【第3章 覚悟の行方】
第1話
相馬祐介は、咥えていたタバコを車の窓から投げ捨てようとして思いとどまった。公安職員である身で、法と秩序と道徳を犯してはならない。
心中に建て前を呟きながら、本音は違うところにあった。
車外に捨てたタバコ一本が、自分の全てを明らかにする。刑事という職業柄、愚行を犯すわけにはいかないのだ。つまり、この場所にいたことが上司に露見したら、言い訳に困るからだった。
土曜日だが午前中に県警本部で書類仕事を済まし、事件があった所轄署に向かう途中、急に思い立った。
県道から別れて、なだらかな一本道の上り坂を時速五〇キロで約5分。切り立つ崖を背面に有した頂にある、鬼龍の屋敷を見てみたいと思ったのだ。
仰々しい門構えの前に外来者用駐車スペース、道の両脇はケヤキの林。時代劇に出てきそうな、高い石垣と土塀。黒服の警備員。敷地面積は七千坪以上というから、「港の見える丘公園」半分くらいの広さか。
警備員の死角になるように車を止めたが、県道からの入り口にあるコンビニ店員によると、一時間に一度は黒いメルセデスのVクラスが巡回しているらしい。道を間違えたという言い訳は、一度くらいなら信用してもらえるだろうか? 身分証の提示を求められたら面倒だ。
しかし何故、自分はここにいるのだろう。
鬼龍家は、謎の多い組織だ。その謎に、少しでも近付きたかったが……。
「金持ちの名家と言うより、暴力団幹部の屋敷だな」
屋敷の外観を見ただけで、きな臭い組織だと感じた。刑事の感で、暴力の匂いを嗅ぎ取った。
当主の鬼龍将隆とは、いったい、どのような人物なのだろう。
古い任侠映画に登場する、ゴツイ体格で頬傷をもつ昔気質のヤクザタイプか? いや、昨今のヤクザは大学出のインテリだから、海外ブランドスーツの似合う銀縁眼鏡かもしれない。
いずれにせよ、相手の容貌を詮索しても仕方なかった。鎧塚と名乗った、組織内部の人間から情報を引き出す方が有効だ。
今日のところは、屋敷を見ただけで良しとしよう。
相馬は署に戻るため車のエンジンを掛けようとして、ふと、その手を止めた。
甲高い、エグゾーストノイズが近付いてくる。2ストローク・エンジンのバイクだ。
傷を覚悟で車体をケヤキ林に突っ込んであるが、気付かずに通り過ぎてはくれないだろう。
案の定、メタルブラックに深紅のラインがデザインされたフルカウル・バイクが、車の鼻先に停止した。かつて相馬が憧れた、ヨーロッパ・ブランドの中型バイクだ。
ライダーは、革のジャケットを腰で結び、Tシャツにジーンズ、ショートブーツの軽装だった。体格から見て、まだ少年だ。バイクとはいえ、高級外車を乗り回すとは生意気である。
少年はバイクを降りてメットを外し、車に向かって歩いてきた。
初夏の昼下がり、まだ優しさのある日差しをうけて金色に見える真っ直ぐな髪、冷たい印象の琥珀色の瞳、細面だが男性らしい骨格の整った顔立ち。どこか、人間離れした雰囲気を持つ少年だ。
相馬は覚悟を決め、運転席の窓を下げて顔を出した。
「や、こんにちは!」
警戒を解くため親しみを込めて笑顔を作り、先に挨拶をした。しかし少年は、醒めた目を相馬に向ける。
「ここで、何をしている? 道に迷ったとでも、言うつもり?」
少年の視線は、運転席にある最新モデルのカーナビを捉えていた。
「先制攻撃くらったら、降参するしかないなぁ。正直に言うよ、実は最近知り合った友人に会いに来たんだ。そこの屋敷で仕事してると聞いたんだけど、正面から訪ねるには敷居が高くてね……帰ろうと思っていた所さ」
「友人?」
「そう、迷惑になると悪いから名前を出さないけど、君ぐらいの年頃の、生真面目で融通の利かなそうな高校生」
個人名は、あえて出さずに反応を窺う。この少年の素性は解らないが、鬼龍家で働く鎧塚を知っていれば話しやすい。
すると少年の端正な顔に、僅かな変化があった。戸惑うような、不思議な微笑。
「そいつ、心当たりがあるよ」
どうやら、近い関係にいるらしい。用心深く相馬は、もう少し探りを入れてみることにした。
「良いバイクだね、日本限定モデルのドカティでしょ? 発売当初、俺も欲しかったんだけど手が届かなかったんだ」
「国内メーカーの中型2ストで、気に入ったのがなかった。こいつ、加速は良いけど力不足なんだよ。限定解除に年齢制限があるから、仕方ないけどね」
限定解除免許が取れないなら、十六、十七歳ということか。
「もしかして君は、鬼龍家当主である鬼龍将隆氏のご子息かい?」
質問した途端、少年は呆気にとられた顔で相馬を見つめた。そして笑いをかみ殺しながら首を振る。
「違うよ」
何か、おかしなことを言っただろうか? 「当主」や「ご子息」といった言葉が、古くさくて笑われた?
とにかく、少しでも情報が欲しい。
話を繋げるため、相馬は話題を探した。いっそ単刀直入に、名前と素性を聞いてみるか? 鎧塚の名を、出してみようか?
「勝手な思い込みして、悪かったね。俺は……」
名を尋ねるため、相馬が自ら名乗ろうとした時。制するように、少年の人差し指が眉間に突きつけられた。
不覚にも、震撼した。息が、詰まった。
「……正門の前だ、五分で出られる。……応援はいらない、二人で十分……ああ、余計だな、隔離だけでいい。……了解だ」
少年は、ヘルメットに取り付けられたインカム相手に話していた。会話が終わり、突きつけられた指先が目の前から消える。呼吸を取り戻した相馬は車のドアを開け、少年の前に立った。
余裕を失い、怒りが込み上げていた。重要な話だとしても、あの態度は傲岸不遜だ。
「君、今の態度は不愉快だな」
声を抑えて詰め寄ると、少年はヘルメットを被ろうとした手を止め、愉快そうに笑った。
「私有地に無断駐車して、屋敷を覗き見してた不審者に言われるのは心外ですが?」
「うっ……」
「あなた面白い人だね、相馬刑事。次に、ご友人を訪ねるときはコソコソせず、正門からどうぞ」
「え? あれ? なんで君、俺の名前……!」
キックスタートで、エンジンが唸りを上げた。
答えの無いまま正門に消える少年のバイクを、相馬は呆然と見送るしかなかった。
車に戻り、ぐったりと運転席のシートに身体を沈める。ほんの短い時間なのに、容疑者取り調べ丸一日分の疲労感だ。
「なんなんだ、いったい……」
シャツの胸ポケットを探り、タバコを取り出した。名前も素性も、知られている。いまさら身元を隠しても無駄だろうと、ぼんやり考えた。
ライターを探し、助手席に置いた上着を掴み上げる。すると、上着の下になっていた携帯電話が震えていた。億劫な手つきで、取り上げた。
「はい、相馬でーす。あ、班長! 今、いるところですか? いや、仕事と言うよりは……個人的に調べたいことがありまして。はい、はい……えっ!」
電話の相手が変わり、相馬の全身に緊張が走った。
堀川刑事部長本人が、重大な事件を伝えてきたからだ。しかも、それは、相馬の疑問に答えを出してくれるかもしれない内容だった。
「了解しました……すぐに現場に向かいます」
鬼が出た。携帯電話の向こう、堀川は確かに、そう言った。
横浜山下公園で、若い女性が突然現れた大男に頸を噛みちぎられた。
大男は山下埠頭方面に逃走したため、非常線を張って捜索中。目撃者によると女性は、恋人か友人らしい男性と連れ立っていたが、一緒にいたはずの男性は逃げたらしく行方が解らない。
「女の頸を噛みちぎるなんて、人間の仕業とは思えないが……鬼とはね」
現場には、機動隊と捜査一課第三班が赴いているという。
相馬は、二件の女子高校生不審死を捜査している第一班所属だ。報告は受けても、出動要請は掛からないはずだった。
しかし堀川は「一班が捜査中の事件と関係がある。班長と一緒に現場へ行け。他の捜査員には知らせるな。いいか、口外無用だ」と、硬い口調で命令したのだ。
死体発見当初から、謎が多い事件だった。
堀川は、山下埠頭に逃げ込んだ犯人が解決の糸口だと示唆している。
現場に、何かがある。
車のエンジンを掛け、アクセルを踏んだ。路肩の奥から砂利を跳ね飛ばしながら車道に出た時、ドアミラーに映る屋敷の正門が開くのが見えた。
現れたのは、黒のメルセデスVクラスが一台。先ほどの少年の知らせで、相馬を調べに来たのだろうか?
ところが黒のメルセデスは、警戒する相馬の目の前を、凄まじい早さで走り抜けていった。スモークガラスで、中は見えない。
「どういうことだ? まったく、訳がわからん!」
訳はわからないが、何かが起きていることは解った。その渦中に、相馬自身も巻き込まれようとしている。
未知の領域に足を踏み入れる恐れと、求知心からくる高揚感。
県道に出るなり赤色灯を掲げ、相馬は車のスピードを上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます