第3話

 相馬の反応に康則は、小さく安堵の息を吐いた。 

 山下埠頭事件直後、調査中を進める康則の頭に、何かが引っ掛かった。勘を信じて調べてみれば、鬼化した男は、二十年前に堀川の恋人を喰い殺した鬼が所属する組織の人間だったのだ。

 横浜界隈に蔓延する数多の地回り、暴力団、不良グループ。どの組織に男が所属していても、おかしくはない。だが、二十年前の事件と同じ場所で、同じ組織の人間が、同じように女を喰い殺したとなれば関連性を疑う。

 故意だとすれば、鬼龍への挑戦状。漠然とした憶測は、良昭の企みと真情の吐露によって外形を成し、託された情報が核心をついた。

 相馬を信用し、自身で気付いてもらうため明言を避けた。おそらく、何か心当たりがあったのだろう。相馬が期待通りの結論を出すまでに、時間は掛からなかった。

 以前、康則も久米に言われた。

「事実は伝えられても、真実は伝えることは出来ない。真実は自分の手で掴まなくては、何も解決しない」

 一つの真実を掴むため、大きな犠牲を払った。

 この真実が、全てではない気がした。

 しかし、先に何があろうと康則が今やるべき事は、然るべき成果を携え一刻も早く将隆の元に帰ることだ。

 互いに一言も口を開かず時計を見つめ、夜が明けて人々が動き出す時間を待った。

「いつもの時間に、登庁しているそうだ」

 県警本部に問い合わせの電話を掛け、相馬が苦渋の表情を康則に向けた。心のどこかで、対決の先延ばしを願う気持ちが表れている。

 相馬と一緒に県警本部執務室を訪れるのが、堀川と向かい合う一番リスクが少ない方法だ。たとえ康則一人で行くと申し出ても、承知しないだろう。

 ヴィンテージものだがサイズが合わなくなったと言い、相馬は色褪せたジーンズとカジュアルシャツを貸してくれた。

「空身では君も、心許ないだろう? 刀はゴルフクラブケースに隠して、俺が持って行く。職場の先輩に誘われて購入してから一度も出番がなかったけど、こんなところで役に立つとはね」

 冗談めかして笑ってから支度を済ませ、真顔で車のキーを手に取った相馬は康則に向かって頷いた。


 ◇


 土曜日の朝、オフィスビルに囲まれた県警本部付近は、車も人影もまばらだった。

 蒸し暑い日だ。東京湾方面には黒く重い雲が立ちこめ、湿気を含んだ潮風が肌にまとわりつく。

 不快感を少しでも軽減しようと思ったか、相馬が自家用車のドアウィンドウを閉めてエアコンを入れた。カーステレオからは、FMラジオの音楽が低い音で流れている。

 康則は相馬に、少なからず負い目を感じていた。鬼龍家が果たすべき職務に、一般人を巻き込んでしまったからだ。

 不思議だった。相馬は利害関係を何も考えず、自分の正義と善意に従って動いている。悪を憎み、戦うために、自分に足りない力を持つ者と協力を厭わない。

 警察を利用し、真実を知られることなく情報を得て、事件を解決できると思っていた。ところが実際は、深く関わり合い、自分が助けてもらうことになった。

「俺から聞いたとは、言わないで欲しいんだけど」

 突然、ハンドルを握る相馬が前置きをして話し始めた。

「将隆くんに初めてあった時、冷静で何事にも動じない強い精神を持つ少年だと思った。だけど、君が拉致され暴行を受けてると知った将隆くんは、焦りや怒りで冷静さを失っていたよ。一刻も早く友人を助けたいと願う、普通の少年だった」

 黙って相馬の話を聞きながら、康則の心中は複雑に乱れる。

「将隆くんは、確かに強い。でもね、強くあろうと思えば思うほど、孤独で脆くなるんだ。君の弱さは、将隆くんが補ってくれるだろう。だけど彼の危うさを補えるのは、康則くんだけだと思うんだ」

「俺に……出来るでしょうか?」

 将隆と自分は、互いの不足部分を補い協力し合うことが出来るのだろうか?

「君はもう、戦うべき相手も理由も解ったはずだ。必ず、出来るよ」

 康則は大きく一呼吸してから、相馬に答えた。

「はい」

 何かが自分の中で変わった、そう感じた瞬間だった。

 やがて車は、白亜の要塞にも思える神奈川県警本部前に到着した。

 駐車場に車を止め、職員出入り口から中に入る。相馬は警備員に、康則の同行を上手く説明したようだ。

 上階にある堀川警視正の執務室へ向かう前に相馬は、「必要なものがある」と言って康則を使用していない会議室で少し待たせた。以前の康則なら、他者への内通や工作を疑うところだが、相馬を信用した今は必要ない。

 エレベーターに乗り、刑事部の先にある会議室を通り過ぎて執務室前に立った。

 軽くノックしてから、返事を待たずにドアを開ける。

「ハイエナのような社会面記者から、不意打ち訪問を受けたことはあるが……部下の立場としては少々、非礼ではないかな?」

 デスクでPCのモニターを見ていた堀川は顔を上げ、入室した相馬と康則に向かって鋭い視線を投げる。寸分の乱れもなく着込んだ、ダークカラーのスーツ。品の良いネクタイ。気のせいか以前より、少し体格が大きく見えた。

「非礼を詫びるかどうかは、あなたの返答次第です。堀川部長は……鳴海良昭を、御存知ですね?」

 康則を遮るように、相馬が前に進み出た。

「聞いたことのない、名だな。不躾な行為を正当化できるほど、重要な人物なのかね?」

 表情を変えない堀川に、やや苛ついた口調で相馬は続ける。

「では、あなたが鳴海良昭を直に御存知ないと仮定した上で、我々が得た情報を説明しましょう」

 携帯に送られてきたムービーファイル、康則が拉致されている場所に向かうまでの経緯、救出、そして良昭から託されたマイクロSDカードの中身。

 相馬は険しい目で堀川を見つめ、私見を挟むことなく淡々と報告を続けた。報告が終わり、訪れた沈黙を康則が破った。

「すいぶんと平静に構えていますね、堀川警視正。報告内容に、興味がありませんか? それとも……報告を受けるまでも無く、すべて掌握済みということかな?」

 ふっと、口元を緩め立ち上がった堀川は、デスクから離れて窓際に立った。

 シラを、切り通すつもりか? 張り詰めた空気が、執務室を満たす。

「そう……鎧塚くんを拉致し、相馬をおびき出して二人を殺せと鳴海に命じたのは、私だ」

 逆光に黒く浮かび上がった堀川の全身から邪気が放たれ、渦を巻く。

「大方は、計画通り運んでいたが……鳴海の裏切りは、想定外だったよ。将隆に気付かれたら勝ち目はないと解っていたはずなのに、敢えて誘い出したのだから。頭の弱いガキと侮っていたが、どうやら彼の暗部を読み違えていたらしい」

 挑発だと解っていても、込み上げる怒りが抑えられない康則を、堀川が嘲笑った。

「罠に掛けたつもりで、私の方が罠に掛かるとはね……。面倒だが、自分の手で始末をつけなくてはならないようだ」

 堀川は、康則が武器を持たずに訪れたと思っている。出方を伺いながら、間合いを詰めた。

「いまさら口封じのため、俺達を殺しても手遅れだ。将隆は必ず、おまえを狩る。逃げられると思うな」 

「それは、どうかな?」

 窓から離れた堀川は上着を椅子の背に放り投げ、ネクタイの首元を緩めた。

「鎧塚くん……君が将隆の弱点だと聞いたのは、鬼龍家の人間からだ。康則を亡き者にすれば、将隆を思い通りにできる、とね。そして私が君の始末を引き受け、将隆の制御は、その方にお任せすることにした。ついでに相馬を始末しようと考えたのは、この先、邪魔になりそうだったからだ」

「まさか……嘘だ、信じるものか!」

 鬼龍家内部に、敵がいる? 

 いや、信じてはならない。敵は康則を撹乱し、優位に立つつもりだ。

 だが、もしも本当のことなら?

「動揺しているな? おまえが生きて鬼龍家に帰られたなら、あの方が望む崇高で甘美な理想世界を伺うが良い。ただし、その機会は今ここで、私が潰すことになるが」

 堀川の表情が、穏やかな紳士から獰猛な獣の形相に変わった。木片を裂くような破裂音が響き、血塗られた三本の角が眉間を突き破る。Yシャツが張り裂けんばかりに胸筋が盛り上がり、数個のボタンが弾け飛んだ。

「三つ角鬼童子(みつつのおにわらし)……」

 呟いた康則の目の前で、高齢の貧弱な身体が若々しいアスリートの身体に変わる。天井に届く、精悍な体躯。覇気溢れる顔貌、張り詰めた皮膚。

「堀川部長……あんた本当に、鬼になっちまったんですか? 俺は……俺は最後まで、あんたの事を諦めないつもりだった……」

 後退りする相馬の顔から、血の気が失せた。

「残念だよ、相馬くん。君の成そうとする正義と、私の正義は、次元が違った。私はね、多くの人間を苦しめ殺しておきながら、法に守られ生き延びている輩が許せないんだよ。出来る事なら犯罪者すべてに被害者と同じ苦しみ、同じ痛みを与え、この手で殺してやりたかった」

「自らの手で犯罪者を鬼に変え、鬼龍家に殺させることが、あんたの裁きなのか? 自分の理想を具現するために、鬼になったのか!」

 相馬の叫びに歪んだ笑みを浮かべ、堀川が詰め寄る。

「こんな考え方は間違いだと思い、改変を期待して警察組織で地位を上げたが無駄だったよ。地位が上がれば上がるほど殺したい人間は増え、どうにも出来ない苛立ちに何度、喉を掻きむしったことか!」

 康則は相馬の手からクラブバックを奪い、中から白鞘の刀を取りだした。良昭の心が託された、形見の刀だ。

「堀川、おまえの理想は世の中を地獄に変える。俺は、俺の大切な人達に、地獄を見せるわけにはいかない!」

 鬼化を望む人間に、心の底から怒りが湧き上がる。初めて自分の感情で鬼化を憎み、大きな目的を持って倒したいと思った。

 誰かの為ではない、自分自身の正義が何か、見えた気がした。

「今の内に、ほざいておけ!」

 堀川の右腕が、胸元に延びる。素早く逃れ刀の鞘を払おうとした康則は、だが突然、固まったように動けなくなった。

 堀川の左手が、しっかりと襟首を捉えている。

「私は、おまえが今まで相手をしてきた雑魚とは違う」

 高々と吊り上げられた康則は次の瞬間、壁際のキャビネットに激しく叩き付けられた。身を起こそうとする間もなく、堀川の拳が鳩尾に沈み、胃を抉り上げる。

「ぐっ……かはっ!」

 昨夜から殴られ続けている腹が、耐えきれずに血の混じった胃液を逆流させた。

 眼前に迫る蹴りを間髪を入れず逃れたところで、スチール製の頑丈なキャビネットが大きく凹む。

 血を吐き床に転がりながら、猛攻を必死にかわした。

 堀川は、なかなか反撃の機会を与えてはくれない。

 巨大化した堀川の腕と足は、康則より広範囲に攻撃出来る。突きを避けて飛び越え、盾にした応接セットのソファーが、一撃で粉々になってしまった。

 確かに強い。今までの相手とは、格が違う。

 もどかしそうに相馬が銃を構えたが、撃つ事が出来なかった。休日で職員数が少ないとはいえ、銃声が聞こえれば誰かが駆けつけてくる。巻き添えで、犠牲者を出すことになるだろう。

 劣勢のまま、重厚なオーク材の執務机に退路を断たれ、肩を鷲掴みにされた。

 堀川の身体が重く伸し掛かり、飢えた肉食獣の眼が康則の瞳を覗き込む。

「鎧塚の血族は、〈渡辺の綱〉が酒呑童子退治に出向いた時、自らの身に毒を仕込んで喰わせ、綱の戦いを助けた姫の血筋と聞いた。おまえの血肉は甘露か? 毒か? 味見するのも良いが、交えて仲間にするのも面白そうだ」

「どちらも、断る!」

 唇を吊り上げ下卑た笑いを浮かべながら堀川は、品定めするように舌舐めずりをした。湧き上がる嫌悪感に抗いながら、抵抗の意を込め睨み続ける。

 鬼は、康則の気力が萎えるまで、楽しむつもりだ。

 落ちれば、喰われる。

 身動きを封じられながら、どうにか右手を伸ばして机上をまさぐると指先がペン立てに触れた。

 一瞬でいい、隙を作れば反撃できる。

 役立ちそうな細く硬いペンを選び、握りしめた。

「康則から、離れろっ!」

 康則の動きで、意図に気付いたらしい。突然、相馬が一メートル以上もある大きなトロフィーを掲げて堀川に殴りかかった。

 頸の付け根を直撃したトロフィーが真二つに裂けても、鬼化した堀川には蚊に刺された程度しか感じないようだ。

「私の愉悦の時を、邪魔するな」

 左手で康則を押さえ込んだまま右手で相馬の胸ぐらを掴み、応接セットのテーブルに投げ飛ばす。木製のテーブルが裂け、破片が相馬を血塗れにした。

 しかし、康則には好機だった。

 のし掛かる堀川の重みが僅かに離れた隙に、身体を捻り踵を下腹部にねじ込む。揺らいだ足下を改めた堀川が、体制を整える間を与えず鋭いペン先を右目に突き刺した。

「おおおぉぉうっ!」

 両手で顔を覆い、堀川は上体を仰け反らせた。鬼化により皮膚や筋肉は強靱になっても、裸眼は脆いのだ。

「康則!」

 大きく放り投げられた白鞘が、弧を描いて康則の手元に収まった。

 刃毀れ一つ無い、美麗の刀身を居抜きざま、堀川の胴を払う。

 血飛沫を上げ、傾いた身体を更に蹴り飛ばし、返す刀で首を刎ねた。

 天井の照明が砕かれ、血の雨と白い雪のようなガラス片が床に降り注ぐ。首は重い響きと共に、応接セットのソファーに転がり落ちた。

 しかし、血走った眼は生気を失ってはいなかった。

 正面に歩み寄った康則を睨みつけ、ゆっくりと口を開く。

「康則くん……君は私の理想が世の中を地獄に変えると言った。だが、罪を犯しながら世間を欺き権力を手にする者達を、いったい誰が裁くのだ? 老いた彼等が最後に求めるのは、美しい身体と漲る活力だ。早い段階で始末すれば、悲劇の連鎖を未然に防ぐことが出来るのではないか?」

 ……悲劇の連鎖? 

 その言葉は、康則の記憶の隅から何かを引き出した。

 いつ、誰から聞いたのか? 

 釈然としないまま康則は、刀身を振り切り血糊を払う。

「人は、法によって人が裁きます。鬼化した者は、彼等が不幸を招く前に必ず俺達が止める。だから、あなたは安心して眠って下さい」

 眉間に突きつけられた切っ先を見つめ、堀川が笑った。

「生意気を言う……だが、いいだろう」

 斬り落とされた三本の角が床に転がり、堀川は静かに目を閉じた。

「堀川氏の動きは封じましたが、〈業苦〉は将隆でなければ絶てない。後の処理は……」

 康則が言い終える前に、相馬が了解の仕草で両手を挙げる。

「後のことは心配しなくていい、将隆くんが役に立つ男を紹介してくれたからね。君は、一刻も早く鬼龍家に帰るんだ。堀川部長の言葉、気になるだろう?」

 頷く康則に、相馬が続けざま何かを放り投げてきた。宙で受け止めた一つ目は携帯電話、もう一つはセキュリティーキーだ。

「携帯電話は後で返してくれ。俺は、この部屋の電話を使う。そのキーは、ドアを出て左手突き当たりにある非常階段に入るためだ。さすがに玄関から御帰り願える格好じゃないからな、念のため用意して良かったよ」

 言われて自らの服を見れば、シャツもジーンズも見る影もなく破れ、返り血と吐瀉物に汚れている。

「助かります」

 礼を述べた康則に相馬は、早く行けと掌を振って見せた。

 執務室を出て非常階段に入ると、躊躇うことなく鬼龍家に連絡を取り迎えを頼んだ。

 堀川の言葉が真実なら、通じている人物は康則に対して行動を起こす。だが、いまは執事の鈴城を信じるしかない。

 階下に降り、屋外に通じるドアを開けたところで運悪く、若い制服警官に出くわした。素早く当て身をくらわせ気絶させてから、非常階段に運び鍵をかける。

「すみません、急いでいるので……」

 頑丈な非常口ドアに向かって一礼した康則は、鈴城が指定した合流場所に急いだ。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る