようだ。その様子からして、美味しいと感じていることが分かった。
「あの、お待たせしました。ここの酒屋の関係者のものですが」
「ああ、すみません、わざわざお呼びだてして」
その口から出た日本語があまりにも自然で、ビックリしてしまう。
「どういったご用件でしょう? ここには仕込みなどをしている職人は来ていないので、詳しいお話はお聞かせできないと思うのですが」
「私が知りたかったのは蔵元さんのことなのですよ。もしかして、蔵元さんのお名前はクゼユウイチロウさんなのではありませんか?」
「
とたんにその男性が、歓声をあげてバンザイをした。あまりのことに思わず一歩さがる。千夏の様子に男性は、自分が一人ではなかったことに気がつき、慌てて咳払いをして申し訳ありませんと頭を下げた。その仕草がいちいち日本人臭くて、不思議な感じだ。
「やっと見つけました。久瀬勇一朗さん! インターネットで調べても、造り酒屋さんで久瀬さんという屋号は存在していないので、探すのを諦めようと思っていたのですよ」
「ああ。曽祖父は瀬能の家に養子に入ったので、結婚した時に瀬能姓になったんです。つまりファミリーネームが変わったというわけですね」
「なるほど! そういうことだったのですね、ムコヨウシというものでしたね、たしか。ということは、奥さんになった人は、
「そうです。ところで曽祖父とはどういった?」
まさか曽祖父の隠し子?と、相手のことを探るように見上げる。年は四十前後といったところ。四十年前であれば、自分の母親が産まれた頃であり、まだ曽祖父も色々な意味で現役であった可能性はある。だがその頃は、酒造りに没頭していて仕事を休むことなど
「申し遅れました。私は東京のアメリカ大使館の職員で、名前はエルウィン・ジン・トロサと申します。鈴子さんのお兄さんの、孫にあたります」
「……へ?」
「孫です。こういう場合、勇一朗さんとはどういう関係になるのでしょうか。義理の兄の孫にあたるので、私からすると勇一朗さんは大伯父ですが……たしか日本語では、
聴き慣れない単語に
「あの、大丈夫ですか?」
「……詳しくお話を聞いた方が良いかもしれません。曾祖母のお兄さんは、太平洋戦争で戦死したと聞いていたので、何が何やら……」
「勇一朗さんは御存命なのでしょうか。御存命ならきっと、私の話が本当だと証明していただけると思うのですが」
「残念ながら曽祖父は、五年前に他界してます。曾祖母も七年前に」
「そうですか……」
落胆した様子の男性に、少しばかり同情する。もしかしたらこの人は、自分のルーツを探しに来たのかもしれない。戦中戦後の混乱期には、様々な人間模様があったという話はよく聞く。この男性が戦死したはずの曾祖母の兄の孫だという話が、
「私よりうちの両親の方が、曽祖父のことをよく覚えていると思います。もし良ければ二人に連絡して、こっちに来てもらうこともできると思いますが」
「もし差し支えなければ、お願いしたいと思います。やっとたどりついた祖父のルーツなので」
千夏は、ずきずきと痛みだしたこめかみのあたりを押さえながら、スマホを取り出した。
+++++
それから一時間後、千夏達は屋内の喫茶コーナーにいた。
「この辛さ、匂い、作っている米が違うからかなり違うのですが、やはりどこか懐かしい匂いと味がして、祖父の故郷の話は母から聞いていたものですから、もしかしたら、祖父が生まれ育った地域の蔵元の酒ではないかと思ったのですよ」
そう言って、紙コップに注がれた酒の香りを、懐かしそうに嗅いでいる。トロサの母親は、東南アジアのとある国の出身で、働き先で出会ったアメリカ人男性と結婚して渡米をした。なので彼はアメリカ人なのだが、故郷の話はよく母に聞かされていて、その中で日本人だった祖父の話を聞いていたという。そして大人になってから自分のルーツを探すため、母親の故郷を訪ねた時に、祖母達一族とその酒に出会ったということだった。
「祖父は自家製の酒に、“フルサト”と名づけていたそうですよ。村の人達は祖父の名前をつけて、“ハヤトサンノサケ”と呼んでいましたが」
「今も作られているんですか?」
「売り物としてではなく、人々がたしなむ程度にですが。だから私も味を知っているわけです」
戦争で亡くなっていたと思っていた曾祖母の兄が実は命を永らえ、異国の地で地酒を造っていたとは感慨深いものだった。しかも今でも、細々と造られているというのだ。
「お爺ちゃんとお婆ちゃんが聞いたら、きっと喜んだわね」
母親が残念そうに呟いた。曽祖父は、彼の幼馴染が亡くなっているだろうと考えていた。もし生きていたと知ったら、きっと会いに行ったのではないかと思う。
「どうして知らせてくれなかったのかしら。いくらでも知らせる方法はあっただろうに」
「多分、母が生まれたからではないでしょうか。祖父が亡くなったのは、戦争が終結して十年後のことですが、祖母は故郷を離れたがらない人だったそうですし、妻と子どもを置いて一人、帰国するわけにはいかなかったのかもしれませんね。祖父の存命中は、まだ戦後の混乱期が終わっていない時代でしたから」
四人の間に、しみじみとした空気が流れた。
「そのお酒を、勇一朗さんに飲んでいただきたかったのですが、残念です」
それから、ああそうだとポンと手を叩いた。後に母親が千夏に話したことなのだが、その時の仕草が祖母にとても似ていたらしい。血は水より濃いとはよく言ったものだと笑っていた。
「私、来週なのですが祖母の墓参りにいくのですよ。その時にお酒を持ち帰って、皆さんにお届けします。日本の造り酒屋さんの造るお酒とは、比べ物にならないとは思いますが」
それに検疫の問題もあるので、少し時間がかかるかもしれませんと付け加える。そこでトロサと千夏の父親が、それぞれ連絡先の交換をした。そして次に会うのは、仙台の実家でということになった。
「来週と言うとお盆ですか」
「ああ、そうですね。もしかしたら祖父が、めぐり合わせてくれたのかもしれません」
そう言って浮かべたトロサの笑みは、写真に残っている曾祖母とそっくりなものだった。
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