【第4章 罪と代償】

第1話

 最悪だ。

 康則は横隔膜に力を入れてから、深く息を吸い込んだ。大丈夫だ、肋骨は折れていない。

 次に、大型フォークリフトにナイロンザイルで括られた両腕と、かろうじて爪先が床に着いた両足の筋肉を緊張させる。激痛が脳天まで突き抜けたが、こちらも骨は折れていないようだ。

 クラブから連れ出され、気付いた時には自由を奪われていた。

 気分は最悪だが、数人の男に殴られたおかげで意識がはっきりした。不幸中の幸い……と思う事にしよう。

「これだけ殴られたら、また気を失うと思ったんだけどな。さすが〈鬼狩り〉、鍛え方が違うね。クスリの効果も三十分しか保たなかった。鞠小路は康則の半分しかクスリを飲まなかったのに、当分、気が付きそうもないぜ?」

 頭の後ろに手を組み、良昭が戯けて笑った。康則は気力を奮い、顔を上げて良昭を睨みつける。

「……良昭、おまえが〈業苦の鬼〉なのか? だが何故、〈鬼狩り〉の存在を知っている? 誰に聞いたか知らないが、俺を殺しても無駄だ。鬼化した者は必ず狩られ……」

 背中に強い衝撃を受け、言葉が詰まった。良昭の仲間が、鉄パイプを振り下ろしたのだ。

「おい、これ以上、痛めつけるなよ。鬼龍の殿様が来る前に、死んじまうだろ?」

 困ったように眉を寄せ、良昭は仲間から鉄パイプを取り上げた。

「悪いね、康則。さっきの暴行も、俺がやらせたんじゃないんだ。こいつら、仲間をあんた達に殺されて、気が立ってるんだよ。先週の土曜日、山下埠頭で派手な見せ物をしてくれただろう? あの時、斬られたのが仲間の一人だったのさ」

「あの鬼が、仲間……? ヤツを鬼化したのは、おまえか!」

 自ら正体を暴露した良昭に掴みかかろうとしたが、きつく縛り上げられた手首にナイロンザイルを食い込ませただけだった。歯軋りする康則を満足そうに眺め、良昭が顔を寄せる。

「残念ながら俺にはまだ、それだけの力はないよ。だけど俺は、誰よりも強くなってやる。康則、おまえよりも……ね」

「おまえが欲しい力は、身体能力か? それとも社会権力か? 鬼となってまで手に入れた力が、おまえに何をくれる? おまえは、何がしたいんだよ? 俺よりも強くなるって、どういう意味なんだ!」

「康則は、わかってねぇんだよっ!」

 突然、良昭は激高し、康則の襟首を掴み上げた。

「入学式の日、俺を助けてくれたよな? あの時、俺は、おまえとなら友達になれると思ったんだ。おまえは、家柄や外見で俺を差別しない……そう思った。でも結局、鎧塚康則は誰にでも良いヤツで、そして誰とも本気で付き合う気なんて無かったのさ。その事に気付いて俺は、惨めだったよ。だって、滑稽だろ? 友達になりたくて、おまえの役に立ちたくて、おまえに近付きたくて、鞠小路の事だって俺は……」

 良昭の言葉は、鋭利な刃物となり康則の心臓を抉った。

 すべてが、康則の責任だと言うのか? 

 いや、違う。

 俺にはまだ、それだけの力はない……と、良昭は言った。良昭の弱みを利用し、鬼龍に近付こうとした者がいるのだ。

「自分に都合よく、責任転嫁するな! そんな……そんな身勝手な理由で、おまえは鬼化してしまったのか? 強くなれば、見返せると思ったのか? 俺の事が気に入らないなら、そう言えばいいじゃないか! 嫌いだと言って、付き合うのを止めればいいだろう! おまえは、利用されているんだよ!」

「ヤス……おまえ、やっぱり解ってねぇな」

 良昭は、奇妙に顔を歪ませて笑った。

 そして仲間の一人に康則の膝が床に着くまでフォークリフトの爪を下ろさせ、車のドアを開ける。

「誰だって簡単に言える事と、言えない事があるだろ? 言えないまま、どうすればいいのか、どうしたいのか悩んで行き詰まった時、俺の気持ちを見透かして親切に答えをくれた人がいたんだ。俺は、その答えが間違っていると知っていた。だけど、逆らう事が出来なかった」

 車から何かを持ち出し、良昭は日向子の前に立った。

 手にしている物を見て、康則は身を固くする。

「これが何か、よく知ってるよな? おまえの為に、苦労して手に入れたんだぜ?」

 白鞘の反りを下に、すらりと引き抜かれた美麗な刀身。

 見れば解る。美術刀剣ではない、研ぎ澄まされた刃を持つ本物の日本刀だ。

 鞘を床に捨て、良昭が日向子の胸元に切っ先を向けた。

 白刃が触れた途端、鎖骨が見える程度に開いていた黒のワンピースの胸元が大きく裂けた。レースの花模様が縁取る桜色の下着が露わになり、日向子の呼吸に合わせて大きく上下する。

「いつだって、身近にあるのは良い事より悪い事さ……。いつだって、誰もが欲しいモノを手に入れたいと思っている。そして、ちょっとした切っ掛けで、全ての欲求が満たされるとしたら? 一線を越えるのは、簡単なんだ」

 刃を日向子の喉元に添え、良昭は左手でワンピースの膝上をさすりあげた。日向子の白い足が、太腿まで剥き出しになる。

「やめろっ、良昭っ!」

 身体を捩りながら康則は、全身で叫んだ。腕を括るザイルが皮膚を破って肉に食い込み、血飛沫を上げる。

「大声で叫ぶと、鞠小路が目を覚ますぜ? 彼女を仲間にするか餌にするか、まだ決めていないんだ。仲間を増やすやり方は、血の交流だけじゃない……どちらにしても、気を失ってた方が本人の為かもね? だけど、その前にやる事がある」

 満面の笑みを浮かべ、良昭は康則に切っ先を向けた。

 斬り殺す、つもりか?

 康則は気を張り詰め、良昭の呼吸に神経を集中する。

 幸いなことに、足は自由だ。良昭が構えてから踏み込むまでの、僅かな隙に蹴り上げて刀を奪えば……。

「早まるなよ? 抵抗できない相手を斬り殺しても、俺は満足できない」

 眉間に向けられた切っ先が、左右に動いた。すると康則の両脇に、腕を括り付けていたナイロンザイルが落ちる。

「言っただろ? この日本刀は、おまえの為に手に入れたって……」

 良昭は刀を自分の足下に置き、数歩下がった。

「なんの……真似だ?」

 指先に血の通う感覚を取り戻しながら、康則は身構えた。良昭の仲間は五人。離れて取り巻いているが、手を出す様子はない。

 大丈夫だ……敵より先に、動ける。鬼が何匹だろうと、武器さえあれば勝てる。

 だが康則にはまだ、迷いがあった。

 良昭は、なぜ康則の手の届く場所に武器を置いた? 

 鬼化の理由は、他にもあるのではないか?

 真実が、知りたかった。

「教えてくれ、良昭。おまえを、誘惑したのは誰だ? 誰が、切っ掛けを作った?」

 問いかける康則に、良昭は呆れ顔をする。

「おまえさぁ……まだ、俺が騙されてると言いたいわけ? 俺は騙されても、利用されてもいない。自分の意思で、鬼の血を受けたんだ」

「鬼の血……」

「そう、切っ掛けは、俺がクラブで鬼龍の殿様に追い出された夜さ。最初の犠牲者になった坪井遥香は、あの日、俺と一緒だった。おまえは知らないだろうけど、俺の彼女気取りだった遥香は、仲間の前で恥をかいて終始ご機嫌斜めになってね。先に帰ると言いだした彼女を車で送ろうとしたら、拒否した上に俺を馬鹿にしやがった。所詮、成り上がりの体裁は役に立たねえってさ!」

「だから、彼女を殺したのか?」

「違うよ。頭に来た俺は遥香を放って、タクシー探しながら駅に向かって歩いたんだ。そしたら後ろから近付いてきた車が、いきなり目の前に停まった。運転席から男が降りて、ヤバイ雰囲気を感じたから逃げようとしたんだけど、あっという間に掴まって後部座席に押し込まれた。後部座席には、遥香も乗っていた」

 最初の犠牲者、坪井遥香は良昭と付き合いがあった。康則は、何も知らなかった自分を悔やむ。

 自分は、いったい何を見ていた? 何を知ろうとしていた? 

 良昭と話していて、気が付いた。自分には、根本的な何かが足りていない。もっと早く、良昭の事を知ろうとするべきだった。

 後悔を促す言葉を、良昭は続ける。 

「車の男は言った、俺の事は全て知っているとね。そして遥香を枯れ木のように干涸らびさせてから、変身した。冴えない眼鏡の中年サラリーマンが、美しく逞しい精気溢れる男になったんだ。その時、俺が何を感じたと思う? 恐怖じゃない、羨望さ!」

 頬を紅潮させた良昭は、上着を脱ぎネクタイを外した。

「男は、俺を誘った。誰かに話せば女と同じように殺すが、欲しいもの全てを手に入れたければ力をくれてやると。遥香の死体が発見された翌日、クラブに行った俺の前に男が現れた。そして、鬼龍家の務めを教えてくれたのさ。力を手にした瞬間から、ヤス……おまえは敵になるってね。だから俺は、決めたんだ。K自然公園の犠牲者、それが俺の、最初の餌だ!」

 良昭の肩が、見る間に大きく隆起した。張り詰めた胸筋がシャツを引きちぎり、一五〇センチの小柄な体格が、上背二メートルほどもある大男になる。

 くっきり浮き上がった鼻梁と頬骨が、眼光鋭い目と長い犬歯がのぞく裂け目のような口を吊り上げた。

 眉間には、皮膚を突き破り血に塗れた、二本の角。

「はははっ! 俺もついに、あいつと同じ二本角になれた!」

 目の前にいるのは、狂喜の高笑いを上げる〈業苦の鬼〉だった。

 絶望感が、康則の心を軋ませる。

「さあ、本気で来いよ! 康則っ! さもなきゃ、鞠小路がズタズタになるぜ!」

 鬼と化した良昭の視線が、一瞬、日向子に向いた。

 その刹那、康則は武器を手にする。

 良昭の手が、日向子に及ぶ前に、斬る! だが、まだ黒幕の正体が解らない。

 殺さず動きを止めるため、足下を狙った。ところが良昭は見透かしたように跳躍し、余裕の動作で逃れる。

「おまえの、やり方は知ってんだよっ!」

 日向子の手前に良昭が降り立ち、胸を抉ろうとする鋭い爪が、光った。

 間に合わない!

「良昭っ!」

 康則が叫んだ時、一陣の風が空間を裂いた。

 時が凍り、良昭の動きが静止する。

 ゆっくりと、一本の腕が床に落ち、遅れて緋色の噴水が飛沫をあげた。

「鬼の正体が鳴海とはね、予想外だよ」

 凍り付いた体勢のまま、康則は声の方向に視線を向ける。

 視線の先、涼しい笑みを浮かべた将隆が、日向子を抱えて立っていた。

 瞬間、康則の頭に浮かんだのは、日向子が助かった安堵感ではなかった。

 この場に将隆が現れた驚きと、焦燥。

 固まった身体から、全ての血が流れ出ていく気がした。呼吸が、出来ない。

「遅いじゃないか、鬼龍の殿様。待ちくたびれたよ」

 肘から切り落とされた腕を舐めながら、良昭が笑った。目もくれずに将隆は、日向子を車のシートに下ろす。

「康則が愚図なせいで、鞠小路に迷惑を掛けてしまったな……。俺が来たからには、おまえに勝ち目はない。俺は奴のように甘くないぜ、鳴海? だが素直に黒幕の正体を言えば、人間に戻して親元に帰してやってもいい」

「つまんねぇ冗談言うなよ、将隆。〈鬼斬り〉で〈業苦〉を断てば、姿は人間でも中身は空になるんだろ? それじゃ、意味ねえんだ……。今までも長い間、俺は空っぽだった。だけど力を手に入れて、俺は変わった。やっと俺は、自分が欲しいものを見つけたんだ。俺は、俺の手で決着をつける」

 将隆は〈鬼斬り〉の切っ先を、良昭に向けた。

「一族の〈業苦〉を負い、鬼化した者は憐れだ。だが、おまえのように下らない欲求で自ら鬼になるのは、ただの愚か者さ。おまえが、その醜い姿で決着つけたいなら、望みを叶えてやるよ」

 嘲笑されても、良昭は向かってこない。僅かに眉を寄せた将隆は、気付いて康則に鋭い一瞥を投げた。

「俺の決着のつけかた……それは、将隆の目の前で康則を殺すことさ!」

 凄まじい殺意を漲らせ、良昭が跳んだ。

 残った左手を大きく振りかぶり、長く鋭い爪で康則の喉を狙う。

 殺らなければ、殺られる。 

 良昭が用意した刀は、確かに優れた威力を持っていた。康則が鬼と戦う時、使う刀と遜色ない。

 戦え、と、頭に声が響く。白木の柄を、強く握りしめた。

 空を震撼させ、爪先が眼前に迫る。

 だが……動けなかった。

「康則っ!」

 自分の名が二度呼ばれた。風を斬る音と破裂音。

 目の前を良昭の歪んだ顔が、ゆっくり崩れ落ちていった。

 ごとり、と、黒いものが転がり、撥ねた血が康則の胸を染めた。

「あっ……」

 いったい自分は、いま何を、考えた?

「このっ、馬鹿がっ!」

 襟首を掴み上げられ、我に返った。

 血で手が汚れる事も構わずに、将隆が怒っている……?

 足下には、胴を断たれた良昭の無残な姿。角を断たれていないので、まだ僅かに蠢いているが意識はないだろう。

 眉間には、銃痕らしき穴があいていた。

 銃で撃ったのは、誰だ? 警察が一緒なのか?

 機械的に思考は、状況を分析する。

 しかし、戦えない自分を知った瞬間、心は死んでいた。

「申し訳……ありません」

 空虚な呟きを吐いて顔を逸らすと、頬に強烈な衝撃を受けて床に転がった。

 殴られ……た?

「無様だな、康則。良昭に殺られそうになった時、おまえが何を考えたか当ててやるよ。良昭の鬼化に責任を感じ、殺されてもいいと思ったな? おまえが死んでも俺が鬼を倒し、鞠小路を救ってくれると思ったんだろう? 違うか!」

 返す言葉がない、図星だ。

 追い打ちを掛けるように将隆は、言い放った。

「本当は良昭を……救いたかったんじゃないのか?」

 死んでいたはずの心臓が、大きく打ち鳴る。

 将隆の言う通りだと、認める事は出来ない。これ以上、醜態を晒して蔑まれるのは嫌だ。

「……違います。鬼を斬るのは、我々の務めと心得ています」

「まだ、そんな事を言っているのか? 顔を上げろっ!」

 言われるまま上げた眼前に、振り下ろされた刀。

 康則の眉間から、一筋の血が滴り落ちた。

「鳴海が言った通りだ、おまえは何も解っていない。鳴海は何故、おまえの携帯で俺を呼んだと思う? 奴は本当の自分を晒け出し、おまえに斬られたかった。だが、おまえには斬れないと解っていた。命を掛けてまで鳴海は、おまえと本気で向かい合おうとしたのに、まだ偽りの言葉で自分を誤魔化すつもりなのか? おまえの中身は、全てが嘘だ。残酷な偽りの優しさが、他人も自分も傷つけていると、何故解らない?」

「俺の中身、全てが嘘……?」

 何故だ?

 なぜ将隆は、そんな理不尽な言葉を突きつけるんだ?

 一族と、両親の期待に応えようとした。鬼龍家の使命を、全うするため努力した。先任〈鬼斬り〉である将成の、信頼を得ようとした。

 そしてなによりも、将隆のために戦い、将隆を守り、将隆のために働く事が自分の役目であり、確実に責務をこなしてきた。

 良昭の件は、失態だった。どのような形であれ、責任は取る。〈露払い〉の任を解かれても、仕方ない。

 これら全ての思いが、行動が、嘘だというのか?

 将隆は、康則の失態ではなく、その心構えに対して怒っているのか?

 悔しかった。

 将隆の妹、優希奈の哀れな姿を知った悲しみにも流れなかった涙が、込み上げた。唇を噛み堪えようとしたが、止まらなかった。

 なにが、いけない? 何が、足らない?

 悔しくて、情けなくて、惨めだった。

 拳を叩き付けたコンクリートの床に、血と涙が染み込む。

 将隆に蔑まれ、辱めを受けるくらいなら、良昭に殺された方がよかった。自分など、死ねばいいのに……。

 正面に立つ将隆が、踵を返す気配がした。

「もういい。おまえは二度と、俺の前に立つな」

 頭上に投げかけられた言葉は、視界も、思考も、康則の存在も奪い去った。

 見捨てられた……?

 涼しい鈴の音がしたと思うと、目を落としている床先に三日月型の黒く光る二本の角があった。良昭の〈業苦〉が、断たれたのだ。

 人の形に戻った良昭は、処理部隊によって綺麗に繋ぎ合わされ、物言わぬ姿で一族に還る。

 いつもと同じだ、いつもの仕事と、何も変わらない。

 ただ、同じクラスに、いないだけだ。

 あの好奇心旺盛なドングリ眼で、すばしっこく情報を集める便利なクラスメイトに、二度と会えなくなっただけだ。

「康則、おまえは俺との約束を忘れてしまった。これは、代償だ」

 遠くから、将隆の声が聞こえた。

 約束? 約束とは何だ?

「教えてくれよ、将隆! 俺はいったい、どうすれば、どうすればいいんだっ……!」

 誰かが肩を揺すり、康則の名を呼んでいる。

 しかし、その声は、嗚咽に掻き消され聞こえなくなった。



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