冬の嵐(5)
二人は駅から栄えている通りを進み、おそらくゾーヤさんが泊まっているホテルへと入っていった。一階で昼食を取るらしい。午後一時だが、レストランにはほとんど人影はない。開いている好きな席へ、とウエイターに案内された。彼らから隠れながら、会話の内容が聞き取れる席を取ることができた。ここまでうまく事が運ぶとも思っていなかった。
「新堂君、おなかすいた?」
彼は首を振る。私も食べる気分ではない。コーヒーを一杯ずつ、頼んだ。
「今日はありがとう、会ってくれて。俺のわがままに付き合ってくれて」
「こちらこそ、嬉しい」
ゾーヤさんの柔らかい表情。その目からは、私がこれまで見たこともないような優しい光が、こぼれ出さんばかりにあふれていた。彼らは料理が運ばれるまでの間を、全く感じさせないように楽しく話をしていた。初対面のぎこちなさを、もはや少しも感じさせない。
「姉ちゃんに似て、きれいですね」
「お上手ね」
「すごい、真っ青だ。澄んだ目です」
「あら、口説き文句?」
翔太君をからかうように、ゾーヤさんが言う。自分の言ったことが小恥ずかしいものだと、後で気づいたように、翔太君は赤面した。そうしてどちらともなく、笑いが起こった。
――私の考えすぎなのだ。
彼はあの日、悪夢でも見て、少し寝ぼけていただけなのだ。夜中に彼が暴れる様子など、私はそれまで一度も見たことがないし、夜中にマンションが騒がしく思ったこともない。
翔太君は何も抱えてはいない。ゾーヤさんに対して、つらさを微塵も見せない――むしろ楽しげに談笑をしているのだ。
「まるで――そう、海みたいだ」
翔太君がぽつりと言った。新堂君が、コーヒーカップに手を付け、表面をかすかにすすると、すぐに置いた。
「どうしたの?」
様子がおかしいのは、私だった。なぜだろう。急激に涙腺が緩むのを感じた。胸のあたりがむかむかする、くやしさに身をかがめ、恥ずかしさにうつむきながら、泣いた。目を掻きむしって、涙はテーブル備え付けのちり紙で、ぬぐってもぬぐっても止まらない。新堂君の手前、みっともないな。泣き止もうと頑張ってるけど駄目だ。しゃくりあげ、かすかに声も上げてしまっている年甲斐のなさがまた情けなくなって、涙が生まれていく。
そうして翔太君は、続けて言った。
「海といえば――」
私が彼なら――海たる彼女に、問いかけることができるなら。彼がどうするか、私にもわかる。確かめようとするだろう。自分のやって来た、意味ある行いが、彼女に通じるのかどうか。
窓の外は大荒れだった。風が強く窓ガラスを揺らし、ばたばたと雨が打ち付けた。私の涙もまだしばらく止まりそうにない。
「俺が儀式をしていた、その痕を見せるよ」
「儀式とは、神社のお参りみたいなものですか?」
「神様とは、関係ないかな……見せたほうが早い」
翔太君はためらいなく、腕にできた自傷の痕を彼女に見せた。
ゾーヤさんは――見る見るうちに、その端正な顔だちをゆがめ始める。恐れていた方向に、話は進んでいく。
「海の前の砂浜で、あなたの存在に憧れながら、亜紀との縁が絶ちたくて。ずっと手首を切っていたんだ」
私はゾーヤさんの瞳に、海を見ただろうか。そう言った目で彼女を見ただろうか。怜美先輩のあこがれは、翔太君のあこがれでもあったのだ。
しかしそれを受け止めたゾーヤさんの表情は、これまでと一転して、暗く陰った。
「――それがあなたの、怜美に対する忠誠なの?」
「……変かな。俺だって、しっかり悩んだ後でこうしたんだ」
「投げ出しているだけ。海というものすら、自分の陶酔の材料にしているだけよ――その癖、今すぐやめなさい」
彼女は厳しく声を張り上げた。翔太君は圧倒され、縮こまってしまっている。彼の瞳が、ほんの少しずつ、あの晩見たようなおぞましい虚ろさに染まっていく――。
「もう、最近はやっていないけど……近々やると思う」
「亜紀に、打ち明けなさい。母親はしっかりあなたを受け止める義務があります」
「母さんは俺に無関心だよ……どうせ、産みたくもなかった子だと思って」
それから、まるで呪詛か何かのように、彼の口からは恨みの言葉があふれだしていった。かなり長い間、彼は話した。抑えようと思っても抑えられない想い。もはや彼の調子には、儀式と称して自分に酔いながら自傷をしていたころの面影はない。翔太君を見たくない。少しだけ、あの日のような恐怖感が私をさいなむ。
「彼女にその意思がないなら、仕方ないわ」
ゾーヤさんが、こらえきれない怒りに震えた、その口を開いた。
「亜紀を呼んで。私が立ち会います――決着をつける。翔太君は帰ってもいいですよ――」
「なにをするの」
怯えたように、翔太君が言う。それに答えて、
「今日は、覚悟をしてきたから――人生を棒に振る覚悟を」
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