多分しません

 今朝の私は、少しばかりソワソワとしている。いや、少しじゃないかな。結構、ソワソワしてる。

 だって、この玄関ドアを開けたら、愛しのカンザキアツヒロさんに遭遇するかもしれないからだ。

 お隣同士になったおかげで、駅で出会うよりも確率はグンッとアップした。

 しかし、その確率に諸手を上げて喜ぶことができないのが今の現状。

 引っ越しの挨拶に来てくれて、一瞬距離が縮まったかに思えた次の瞬間には、遠く何万光年も先へとアツヒロさんの心は離れていってしまったのだから。

 私へと小さな箱を押しつけ、無言のまま目を逸らしてお隣に帰って行ってしまったあの後姿を思い出せば、切なさに涙が滲む。

 こんなに距離が近いというのに心は遠いなんて、悲劇としか言いようがないわ。

「完璧にストーカー決定ですね」

 昨日のことを涙ながらに話す私へ、櫂君はそう言い切った。しかも、何故だか少し怒ったような顔をしている。

 私がストーカーに認定されてしまったことを、自分のことのように置き換え怒ってくれているのだろうか。だとしたら、とても人情に厚いじゃないのさ。櫂君、優しいね。

「でもさ。ストーカーの事は、さておき。本当に運命だと思わない? 一目惚れの彼がお隣に越してくるなんて、もう赤い糸しかないよね? ね、ね」

 ハンカチを握りしめ涙ながらに訴えたあとには、運命の赤い糸について熱く語る。

「そうですかね……。というか、“さておき”じゃないですよ」

 運命の赤い糸かもと喜んでいる私へ、櫂君はやっぱり怒ったように素っ気無い。

 私の代わりにストーカー認定について怒ってくれているなんじゃないの? そうじゃないとしたら、なんだろう?

 櫂君にしては、珍しくご機嫌斜めなのです。

 もしかして、あの日か? って櫂君は男か。

「とにかく。菜穂子さんのお祖母さんが言うとおり、余計な行動は起こさないほうがいいですよ。菜穂子さんが引っ越すだけで済むならまだいいですけど、訴えられでもしたら大変ですからね」

 櫂君にまで釘を刺され、ウキウキしていた気持ちが少しずつ萎んでいく。

「櫂君なら、一緒に喜んでくれると思ったのにな……」

 悲し気に漏らすと、櫂君がちょっと慌てだす。

「あ、いや……。菜穂子さんを落ち込ませたいわけじゃないんですよ。ただ、僕は心配しているだけなんです」

「うん。わかってるよ、櫂君。ありがとね」

 私が常に軽率だから、気を引き締めようとしてくれているんだよね。

 うん、うん。気をつけるよ。

 多分。

 櫂君の忠告を胸に、私は慎ましく生活することを決意する。

 わざわざ彼が玄関を出る時間を見計らって同じように出て行くとか。彼の帰ってくる時間、耳を欹てて確認するだとか。彼の部屋番号のポストをチラ見するだとか。

 けして、そんな事はしないように努力します。

 多分。


 ストーカー認定騒ぎは一旦置いといて、私は、今日も一日仕事に明け暮れた。櫂君に間違いを指摘されつつも、スペシャルなキーボード捌きで会議議事録を仕上げて提出する。

 ちゃんと確認してくれているのかどうなのか、部長に書類を手渡すと、フムフムというように受け取るだけ。これって本当に意味があるのかな?

 任されている仕事に疑問を抱きつつ、パソコンの電源を落とす。

「櫂君。お疲れーっ」

 櫂君への挨拶もそこそこに、定時きっかりにそわそわと立ち上がると、ちょっと待ってとばかりに引き止められた。

「ごめん。急いでるんだ」

 バッグを肩に引っ掛けて歩き出そうとする私を、櫂君はのんびりとした口調で引き留める。

「何か予定ですか?」

「予定っていうか……」

 一刻も早く帰りたくて急いでいるのに、櫂君は私の目をじーっと見てくる。その目は、「ステイッ!!」と、ちっともいうことの利かないペットへのしつけ張りに鋭い目をしている。

「お祖母さんの所へでも行くんですか?」

 私が考えていることなどお見通しというように、櫂君は猜疑心いっぱいの目で見てくるから思わずたじろいだ。

「うううん……、違うんだけどね。ちょっと早く帰りたい理由があって……」

 語尾を濁すと、櫂君の目がキラリンッと光る。

「もしかして、菜穂子さん。早く帰る理由って、隣の様子を伺いたいからとか言わないですよね?」

 若干威圧的に感じるのは、それが図星だからでしょうか。

「えっとぉ……」

 正直者の私は、うまく嘘もつけずに頬が引き攣ってしまう。

「当たりですね」

 櫂君は確信を得ると、深い深い溜息を零した。

「僕、忠告したじゃないですか。何かあってからじゃ、遅いんですよ。お祖母さんにだって迷惑がかるんですからね」

 櫂君にそう言われて、私ははっとする。

 お祖母ちゃんに、迷惑……。

 そっか。私がストーカー認定になってしまえば、たった一人の身内である、それも年老いたお祖母ちゃんに迷惑がかかることになるんだよね……。

 赤い糸に浮き足立って、そんなことすら考えられないでいたよ。駄目だな、私……。

 現実をしっかりと突きつけられて、私は考えを改めた。

 それに気づかせてくれた櫂君には、感謝だよね。

「櫂君。ありがとね……」

「解ればいいんです」

 うん、うん。と頷く櫂君を見ながら、私の思考は新たなことを思いつく。

「ねぇ。櫂君」

「はい。なんですか?」

「今日って、予定ある?」

「いえ、特には」

「じゃあさ。付き合ってくんない?」

 顔の前でハエの如く手をすり合わせる私のお願いごとを聞いた櫂君は、がっくりと頭をたれながらも諦めたように、「少しだけですからね」と了承してくれた。

 本当に櫂君て、優しいよねぇ。

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