第二章 後宮での生活8

 とうとう皇太后のいる御殿の前までやってきてしまった。リーシンは、後方で止める多くの声を一切無視し、まっすぐにここまでやってきたのだった。最後までついてきてしまったわたしは、リーシンの陰で恐ろしさに身を固くしていた。

 リーシンは衛兵たちを無視し、ずんずんとその敷地内に足を踏み入れていく。やはり王のすることを咎める勇気あるものたちは、なかなかいないらしい。

 やがて、リーシンはある建物の前で立ち止まった。


「母上! おられるか!」


 そこの正面にある部屋の扉の前で、リーシンは大きな声でそう呼ばわった。どうやらそこが、普段皇太后が暮らす場所であるらしい。

 お願いします。どうか留守でありますように。

 わたしは思わずそう願いながら、胸の前で手を組んだ。


「なにごとですか。騒々しい」


 どうやらわたしの願いは天に通じなかったらしい。部屋の扉が開き、中からきつい目をした皇太后が出てきた。


「母上。ちょっと話がある!」


 リーシンはそう言うと、ずんずんと皇太后の部屋に入っていってしまった。わたしが部屋の外で冷や冷やしていると、その部屋の奥から声が響いてきた。


「メイリン! なにをしている! お前もこっちに来い!」


 えええ!

 それはまずい!

 絶対にまずい!

 今度こそ、皇太后様にわたしは殺されるに違いない!


 わたしは恐ろしさに立ち竦んだまま、そこから動けずにいた。

 そうしていると、再び部屋からリーシンが現れた。


「いいから来い!」


 彼はそう言うと、有無を言わせずわたしの手を引っ張って、部屋へと連れ込んでいった。それは地獄へのいざないのようでもあった。

 部屋の中は、さすが皇太后の居室ということもあり、とても豪華なものだった。

 しかしその部屋の主であるところの人物は、それはそれは恐ろしい形相でこちらを睨んでいた。それを見たわたしは、もう生きた心地がしなかった。針のむしろである。


「リーシン。どういうことですか、これは」


 皇太后は唇をわなわなと震わせ、怒り心頭に発していた。


「それは、母上ご自身がわかっていることだろう。おれはそのことで母上に話をしにきたのだ」


 部屋の奥に陣取ったリーシンは、そこにどすんと腰を下ろした。わたしも戸惑いながら、その後方に膝をついて頭を低く落とした。


「話? それは、その後ろの小娘のことかい? その話はもう、今朝その娘にしたはずだよ。その娘もそれを納得したはず。その娘のことについて、これ以上わたしのほうからはなにも話すことはないよ」


 皇太后は話し合いに応じるつもりがないという意思表示か、立ったまま座る気配を見せなかった。


「母上。母上が話をするつもりがなくても、こちらには言いたいことがある。これ以上おれを怒らせたくないのなら、おとなしくそこに座ってもらおう」


 リーシンのその言葉は、恐ろしいまでの迫力があった。目の前の広い背中からは、なにか怒りの炎がのぼっているようにさえ思えた。

 皇太后も息子のその迫力に押されたのか、しぶしぶ座に着いた。


「母上。先程言っていたメイリンにした話というのはなんだ。彼女になにを言ったんだ?」


 リーシンの怒りのこもった声が部屋に響き渡る。部屋の空気の重圧感が恐ろしいまでに重い。


「想像のとおりだよ。リーシン。お前にこの娘はふさわしくない。こんなどこの馬の骨ともわからないような娘との結婚など、絶対に認められない。それをこの娘も納得した。今日明日中にでも、ここから出ていくことを約束させた」


 それを聞いたあとのリーシンがまたすごかった。

 しばらく肩をいからせたと思うと、どんと片足を立てて、ずいっと皇太后のほうに体を寄せた。


「誰がそんなことをしろと言った!」


 その大声は、部屋を揺らし、音を激しく反響させた。


「なにもかも、母上の思い通りになどならぬ! おれはもう、母上の操り人形でいることはやめたのだ!」


「リーシン!」


 壮絶な親子喧嘩だった。

 一国の王と、その母とが互いに睨み合い、声を張り上げていた。

 原因はわたしの存在にあるのだが、もはやそこに、わたしの入り込む隙などはなかった。

 ただただ二つの巨頭が激しく争う様を、唖然として見ているよりなかった。


「お前は一国の王なのですよ! これまで我が国の王は、由緒ある縁を代々結んできたのです! 尊き血筋を護るために! そこに、そんな汚らわしい小娘が入ってくるなど、とんでもないことです! お前は我が王家を汚すつもりですか!」


「尊き血筋? くだらない! 血に尊いもなにもあるものか! そういう、くだらない因習に振り回されるのはもうたくさんだ! とにかく、おれの決めたことに、もう口出しはしないでもらいたい!」


 そう言い放つと、リーシンは立ちあがった。そして、後ろを振り向き、わたしに視線を合わせた。

 その黒い瞳は、燃えるような光をたたえていた。こんなときなのに、なぜかわたしはその瞳を美しいと感じていた。そして、その瞳に射すくめられたように、わたしはその視線から目を逸らすことができずにいた。


「メイリン」


 リーシンはそう言って、わたしに向かって手を差し出した。その声に吸い寄せられるように、わたしは立ちあがり、その手を取った。そして、くるりと再び彼は母親のほうを見つめた。


「母上。メイリンに今後一切余計な真似をしないでもらおう。これは、王たるおれの命令だ」


 リーシンはそう言って、わたしを引っ張り、その部屋をあとにした。

 後方から痛いような視線を感じたが、わたしはそのままリーシンについていった。

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