垂水の空より

八巻 タカ

垂水の空より

 一台の車が水溜まりを弾いた。


 バス停のベンチ。それを覆う屋根の上で、踊り跳ねる雨粒が子気味の良いリズムを奏でていた。


 ――やっぱり、雨は嫌い。


 六月のとある日。僕がそんな雨の気配に意識を横たわらせながらいると、隣にいた彼女はそう呟いた。濡れた制服を身にまとい、髪の毛の先から数滴の雫を滴らせると、ふっ、と彼女はやわらかく笑みを吐いた。

 

「晴れは嬉しいけど暑い、雪は楽しいけど寒い、ハッキリしてて分かり易い。でも雨って中途半端よね、どっち付かずの存在で、なんだか不安にさせるし」


 そもそも、雨ではしゃげるのなんてせいぜい新しいオシャレな傘をデビューさせた時くらいでしょ? と彼女は文句を漏らして軒先から零れる水玉へ視線をやった。


「そうですか? 僕は雨好きだけどな。音に耳を傾けていると自分が自然に溶け込んだ気分になるから」


「だから嫌なのよ。自分が曖昧になるから」


 自分が曖昧になる。彼女の台詞を口の中で反芻してみる。その言葉は随分と今の彼女に似合っている気がして、僕は反応をしないまま、代わりにため息を雨に添えた。

 そんなポーズに彼女は微笑む。


「君ってまるで人じゃないみたい」


「どの口が言ってるんですか」


「なんだか心と口が離れているみたいなのよ。ずっと頭と口を繋げてたら損をするわ」


「その二つって何か違いますか?」


「思考と感情は別だって言いたいのよ。いちいち整理してたら感情だって出口を失うじゃない」


「感情を口にしても難儀なだけですよ」


「そうかしら? 私は結構楽しかったけどな。寧ろ頭使わない分楽じゃない?」


 確かに、と僕は一旦頷いてしまう。


「でも、過程的にはそうかもしれないけど、人それぞれにも対応の違いとかあるじゃないですか。先生とか友達とか」


「そうなったら感情も変化するんだから、素直にそれに従っていればいいのよ。意識なんかしなくたって恋人と他人じゃ話し方だって勝手に変わるわ」


 当然でしょう、と言わんばかりの口調で意見してから、彼女は自分の足下に瞳を落とす。そして、やや悲しみの増した笑みで目を細めた。

 僕が彼女の視線に合わせてその方に目をやる。

 当然かな、少しだけ心が締め付けられた。けれどそれに気付いた彼女が僕の方を向いて今度は柔らかく笑顔を作り上げた。


「その点、雨はダメね。わざわざ人の心に寄り添おうとしてくるくせに、目一杯自分を主張してくる。そんなんだから私に嫌われるのよ」


「随分ですね。ここまで雨を嫌う人も珍しい」


 濡れた道。悪くなった視界。雨だって別に悪気があった訳じゃない。ただ純粋に潤いを与えようとしていただけで、全て『運が悪かっただけ』の事だ。

 当然のように役割を果たそうとしていただけなのだから、「雨が嫌いなの」なんて言葉を言われる筋合いなんて無い筈である。

 確かに雪や晴れほどはしゃげはしないけど、それこそ彼女の言う通り、お気に入りの傘を使ってさえあげればいいだけの事だ。


 しかし、そんな理屈が彼女に通じる筈も無いので、静かに僕の中に留めておくことにした。


 彼女は言う。


「嫌わなきゃいけないのよ。そうじゃないと私が可哀想だもの」


「でしょうね」


 勿論、そうする権利が彼女にあるだろう。

 この景色は、彼女の不幸のかたまりなのだから、嫌って、恨んで、いくつか文句を垂らすくらいは許されるはずだ。


 彼女はまだ何か雨に言いたいことがあるのだろうか、これでもかと空に視線を向けていた。


 僕は降りしきる不安が丁寧にアスファルトを打ち付けるのを眺め、それから雨音に耳が慣れてしまっていることに気付く。

 お互いに口を噤んでいたけれど、もう交わす言葉も無いようにも思えた。


 しばらくして、目の前にバスが停まった。


「乗りますか」


 運転手が問う。


「いえ、乗りません。ごめんなさい」


 僕は首を振る。


 短くやり取りを終え、発進したバスが遠ざかっていくのを一瞥してから、彼女は懐かしく口を開いた。


「たまに叫んでみるの」


「どんな風にですか?」


「わぁっ、て盛大に。誰も気付いてくれないけれどね」


「想像してみたけど、結構シュールですね。それから悲しそう」


「それもきっと雨のせいかもね。雨って気分が沈むじゃない」


「だから嫌いなんですか?」


「お、その言い訳いただくわ」


「どうぞ」


 そう彼女に微笑んで、僕は立ち上がった。今日も彼女の雨は止むつもりは無いらしいので、これ以上ここにいる必要も無いだろう。


「それじゃあ、そろそろ行きますね」


 うん、と頷いた彼女は、再び灰色の光景を見やった。

 まだ彼女は濡れたままだった。


 さようなら。


 そんな挨拶を交わして『停滞した彼女』に背を向ける。それでもやっぱり気になって、振り向いてみたけれど、そこに彼女はもう居なくて、あったのはこれでもかと音を立てて自らを主張する雨の存在だけだった。


 でもまたこの時期に雨が降れば、きっと彼女は現れるだろう。

 それもやはり、雨の虚しさを孕みながら。

 

 

 

   * * *

 

 

 

 朱に滲むワイシャツ、違和感を纏った綺麗なガードレール、平らに舗装された道、申し訳程度に置かれた花束、どれもこれもが私をこの場所に閉じ込める。


「……やっぱり、雨は嫌い」


 不意に漏れたそんな言葉ですら、どこへも行けなくなってしまった。雨音が必死に私の存在をかき消す。

 ひしゃげてしまったであろう私の傘も、未だにあの日の姿を留めている。

 薄暗い感情で景色を埋めつくす雨は、不自然に、――それでも当然のようにこの世界を作り上げる。

 

 また一人ね。


 もっと心に寄り添っていたら、より感情に従っていれば、この寂しさも紛れたのだろうか。

 雨はまだ止まない。

 鼓膜にこびれついて消えてくれない。

 どうしようもなくて泣いてみたけれど、流した涙も雨で存在が曖昧になる。だから雨は嫌いだ。


 俯く顔を空に向け、強がる私は綺麗な傘を差した。

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