第5話

 昨夜のニュース番組と朝刊で、二人目の犠牲者は身元不明扱いになっていた。警察署で事件を知った康則が執事の鈴城に連絡し、情報を操作してもらったのだ。

 普段通りに登校すると、クラスの中に鞠小路日向子の姿があった。はにかみながら向けた笑顔の、目元が赤い。

 父君に叱られて泣いたか、寝不足か。

 優しい言葉を掛けようとして思いとどまり、軽く手を挙げ笑顔に応えた。

 学園では、今まで通りに振る舞う。それが、考えた末に出した答えだ。

「ヤス、おはよ~! なぁなぁ、知ってる? 昨日、日向子さんがプチ家出したこと」

 机に学生鞄を置いた途端、いつものように良昭が「本日のご注進」にやってきた。

「……知ってるわけ無いだろ? 良昭は、いったいどこから極秘情報を仕入れてくるのさ?」

「へへぇ、秘密だよ」

 おおかた、愛娘の反抗に慌てた鞠小路家の者が思い当たる行き先に問い合わせ、その一つが鳴海家だったのだろう。簡単に予想できたが、あえて感心してみせた。良昭を満足させると、「とっておきの情報」が引き出せるからだ。

 案の定、良昭は鼻の穴をふくらませ、得意満面の顔を近づけてきた。

「実はもう一つ、極秘情報があるんだ。ヤスだけに教えるんだぜ? 今朝のニュース、港南区のK自然公園で身元不明死体が見つかった事件。あれさ、うちの学園の生徒なんだよ。しかも、坪井遥香と同じ死に方らしいんだ」

「……どこから、その情報を手に入れた」

「えっ? 何だよ急に、おっかねぇな……」

 驚き退いた良昭の顔を見た瞬間、康則は自分の失敗を悟った。苛立ちが、顔に出てしまったのだ。

「あ、ゴメン! でも……そんな重大な情報、簡単には信じられないよ。だから、出所が知りたくて」

 素早く表情を緩め、探りを入れる。すると良昭は、勝ち誇った顔でニヤリと笑った。

「相手が康則でも、出所だけは教えられないね! まあ、また新しい情報が入ったら知らせてやるよ。康則だけに、ね?」

 この時、康則の中で警鐘が鳴った。

 鳴海良昭に対し、小さな不信感が芽生えたのだ。

「ありがとう、よろしく頼むよ」

「おう、任せとけ」 

 昨日と同じように良昭は、ドングリ眼をくるくると回し鼻の穴を膨らませた。だが康則は、昨日と同じ穏やかな気持ちにはなれない。

 複雑な気持ちを持て余しながら、徐々に大きくなる警鐘を受け止めるしかなかった。

 終業後、康則は屋敷の自室に戻るとリビングのソファーに腰掛け、ノートPCを開いた。

 鬼龍のデータベースを使い、鳴海良昭の交友関係を洗い直す。友人、親族、親族の知人に至るまで、一人残らず全ての人間を調べる必要があった。

 警察関係者がいるのか? どこに、繋がっているのか? 突き止めなくてはならない。

 だが調べた限り、情報の提供元は特定できなかった。

 ソファーに身体を投げ出し、天井を睨んだ。

 クラスメイトが、得意になって話す情報……。注目と称賛、そして羨望を欲する根も葉もない噂に信憑性は無い。しかし中には、重要なキーワードが潜んでいる。

 良昭は、康則の気を引くために出任せを言った……?

 いや、違う。

 何かしらの確信を持って、康則の反応を見ていた。

「友達を、疑うことになるとはね……」

 呟いて、苦笑する。はたして自分は、良昭を友達だと思っていただろうか? それでも心のどこかで、良昭が事件とは関わりない事を望んでいた。

 モニターに表示された情報を睨んでいても、新しい事実は見つからない。思考を広げ、可能性を探る必要があった。

「考え事は、水の近くが良いと言ってたな」

 先日、万由里から聞いた久米の受け売りを思いだし、PCを閉じて部屋を出た。気持ちを切り替え、別の視野で考えるためだ。

 座敷棟の縁側にまわり、庭履きの雪駄で石畳を踏む。

 岩山を模した庭石と美しいツツジの植え込みの間を抜け、シャクヤク園を囲む柘植の内垣に設けられた猿戸を通って池の西側に出た。

 池の西側は、秋の景観を模した庭園になっている。

 季節になれば鮮やかな紅に染まる紅葉や南天の新緑が、暮れゆく太陽を反射してオレンジ色に輝いていた。

 夏園に比べ寂しい風情の水辺に意外な人物の姿を認め、康則は歩を進めた。

「御気分が、よろしいようですね。将成さま」

「ああ……康則か。暑い日は辛いが、今日のように涼しい夕刻は気分が良い。少し庭を散策したくなった」

 腕を組み水面を見つめていた将成は顔を上げ、静かに微笑んだ。

 屋外で見かけることが珍しい将成に、屋内で向かい合うときに感じる息詰まる存在感は無かった。

 色濃い夕闇が、その姿に侘びしさを投影しているように見えて、少し寂しさを感じる。

「ところで、私に用があって探していたのかな?」

「あっ、いいえ……考え事は水の近くが良いと聞いたので、頭を整理しようと思って来ました」

 質問に正直な答えを返すと、将成は頬を緩めた。

「それは久米の受け売りだな? おまえ達に任せたからには口を出すまいと思っているが、また新たな犠牲者が出たと聞いた。その件で、私の助言は必要ないかね?」

「……大丈夫です、お任せ下さい」

「そうか」

 将隆の了解を得ずに助言を求めることなど出来ないと、将成も解っている。ただ、いつでも力になると伝えてくれたのだ。それだけでも、心強かった。

 将成の期待に応えたい、心配を掛けたくない。事件を解決するために、自分がやるべき事は何だろう?

「おまえは何かと、一人で抱え込みすぎる。私の助言を必要としなくても、解決の糸口を誰かに求めても良いと思うが? もう少し、身近の人間と気持ちを通わせてみてはどうかね」

「しかし、自分には……」

 言いかけて言葉に詰まり、康則は将成から目を反らした。

 相談できる、相手がいない? いや、いないわけではない。

 ただ、接し方が解らない。解らないから、避けている……。

 将成が言いたいのは、将隆のことなのだ。

 答えを見つけ顔を上げると、黙って見つめていた将成が微かに頷いた。

「自分は混乱を避けるために、相手の反応を予想して行動します。だから、予想しにくい相手は苦手です。上手く、気持ちを伝えることが出来ません」

「上手く伝える必要は、ないだろう? 相手にも、理解しようという気持ちがあるのだから大事なことは伝わるはずだ」

 将成の言う通り、目の前の事件を解決し今後も責務を全うするためには、将隆と理解し合うことが必要だ。康則の役目は、戦いの場で雑兵を片付ける事だけではない。

 では、どうすればいい?

 この時、康則は決意した。鬼龍家に入る前、父から戒められた疑問を将成に問うしかない。

「将成さまにも露払いを務める者が、いらしたはずですね? その方とは、どのように接していたのですか?」

 途端、将成は表情を曇らせた。

 本来ならば康則に課せられた務めを教え、後ろ盾になってくれる先達。将成に従事していたはずの〈露払い〉。

『将成さま付きの〈露払い〉は、鬼との戦いで討ち死にされた。師事する先達なしでは、おまえも苦労するだろう。だが亡き者の話を、鬼龍家でしてはならない』

 父の言葉を守り、自分だけの力で務めを果たすつもりでいた。しかし康則の立場を憂慮してくれる将成に、問題を解く手がかりを聞いてみたかった。

 将成は浅く息を吐き、茜色に染まる空に遠く視線を投げた。

「〈鬼斬り〉の責務を受け継いだ時、私は二十一歳。〈露払い〉の任に着いたのは、五歳年上の清愁(せいしゅう)だ。とても正義感が強く、真面目で勤勉なところは、おまえと似ていたよ」

 鎧塚清愁……。

 鎧塚一族で一番の使い手と言われた清愁に、康則は一度だけ会ったことがある。小学校五年生の時、将隆と共に過ごした房総の屋敷に、将成が連れ立って訪れたのだ。

 この時、康則は鬼龍家当主である将成が大きく恐ろしい怪物に思えて、近付く事が出来なかった。

 黒いポロシャツの下に盛り上がる筋肉、太い首、鋭い眼光、傷だらけの腕、短く刈り上げた髪。岩礁に叩き付ける、真冬の荒波のような激しさを感じた。

 遠くから見るだけでも、全身の血が全て心臓に逆流して息苦しくなった。優しい言葉を掛けられた時、緊張から気が遠くなったこと覚えている。

 生意気で挑戦的なことを平気で言える将隆が、信じられなかった。

 清愁は、将成と違った。穏やかな、春の海辺のような人だった。

 湾が一望できる庭の見晴らし台で、背中の中程まである一つに纏めた長い髪を風になびかせ、海の彼方を眺めていた。

 桜色のシャツと白いジャケット。背が高く、太刀を振るには頼りないような細身の身体。

 夕餉の知らせに、そっと近付いた康則に気付き、優しく微笑んだ眼差しを覚えている。

「清愁が、なぜ死んだか……おまえは聞いているか?」

「えっ? 鬼との戦いで討ち死にされたのでは?」

 苦しそうに、将成は顔を歪めた。初めて見る、表情だ。

 何か、重要な話があるのだ。おそらくは、語られることのない隠された真実。

 身を固くした康則の前で、将成がゆっくりと口を開いた。

「清愁は……」

「鬼になってしまったので自らの手で斬り殺し、成敗しましたとさ」

 康則は、混乱する頭を巡らせた。すると声の主である将隆が、池に掛けられた太鼓橋の上で欄干にもたれ、愉快そうに笑っている。

「将隆さまっ、お言葉が過ぎます!」

「怒鳴るなよ、康則。本当のことなんだからさ」

 距離があったため声を張り上げたつもりが、含まれていた怒りを、将隆に読み取られた。

 将隆は太鼓橋の欄干に立ち、軽々と五メートル以上ある距離を飛んで康則の傍らに降り立つ。

「そうだろう? 貴様が〈鬼斬り〉で、清愁を殺したんだよな!」

 信じられない気持ちで康則は、将成と将隆を交互に見つめた。

 将成は、先ほどと打って変わり平静な表情だ。しかし将隆の瞳には、今まで見たことのない怒りが宿っている。

「二年前、俺が中二の時だ。今回と同じように一般人が五人、鬼の犠牲になった。鬼龍の威信をかけ、一族総出で〈業苦の鬼〉を捜索したが見つからない。だが、五人目の犠牲者が出た三日後の朝、アイツは『〈業苦の鬼〉と化した清愁を、斬り捨てた』と言明し、犠牲者は出なくなった」

「まさか……そんな話、聞いたことがない!」

 狼狽える康則に、将隆の冷たい瞳が向けられた。

「本能に導かれ、血と肉を貪り欲望を剥き出しにする鬼は、まだ可愛げがある。己の保身や体裁の為に、身内であろうと冷徹に斬り捨てる人間に比べればね。人の形をしていても、アイツの心は鬼と同じだ……いや、鬼以下さ。身体に、人間と同じ血は通って無……」

「戯言をっ!」

 空を裂き、将成の手刀が将隆の頸めがけて振り下ろされた。

 その刹那、反射的に康則は前に飛び出す。

 眼球が破裂したと思った。

 痛みというより、頭蓋骨が砕けた感覚。視界が暗転し、息が止まった。

 将成の手刀は、康則の側頭部を殴打していた。

「康則!」

「大丈夫です……将隆さま」

 倒れてはいけない。将隆の手を、借りてはいけない。

 遠のく意識を必死に引き戻し、踏みとどまった。

「将成さま、この場はどうか収めていただきますよう、お願い申し上げます」

 肺から空気を絞り出し、ようやく声にする。

「出過ぎた真似だな、康則。だが今日の所は、おまえに免じて不問に付そう」

 将成は眉根を寄せ、乱れた着衣を整えると将隆を一瞥もせずに踵を返した。が、数歩のところで立ち止まると、振り向くことなく諭す口調で言い放った。

「将隆、おまえは何故、戦っている? いま、自分が言った言葉の真実を、おまえは近いうちに知ることになるだろう。忘れるな」

 立ち去る将成の後ろ姿を苦々しい顔で見送り、将隆は康則を睨め付けた。

「戯れ言は、アイツの方さ。思わせぶりな台詞は、もう聞き飽きたんだよ。弁解の余地が無いんだからな。それより余計な真似をするな、康則。おまえに庇われなくても、避けられた」

「申し訳ありません」

 将隆が、将成の一撃など簡単に避けるであろう事は解りきっていた。だからこそ、康則が受けたのだ。

 将成の激高を収めるには、それしかなかった。

 気持ちを察したのだろう、康則に向けられた将隆の顔は、少し体裁が悪そうだ。初めて見る表情だった。

 将成との間にある確執に康則を巻き込み、悔やんでいるのか?

「康則さま! 康則さま? ここにいらしたんですね!」

 将成の姿が消えて間もなく、慌ただしい様子で万由里が駆けつけてきた。

「将隆さまも、ご一緒でしたか。今しがた将成さまが母屋にいらして、康則さまが怪我をされたから医者を呼ぶようにと言われました。お怪我は、大丈夫ですか?」

「ええ、怪我と言うほどではありません。転んで、頭を打っただけです」

 誤魔化すように笑顔をつくり、打たれた側頭部を擦ってみせた。触れた途端、痛みが走り顔をしかめる。

「傷を見せて下さい。まあ、ひどい内出血! 腫れてくる前に、冷やさなくちゃ!」

 細い指で康則の髪をそっと掻き分け、万由里が驚いた声を上げた。

「本当に、大丈夫だから!」

 言うことを聞こうともせず、万由里はシャツの袖を引っ張り手当に連れて行こうとする。抵抗しては悪いと思いながらも将隆が気になり、肩越しに振り返った。

 将隆は、険しい表情で康則を見つめていた。目が合うと一瞬、視線を逸らしたが、再び向けられた顔には冷笑が浮かんでいた。

「康則は正真正銘の、お人好しだな。おまえは知らないのさ、尊敬し庇い立てしてる男の冷酷で無慈悲な、本当の姿をね。一緒に来い、今から俺が教えてやるよ」

「えっ……!」

 小さな、悲鳴のような声を出したのは万由里だった。

 掴んでいた康則のシャツを離し、両手で顔を覆う。

「まさか……まさか、将隆さま? やめて、それだけは、やめて下さいっ!」

 取りすがる万由里の手を優しく振り解き、将隆は池を廻って庭の北へと向かった。

 いったい何が、起きているのだろう? 

 知れば後悔する、だが知らずには済まされない何かを、将隆は伝えるつもりなのだ。

 後を追う康則の胸に、暗雲が広がる

 池周辺の手入れの行き届いた植え込みが途切れると、鬱蒼とした竹林に囲まれた白い蔵が見えた。蔵が近付くにつれ、胸中の暗雲は色濃くなっていく。

「お願いです、お願い……将隆さま! どうか康則さまには……!」

 泣きそうな顔で訴える万由里にかまわず将隆は、七つある蔵のうち一番奥まった場所にある一つの前で立ち止まった。

 重く静かな闇が支配する空間に、白く浮かび上がる蔵。鋲が打たれた観音開きの蔵戸には、頑丈な閂錠が掛かっていた。だが、足下の影に気付いた康則が屋根を見上げると、明かり取りの小さな窓から僅かな光が漏れている。

 誰か、いるのか?

 金属が擦れ合う耳障りな音と共に、閂錠が外された。

 重々しい音と共に扉が開かれ、裸電球の灯る奥行き二メートルほどの土間がみえた。その先は板張りで、茶室の入り口ほどの木戸が付いている。

 将隆は木戸の横にある掌サイズのプレートに、右手をかざした。

「いやっ、だめっ! 康則さまには、見せないでぇっ!」

 薄暗く埃臭い蔵の中に反響する、万由里の悲痛な叫びと共に木戸が開いた。

 万由里を気にしながらも将隆に促され、康則は中の様子を窺い見る。

 柔らかな間接照明が照らす、六畳の和室。小さな文机と畳に散らばった千代紙、お手玉。壁にしつらえた竹筒の花器には、露を含んだ花菖蒲が一輪。

 そして、壁にもたれ宙に視線を泳がす、一人の美しい少女。

 花菖蒲と同じ、薄紫色の着物。長く編んだ、お下げ髪。白磁に朱で描かれたような、形の良い唇。額に巻かれた、赤い布。

 その少女の面影に、覚えがあった。

「優希奈……さん?」

 うわずり、震える声で呼びかけた。だが、優希奈は顔を向けず、眠そうに瞬きしただけだった。

 木戸をくぐり、上がり口で乱暴に靴を脱いだ将隆は、優希奈に歩み寄ると額の布を剥ぎ取った。

 眉間に残る、生々しい三日月型の傷。

「優希奈は〈業苦の鬼〉になり、アイツに斬られた。三年前……十二歳だった」

 将隆の乾いた声が、どこか遠くから聞こえた気がした。

 二年前に、清愁。そしてその、一年前に十二歳の優希奈。

 将成が、二人を斬った……。

「嘘だ、こんなこと、こんな事があるはずない……。なぜ優希奈さんが? なぜ、優希奈さんなんだっ!」

〈鬼斬りの刀〉で角を断つ〈絶戒〉は、業苦と共に現世で生きる術も断つ。

 人の形は取り戻せても、心は取り戻せない。世間から隔離され、生人形として一生を終わるのだ。

 優希奈は、まだ十五歳。あまりにも、惨いではないか。

「嘘じゃない、これが現実だ。鬼狩りは、鬼龍家の務め。身内であろうと、情けを掛けることは出来ない。アイツは鬼龍家当主として、正しい事をしたのかもしれない。だけど、解っていても俺は、その時の言葉が許せなかった」

「将成さまの、言葉?」

 康則の瞳を、将隆が覗き込んだ。康則を写す深く冷たい瞳は、審判を求めている。

「アイツは言った……〈業苦の鬼〉は優希奈に出たか、将隆でなく幸いだった。大事な本家の、跡取りだからな……と」

 絶望感が康則の全身を貫き、総毛が立った。

 将成の言葉は、理解できた。理解は出来たが、感情が追いつかない。

 康則は、ようやく知った。おそらく将隆も、同じ感情を抱えてきたのだ。そして、自分を呪っている。

 我が身が負う責務と、犠牲になった妹。

 実の父である将成を忌み嫌うのは、自己欺瞞だ。やり場のない怒りと悲しみを転嫁していることを、本当は自分でも解っている。

 将隆の瞳が問う。審判されるべきは誰なのか、罪は誰にあるのかと。

 康則に、答えられるはずがなかった。

「どんな姿になろうと、優希奈は俺が守る。だけど、もし俺がアイツのように心を無くしてしまったときは……頼む康則、おまえが優希奈を守ってくれ」

「将隆……」

 目の前にいるのは主人ではなく、悩み苦しむ一人の友だ。だが康則には、救う事が出来ない。

 無力だ。

 守る使命と、犠牲に出来る覚悟。この矛盾を超えるために、何が必要だ? 

 何のために、戦えばいい?

 声にならない悲鳴が康則の身体を突き抜け、固く握りしめた拳が震えた。

「万由里、康則の耳から血が出ている。アイツに殴られたとき、どこか切ったかもしれないから医者に診せてこい。俺は、しばらく優希奈と一緒にいる」

 康則から離れ優希奈の傍らに座った将隆は、畳に散らばった赤いお手玉を拾い宙に放る。優希奈の唇が、少しだけ微笑んだ気がした。

「康則さま……どうか、ご一緒に」

 万由里に背を押され、部屋を後にした。

 土間に出た康則は、蔵の土壁を殴った。爆ぜた怒りが、鈍い衝撃音と共に空気を震わせる。

 応えを求め、将隆を見た。だが将隆は、康則の視線を拒み目を閉じた。優希奈の表情は変わらない。

「優希奈さまは、康則さまが鬼龍家にいらっしゃる日を、誰よりも心待ちにしていました。優希奈さまが好きだった方に、今のお姿を見せたくなかった……。ごめんなさい、ごめんなさい……優希奈さま」

 優希奈が、自分を好いていただと? 鬼龍家に来る日を、待ち望んでいた?

 万由里が、泣きながら崩れ落ちる。

 将成に打たれた傷も、壁に叩き付けた拳も痛みを感じなかった。

 出口のない暗い迷宮に囚われた、心だけが、痛かった。

















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