曇天。 

プロローグ

 吐いた息が白く曇る。

 その間隔が短くなっていることから、男は自分が思いのほか緊張しているのだと気づいた。

 ――ただ、火をつけるだけじゃないか。

 そう言い聞かせて、腕時計を見る。時計の針は11時30分を回っていた。

 ――そろそろ、やるか。

 気を落ち着けるために、夜空を見上げて大きく深呼吸をする。星も何も見えない、厚い雲に覆われた夜だった。

 ガラス越しにそっと玄関ホールを覗くと、明かりはすべて消えて、人の気配はない。靴箱の上に鏡餅が飾ってあり、「一歩、前へ」と書かれた書初めが貼ってある。正月らしい飾りつけをしてあるのだろう。

 男はしゃがんで、ずりおちてきた黒縁のメガネを直した。体重80キロを超えた辺りから、しゃがむ動作がつらくなり、長くはしゃがんでいられない。

 リュックからライターのオイル缶と、折り畳んだ新聞紙を取り出した。オイル缶のキャップを開け、植え込みにその中身を開ける。

 続けて、茶色の革ジャンのポケットから100円ライターを取り出した。

 新聞紙にライターで火をつけようとしたとき、手が震えていることに気付いた。

 ――寒いから、かじかんでいるんだ、きっと。

 言い聞かせて、火をつける。新聞紙の端にやわらかな炎が生まれる。

 炎に、頬全体に吹き出物が広がった顔が映し出される。黒目がちな瞳で、新聞紙を焦がす炎をしばし見つめた。

 そして、その新聞紙を植え込みに投げる。あっという間に、オイルに炎が燃え広がった。

 それを見届けてから、男は足音を忍ばせて裏口に回った。


 遠くでサイレンの音が聞こえる。

 夜空に向かって火の粉を上げる建物を、男は見下ろしていた。

 おもむろにスマフォを取り出すと、建物に向かってシャッターを切る。数枚の写真を撮った後、男はバイクに乗って走り去った。

 それは、1月5日11時30分の出来事。

 その夜が、重苦しい一年の幕開けだった――。








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