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サイジョーが交通事故に遭ったのは、一回生の後期試験最終日だった。
付き添って救急車に乗った松馳があまりに慌てていたせいで、俺の携帯に梓河向けのへにゃへにゃな言葉を喋ってきたのを覚えている。
まあ、どうせ華凜も入れて三人一緒にいたんだけど。
サイジョーは四月の頭になってようやくギプスが外れるまで一か月半の間、利き手の右手首を固定したままの不自由な生活を強いられたせいで、それはそれは苛々していた。
そこらじゅう打撲だらけだったし、どちらかというと頭の出血の方が怖かった。奇跡的にどうともなかったからいいようなものの。
入院は二日ほどで済んだのだが、帰宅してからが大変だった。
元々サイジョーは目に余るほどに生活能力に乏しく、俺たちは分担して世話を焼いていた。
俺が料理、華凜が料理以外の家事、松馳が大学関係のことをやり、梓河は雑用全般。
それがより大がかりになってしまったのだ。
ここぞとばかりに我儘を言うサイジョーを甘やかしてしまう俺たちも悪いのだが、大学一回生の春休みなんて、どうせ遊びとバイトくらいしかやることがないから歯止めが効かない。
毎日誰かの家に集まっては酒を飲み、創作談義をし、時には持論のぶつかり合いで喧嘩して。
本当に面白かった。
唯一の理系で、なおかつ集中講義が詰まっている華凜だけは不満そうだったが、それでも講義の合間に顔を出して楽しそうにしている。
そんなわけで春休みの最終日、サイジョーのギプスが取れた祝いという口実で、俺たちは宴を始めた。
飲んで食って歌って。
今日騒いでいるのは俺の家。賃貸マンションだが最上階の角部屋で、隣は知り合いの部屋、直下は空室とあって、割に好きに騒げるところだ。
騒いでもいいのだが、ちょっと今日ははしゃぎすぎかもしれない。
特に華凜とサイジョーのちびっこコンビがヤバい予感。
久しぶりにアルコールを入れたサイジョーのテンションに、華凜が完全に引きずられている。
これはなにかやらかすかもしれないなあと思ってはいたが、想像より早くそれは起きた。
俺が胡麻油の買い置きを探してしゃがんでいる間になにかあったらしく、大声に驚いて顔を上げたときには既に梓河のTシャツが染まっていた。赤ワインだ。
「どした、それ?」
明るく染めた髪からもワインを垂らしている梓河にたまらず聞くが、それどころではないらしく吠える。
「華凜! お前いい加減にしろよ!」
「違うよ、サイジョーだって!」
「ちゃうねんて、松馳が飲まへんかったから」
「それを投げたのはお前だろ、華凜!」
「そこに置いたサイジョーが悪いんじゃん」
なんでもいいが、人の家を汚すな。クソか。
カウンターキッチンから出てきてみれば、床には点々赤い水たまりと転がる紙コップ。
壁に飛んでいないことだけがラッキーだった。
「華凜とサイジョーは掃除。梓河はシャワー浴びてこい」
ちびっこコンビは不満らしく抗議しているが、梓河は溜息をつきながら風呂へ消えていった。
寮に籍を置いているくせになかなか帰らない奴は、うちのタオルの場所くらいよく分かっている。
「きいちろー、これ事故だよ、事故」
「そうそう。せやから掃除せんでもええやろ?」
「馬鹿言うな。いいから拭け。でないともう酒も飯も出さんからな」
「それ、どっちに言ってるの?」
「両方だよ。さっさとしろ」
これだけ騒がしい中でも、ベッドで伸びた松馳は起きる気配がない。
渋々ウエットティッシュを掴んで床を拭き始めたちびっこを横目に、俺は新しい胡麻油を開けた。
それを小さなフライパンに垂らし、鷹の爪を投げ入れる。ふつふつと煮えるまでのわずかな間に、軽く塩もみして出汁に漬けた乱切り胡瓜を角皿に並べ、熱した油をかけていく。
仕上げに二度ほど握った白胡麻を散らし、すっかり綺麗になった床を踏んでテーブルに運んでやった。
「あ、美味しいやつ!」
「わーい!」
ちびっこどもが嬉しそうに飛びつくそばで、とっちらかった空き皿とコップを拾って回る。
それらを桶に突っ込んで、ざっくり洗う。本洗いはいつも梓河任せだ、今日も頼もう。
手を拭いながら冷蔵庫を開ける。冷えたロング缶をひとつ。
あとはご飯ものか麺類なら作る用意があるが、もう誰も食わないかもしれないな。
梓河は飲んだら食わないし、ちびっこコンビはがっつりしたものは嫌がる。
松馳は――まだ復活しなさそうだ。飲んだくれの集団の中で唯一酒に弱いもんだから、毎回苦しそうにしている。
俺の腹はまだ空いているが、気持ち的には作るだけで満腹。
ソファーに腰を下ろして、すっかり冷めた残り物をつまみつつ飲めば、一缶くらいあっという間に空いてしまった。
もうひとつ取ってくるかと立ち上がれば、華凜が我儘を言う。
「希一郎、なんか揚げ物食べたい」
「揚げ物? そんなの準備してないから無理」
「えー、なんかあるでしょー」
「僕も食べたーい」
サイジョーまで乗っかってきて、俺は嫌々ながらも考える。
「あー……豚バラの残りがあるな……」
あれをスライスして……なんとか。ただしパン粉は切らしているから、小麦粉をまぶして揚げ焼きにするのが関の山。
「それ食べたい!」
「食べたい!」
「分かったから大声出すな。十五分くらいかかるぞ、大人しく待てよ?」
「はーい」
「分かったー」
空き缶の腹を凹ませてカウンターに置き、冷蔵庫の奥から豚肉と卵を取り出した。
豚肉は七ミリ程度の厚さに切って、幅と高さは一口大に。塩胡椒を振っておく。
チーズでも挟めればそれっぽいが、衣をつけないので成型できないだろうからパスして、深型フライパンにサラダ油を厚めに敷き、加熱。
その間に卵を割って肉に絡め、バットに広げた小麦粉へ投げ入れて転がす。
粉が厚くついているところがないかを見ながら、必要に応じて手ではたいていく。
あとは揚げるだけ。
なのに、順調に進む調理を邪魔する奴らがいた。
「アイス食べたーい」
「僕も食べたーい!」
「ねえねえ希一郎、アイスとってー」
「そんなもん買ってねえよ」
事実を告げただけなのに、大ブーイングが起こる。
買い出し押し付けたのは誰なんだよ。
大人しく待てと言っただろうと叱れば、サイジョーが立ち上がった。
「華凜、アイス買いに行こ」
「行く!」
「えっ、ちょっと待て、おい!」
冗談じゃない。あの酔っ払い二人組を野に放ってはいけない。
かといって俺の手は今小麦粉まみれだし、松馳はベッドで伸びたまま。
どうしたものか悩むうちにもちびっこは玄関を出ていってしまい、慌てて手を洗うも間に合いそうにない。
クソが。
苛立ちからそう呟いてしまったところに、呑気な声が聞こえてきた。
「希一郎、お前んちのシャンプーいい匂いするな、これ」
いいところに現れたのは、シャワー上がりの梓河。
下半身は元の服を着たようだが、さすがにワインまみれのトップスは着れなかったらしい。頭からかぶったバスタオルに隠れて、筋肉質な上半身が覗いている。
「ちょうどよかった、華凛とサイジョーがアイス買うって出てったんだ、追っかけて保護者してやってくれないか」
「えっ、なんで二人だけで行かせたんだよ」
酔っぱらった状態のあの二人をペアで行動させるのはまずい、これは共通認識だった。
「仕方なかったんだって。頼むよ」
「あーもう。これ借りるからな!」
ソファーにかけてあった青いパーカーを掴んで玄関へ向かう。
身長だけなら俺のほうが大きい。微妙に泳ぐそれのフロントファスナーを首まであげて、梓河はちびっこ二人を追いかけていった。
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