冬の嵐(6)

「それなら、僕がやるよ」


 翔太君はゾーヤさんの悲壮な声色を引き取った。


「ゾーヤさんが抱えることはないよ……僕が、亜紀を」

「この話はやめましょう」


 慌ててゾーヤさんが言った。冷水でもかけられたように、翔太君はびくりと肩を震わせた。


 嵐が強くなり帰れなくなったという口実で、母親をホテルのところまで車で迎えにこさせることにしたようだ。私と新堂君はどうしていいか思いつかず、冷めたコーヒーを飲み干すと思索にふけった。このまま帰るわけにはどうしてもいかない。もしものことが、現実に起ころうとしている。


 人生を棒に振る、という意味は、ゾーヤさんに取ってはちょっとした調停上の決まりを破る程度だったかもしれない。けれど、翔太君は、亜紀さんに、間違いなく、危害を加えようとしている。


「新堂君は、帰って」


 私は新堂君に提案した。


「僕だけ? 松野さんも帰ろう。これ以上待った後で帰るのはちょっと、危ない」


 それもそうだ。私は傘も持っていない。外の様子を確かめて新堂君は言った。それまで私も平静を装っていたのだが、さすがにこの天候の外へ出るのは、正直に言って怖かった。過去につらい思いをした新堂君なら、尚更のことだろう。


 横殴りの雨は、ホテルのエントランスまで吹き込んできそうな勢いだった。強い風をごうごうと鳴らして、辺りをまるで夜のように暗く染めていた。空が怒っている。まだちょっとした拍子で涙がこみ上げてきそうな私は、そんな想像をしていた。


 ――空は。

 ――私にとって、空は。翔太君は、父なる空。空の怒りは、彼の怒り。

 ――海は。

 ――彼に見えている海――ゾーヤさんはそれに呼応するように、ともに怒る。海で

なかった私は、どうすれば。嵐が、強い。その大きな液体の循環にさらされながら、私は中性でいられているだろうか。そんな考えが――こちらに着いてすぐのころの、自問が、また頭に浮かんだ。自信がない。私はなりたかった自分にはなれていないのかもしれない。


 新堂君とともに、家路についた。傘は一本しかないので、わざわざ私の家までついてきてくれるという。優しさに感謝し、ホテルを出て二人歩いた。二十分ほどで、私のマンションまで着く。軽く礼を言って彼と別れた。すぐに私は新しい傘を持って、その道を引き返そうとした。新堂君を巻き込みたくなかったのだ。彼にこれ以上、背負いこむものを増やさせてはいけない。けれど私は、放っておくわけにいかない。ゾーヤさんか翔太君、どちらかが、亜紀さんを誘い、害を与えようとしているのは明らかだからだ。今日が一番、彼らを放っておいてはいけない日だ。


 傘を持って玄関のドアを開けると、その前に怜美先輩が、心配そうな表情をして立っていた。


「澄香ちゃん、心配したんだよ、メッセージ送っても返信してくれないし」

「すみません」


 スマホを確認している余裕はなかった。見ると、未読メッセージが五件ほどたまっていた。翔太君からは、一件もない。


「翔太は一緒じゃなかった?」


 本当のことを教えるわけにはいかず、私は首を振る。


「そう……どうしちゃったのかな、翔太……もしかして」

「もしかして?」

「ううん、なんでもないよ」

「先輩、一つ教えてください」


 小首をかしげた彼女の伸びた首筋にある、鮮やかな赤い傷。本人に確かめる前に、彼女に聞いておこう。


「先輩が傷つけられているのは、翔太君に、ですか」

「そうだよ」


 まるでそのことを私にすでに伝えていたように、さらりと言った。それは演技で、実は話したかったけれど今まで黙っていて、聞かれたら胸の内をすべて打ち明ける――そう言うつもりでいたに違いない。けれど後確認したいことは、今はそれだけだった。翔太君が、他人に害を加えるかどうか……。


 不穏な写真を撮り始めたとき、なにかを傷つける矛先の向きが変わっていたことに、私は気づいてやるべきだった。焦りの感情が、じくじくとした頭痛を生み出していく。


「ありがとうございます。翔太君と連絡が取れたら、こっちもメッセージを送りますので」


 そう言って、家に入る。怜美先輩がしばらくその場に佇んだのち、諦めて引き返していく音を聞いたのち、傘をもって飛び出した。急いで駆けつけなければ。手遅れになる前に。


 帰ってきた道をそのままたどる。冷たく横から殴りつけるような風雨に体がすぐびしょびしょに濡れ、ダサいグレーのパーカーが黒くなる。服装になど、かまっていられない。走っているせいで息切れしているのか、緊張から胸騒ぎが起きているのか、どちらか分からない。


 ホテルに着くと、その前の道に見覚えのある車が止まっているところだった。山本家の車だ。


 素知らぬ顔をして、ずぶぬれのパーカーを被り、雨宿りの体を装って中に入った。亜紀さんとゾーヤさんが、フロント脇の椅子が置かれたスペースに座っていた。こちらを見られていないことを祈る。糸をぎりぎりまで張りつめているような緊張感の中で、二人は話し合っている。翔太君が隣で、悲しい顔をしていた。虚ろな、暗い闇のような両目。ポケットに手を突っ込んでいる。そのポケットにいつもナイフを忍ばせていることを、私は知っている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る