第二章 後宮での生活3

 その夜、わたしはあまりに多くのことで疲労困憊したのか、早々に寝てしまったらしい。

 とても寝られるような心境ではなかったというのに、不思議なものだ。

 と、夢見心地に誰かの声が耳に聞こえてきたような気がした。


「……リン」


 誰だろう。どこかで聞き覚えがあるような気がするのだけれど。


「……メイリン」


 夢の海からすっと掬い出されるようにして、わたしはその声を現実の音として聞いた。

 はっと気づくと、辺りは夜の闇で包まれていた。

 しかし、その一角で、ぼうっと蝋燭の光が揺らめいているのが見えた。

 そこに誰かがいることに気づいたわたしは、驚いて思わずそこから起きあがり、悲鳴を上げた。


「きゃ……っ」


 その人物が、慌ててわたしの口元を押さえてくる。

 暴漢……!

 こんな夜中に寝込みを襲ってくるなんて、そうとしか思えなかった。

 わたしは恐怖で身を強張らせ、口を塞ぐ手を必死にはずそうともがいた。


「わ! お、おい! 暴れるな!」


 命の危険に晒されているというのに、そんな頼みは聞けるはずもなかった。わたしは一層激しくもがいた。


「静かにしろっ。おれだ。おれ!」


 突然、蝋燭の火がその人物の顔近くに寄せられ、わたしはその人物の正体を知ることになった。

 その人物の顔を見て、わたしはそれこそ驚いた。


 王様……!


 わたしが暴れるのをやめたのを見て、王様はようやくわたしの顔から手をどけた。


「ったく、ようやく気づいたか」


 王様は、はーっと長いため息をついて、燭台を寝台近くの棚の上に置くと、わたしの隣にどさりと腰掛けた。衣装は今は、わたしと同じように、ゆったりとした就寝用の着物を着ている。


「まさか暴漢と間違われるとは思わなかったぞ」


 王様は、まいったとでも言うように、顔に手を当てていた。

 わたしはそんな彼を見ながら、ばくばくと心臓の音が高鳴っていくのを感じていた。


 なぜここに王様が……?

 わたしにいったいなんの用で……?


 混乱するわたしは、とにかくなにか言葉を発しようかと思うも、なかなかそれは言葉にならず、結局そのまましばらく時間が流れた。


「怒っているのか……?」


 わたしの沈黙をなにか違う方向にとらえたのか、王様がそんなことを言った。


「それとも、おれを恐れているのか……?」


 その言葉を聞いたわたしは、ようやく言葉を発した。


「い、いえ! いいえ! 申し訳ありません。あまりに突然のことだったので……っ」


 わたしが声を発したことで、王様はほっとしたように、暗がりの中で笑みを浮かべた。


「前触れもなく来てしまったのは、おれも悪かったな。許せよ」


 王様にそんなことを言われ、わたしは戸惑った。許すも許さないも、王様の行動に、わたしがどうこう言える立場ではない。

 それに、雲の上の人だと思っていた人物が、こんなに間近に、しかも自分と対等に口を聞いているということに、わたしはどうしたらいいのかわからずにいた。


「メイリン。突然のことに、驚いているだろう」


 その言葉には、わたしはすぐに返事をした。


「……はい」


「まあ、昨日の今日だし、おれも急ぎすぎたとは思うが、機が熟すのを待つより機先を制すのが性分でな。いろいろ考えるより、実行に移したほうが手っ取り早いと思ったんだ」


 王様がなにを言いたいのかはわからなかったが、とにかく今回の婚約騒動は彼にもなにか考えがあってのことだということはわかった。


「実はおれにはもう、お前よりも先に、結婚を決められた相手がいたんだ」


 その言葉に、わたしは目を見開いた。

 それは、わたしよりも先に、王様には婚約の相手がいたということになるのだろうか。それが本当なら、わたしはもしかすると、正妃ではなく、側妃という立場となるのだろうか。

 しかし、王様が結婚を決めたという噂は、宮中にいてもとんと聞こえてこなかった。


「だが、それはおれの母親と丞相の間で勝手に決められたものでな。おれは断固として承知しなかった。そんな定められた相手との結婚をおとなしく受けるなんて、虫酸が走る。他にも何人か娶せられたが、頭をすげ替えたところで、政略結婚なのは同じだ。おれはそういう因習に縛られた結婚はしたくなかった」


 それは、とても王の言葉とは思えなかった。

 国家、ことに政治に関わることで、結婚や血の繋がりというのは、大きな役割を持っていた。有力者が有力者と縁を持つことで、さらにそこには大きな力が宿る。国の有力者は、そうやって大きくなってきたのだ。

 一国の王ともなれば、そういった縁がどれほど重要なものか、考えるまでもなくわかる。

 皇太后様たちがそういったことにこだわるのは当然のことだろう。

 しかし、この王はそれを真っ向から否定した。


「いろんな女がおれと結婚したいと言ってきた。だが、そんな女たちにおれは興味がなかった。そんな女と結婚したところで、喜ぶのは一部の権力者だけだ。そんなことのためにおれは利用されたくなどなかった」


 なんとなく、言いたいことはわかった。けれど、そのこととわたしが選ばれたこととが繋がらなかった。

 わたしは王に質問を投げかけることに一瞬躊躇したけれど、この機会を逸すると、もうそれを訊くことが難しくなるかもしれないと思い、思い切って口を開いた。

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