ブルームーンフォレスト
前園光
第1話 蜘蛛
「きゃ」
浴室から彼女の小さな叫び声が聞こえた。
「どうしたの?」
「蜘蛛が浮いてる・・・」
そこには綺麗な線対称に折られた紙のような真っ黒な蜘蛛が浮いていた。
「さっき溜めたばかりなのに」
そういって彼女はドレインストッパーを外した。
「わざとだわ」
ふいに彼女が独り言のように言った。
「え?」
「蜘蛛のことだよ。」
「わざと湯舟に飛び込んだってこと?」
「そう。蜘蛛って温度が感知できるのよ。なのにわざわざ浴室に来るなんて。」
「可愛い女の子と混浴したかったんじゃない?」
僕はやりかけの用事があったので、早くその場から立ち去るためにジョークを放った。
「冗談はよしてよ。」
彼女は突然険しい顔つきになった。
「どうしたんだよ。ちょっとした戯れ合いだよ。」
「私ね、蜘蛛は自らの意思で湯舟に飛び込んだと思うの。つまり、人間でいう入水自殺ってところかしら。巣をつくって獲物を捕獲して、時々何かの理由で巣が破壊されて、また最初からやり直し。そんな空っぽの繰り返しにうんざりしちゃったのよ。」
いっぱいに溜まっていた透明な水が、真っ黒な蜘蛛と一緒に排水溝へ吸い込まれていった。
「そうかな。もし蜘蛛自身が空虚に思っていたとしても、僕は雨上がりの陽の光に反射した蜘蛛の巣の美しさを賞賛したくなるけれどね。」
「綺麗事よ。蜘蛛の巣なんて獲物を捕食するためのものにすぎないわ。」
「そうだとしても美しいと思うよ。捕食のためのものなら、巣は蜘蛛にとって命そのものだ。その意味がまたより魅力を増す気がするよ。」
洗剤を付けたスポンジで綺麗に浴槽を掃除しながら、しばらく彼女は黙っていた。
「他人から賞賛されても自分にとって無意味で空虚なことほど苦痛なことはないわ。もちろん誰かの心を動かしたり、認められたりすることはすごいことよ。でも、自分の生活を肯定できないことは不幸なことよ。蜘蛛には巣を張る以外の術を知る能力を生まれつき持ち合わせていないんだから、必然的に生き方は決められているのよ。それを否定するっていうことはつまり、死なのよ。そしてそれは人間にも言えることよ。生まれつきすべてが決まっているの。踊っているつもりで踊らされてるってわけ。」
「本当にそうかな。確かに一人だけじゃ、はじまりのままの状態で終わってしまう。けど、たくさんの人や本と出会って刺激を受ける中で人は変わっていけると思うんだ。知らないことを知る。それだけで人生はずいぶんと違う方向へ進むものさ。大切なのは知ることだよ。知識は最強の武器だよ。人間に与えられた賜物さ。知ることで選択できる。本当はみんな、どう生きるかを選べるんだ。ただ知らないから絶望したり、自分から不幸な道へと進んでしまうんだ。大切なのは知ることだよ。」
彼女の手のひらに握られたシャワーからでてきた透明な水が、浴室灯に反射して無数の光の粒となって溢れだした。
浴槽は真っ白で輝いていた。
数分後にはまた透明の水で満たされるのだろう。
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