徒然頭

相生薫

ゼロの誤謬とトリック

「カロリーゼロ」の飲み物や食べ物が本当にカロリー「0」なのではなく「限りなくゼロに近い」ということは皆さんも御存知でしょう。

 この「カロリーゼロ」という表示に「詐欺じゃ~」、「嘘つき〜」と叫ばれる方もおられるでしょうが、この表現は「0」の概念を見事に上手くとらえた考え方なのであります。

 そもそも、0とは存在して初めて0になりうるのです。或いは存在する可能性があって初めて0になりうるのです。

 もともと存在しない物は0にはなりえません。

 例えば、文房具屋さんの在庫表を見てみましょう。鉛筆・100本、A四ノート52冊、消しゴム235個等と書いてあります。しかしたまたま在庫切れしたB5ノートは在庫0でした。

 では「バナナ」は何本でしょう?0ではありませんね。そもそも文房具屋さんにバナナは売っていませんから「バナナ」という項目自体がないのです。だから0ではありません。何故なら何処にも「0」と書いてないからです。

 文房具屋のオーナーが店員に「バナナの在庫数数は幾つですか?」と尋ねられたら、店員は「ゼロです」と答えるのは適当ではありません。「バナナなんてありません」と答えるのが適当です。或いは「バナナなんてあるかい!」と突っ込むのが正解でしょう。

 鉛筆やノートのように自然数になる可能性があって初めて0になりえるのです。

 つまり、バナナは0でもないし、存在もしない、というのが事実です。


「0である」というのと「無である」というのは全く別の意味です。

「無である」というのは「存在しない」という意味であり、「0である」というのは「自然数になる可能性があるが、今はない」という意味なのです。


 0という概念の発見は現代数学を飛躍的に進歩させた素晴らしいものですが、その辺が0の厄介なところでもあります。

 0という概念はマイナスという概念も作り出しました。

 このマイナスというのも可能性があって初めて存在できるか、或いはその対極にあるシンメトリーな概念があって初めて成り立つものです。


「マイナス売上」というのは「どこかに借金や負債があること」という意味です。国債のようなマイナス貨幣が支給されるわけではありませんし、仮に支給されたとしても、誰もがゴミ箱に捨てるでしょう。

「マイナス在庫」というのは破損したり、盗まれたり、所在不明になったもののことであり、実質は0と同じです。「存在しうるもの」がゼロ以下になったということです。

 経済学的に言えば、「マイナス一個のリンゴ」という在庫数は「存在すべきリンゴが一個足りない」ということですが、これを物理学的に言うと、「反物質で出来たリンゴが一個ある」という意味になります。

 物質をゼロにするには反物質を足すか、完全にエネルギー変換し、質量をゼロにするしかありません。つまりマイナスの役割をする反物質で出来たリンゴが一個存在しなければ、マイナス一個のリンゴは存在しないのです・

 しかし、反物質で出来たリンゴなど見た事あるでしょうか?


 0やマイナスという概念は「物の言い換え」や仮想現実の話のことでしかありません。この場合のマイナスは電力や磁力のマイナスのことではありませんよ。プラスとマイナスを合わせれば0になるのではありませんから。あくまで数学の話です。


 この数学というやつ、私は昔からパズルみたいであまり好きにはなれないのです。面白くはあるが、遊びのような気がしてまうんですよね。

 数学は我々の周りにあることを説明したり、予想したりととても役に立つ物ですが、これはあくまで一つの計算尺にしか思えません。

 数学は身の回りのことにはとても役立ちますが、はたして数学とは万能なのでしょうか?

 特に思うのが、物理学における数学です。

 物理を数学で説明するのには無理があるのではないでしょうか?

「ビックバン」に納得している人がこの世の中にどれくらいいるのでしょうか?


「ビックバン」というのは「宇宙は空間的、時間的に膨張している」という考えに基づいていますが、これを数学的に解釈して、時間を遡るとどうしても宇宙は0になってしまうのです。

 でも、1が0になるには1を引いてやらなければなりません。そこで先程の反物質なるものや質量からエネルギーを全部抜いてやれば、0になるなどという発想が出てくるのですが、これには無理があるように思えてならないのです。

「計算上0になるのだから、0になる理論を組み立ててやらなければならない」という考えがチラついてしまいます。

「計算上0になるのだから、0にならなくては困るし、その説明をしなければならない」という発想があるのではないでしょうか?

 現代数学というものは50センチ物差しのようなもので、長さを計るには便利ですが、円の円周を測ろうとしたり、角度を測ろうとしたり、重さを測るのには不向きなように、時空という宇宙を説明するには不向きなものなのではないでしょうか?


 私には宇宙は0にはならないと思えてしかたがないのです。

 いえ、正確に言うなら「時間は0にならない」というべきでしょうか。時間には始めも終わりもないのではないでしょうか?

 宇宙の質量が1なら、ずっと1のままではないでしょうか?

 時間は動画再生ソフトのようにスタートもエンドもフレームレートもないと考えるのが普通では無いでしょうか?


 時間は流れるが永久に流れ続ける。

 しかし、人間がその概念を把握できないので、始めと終わりを想像してしまう。


 時間という概念も人間が勝手に創りだした概念です。

 地球の自転速度や公転速度から便宜上目盛りを区切って作ったものです。喩え、時間が伸びたり縮んだとしても誰も気づかないでしょう。時間の進行が相対する場面など今のところないのですから。

 アインシュタインの特殊相対性理論通りなら、光の速度の三分の一以上の速度が出せる乗り物を作って初めて時間が圧縮した相手と相対出来ます。そこでやっと時間の伸び縮みを感じることが出来ますが、「宇宙全体の時間の流れ」が伸びたり縮んだりしたら、誰にも分からないし、観測も出来ないのではないでしょうか?


 時間というのは人間が作り出した「時計」で過去と現在の差が分かるだけで、「数学的」に計算したり計ったりは「物理的に」解明出来ない物ではないでしょうか?脳科学的に言えば、「時間」とは人間の脳内で起こっている現象でしかないのかもしれません。

 人間は過去という「記憶」があるから現在もあり、未来も存在すると考え、それは過去から未来へカウントアップするものだと考えているのではないでしょうか?

 だから、当然、「始まりと終わりはある」と考えているのではないでしょうか?

 元々、時間というのは足したり引いたり割ったり出来ないもので、0にもならないものだとしたら、宇宙はもっと単純になるのではないでしょうか?


 物理学の理論を聞いていると、時々、哲学や禅問答のように聞こえてならないような気がしますが、そこには「0」と「無」を混同してしまい、それを無理矢理数学で説明しているような気がします。

 いつの日か、「0」以上の素晴らしい発見があって、数学が劇的に変革したら、宇宙は、暗く、広すぎ、空虚で、虚しいものではなくなるのかもしれませんね

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