冬の嵐(2)


 二学期が終わる。今日も私は鏡で、制服にしわが寄っていないか確認し、プリーツの乱れを直し、髪をすき、一番見たくないものを見る。自分の顔。最近体重が落ち、それは嬉しいことなのだけど、顔の肉は不健康なまでに削げ落ちていて、自分でも不気味だ。


 元からかわいくはない自分。その姿がさらに貧相に見え、自分の心まで貧しいものだと思えてくる。嫌になって顔を背けたが、私自身と、いずれ向き合わなければならないのはわかっている。私は関係を引き受けた相手に、尽くしたい。彼がどんなことをしていようとも。


 学校に行く準備をする。窓の外の景色を見ると、晴れて明るく照らされた陸地の向こう――海のほうから、大きな暗い雲がもくもくと動いている。まるで私たちの住処を呑み込み始めようとしているかのように、ゆっくりと、存在感をもって、雲はこちらに進んできていた。傘を持っていくことにするが、傘だけで大丈夫だろうか。雨合羽を着るような歳でもないしカバンがかさばって不格好だけれど、持っていこう。そう思って普段開けない押入れを開くと、中から何に使うつもりだったか、木の棒が飛び出してきて、私の右腕に傷をつける。そういうこともある、仕方ない、と思って、私は合羽を探す。どこにもなく、探している時間もなくなってきた。諦めて、食パンを焼いて胃袋に放り込み、家を出る。


 両親は、旅行に行ったきり帰ってこない。今頃、幸せにしているだろう。それを祈る。願わくば、私の意志とは遠くのところにいて。私の考えは、私の歩んできた道は、間違っているかもしれないから。そんな子を育ててしまったと、気に負うようなことはしないでほしい。






 

 心。不定形の、抱えきれないほど大きななにものか。制御できない、直視したくないなにものかを、翔太君はずっと胸の内に抱えて暮らしていた。そんなことにすら、私は気づかずにいたのだ。馬鹿だ。私はどうしようもないほど、頭の弱い、配慮の足りない、気遣いのできない人間だ。


(ウマレテコナケレバ、ウマレテコナケレバ)


 寝る前いつも聞こえるという誰かのささやき。枕を濡らし、嘔吐感を必死でかみ殺しながら悶え苦しむ翔太君に気づいたのは、つい先日のことだった。


 こちらに引っ越してきてからというもの、両親の仲はとても円満となっていた。お盛んなことだ、自分の両親がいちゃつく様を見たくもないため、私が二人で旅行に行けば、と提案したのだった。亜紀さんに許可を取って、その間山本家に泊めてもらうことにした。


 怜美先輩の部屋で寝かせてもらっていた。夜中にトイレに起きたとき、彼の低い、押し殺した声を聞いたのだ。


 ――最近いつも、ああなの。望海祭が終わったころから、ずっと。何とかしてあげたいんだけどね。


 怜美先輩はまた、顔に傷を作っていた。首元から胸にかけて、肌に青くあざのような模様も浮いていた。亜紀さんは、もはや娘への暴行を隠すつもりもないらしい。


 私は翔太君を案じて、暗い廊下を進み、部屋まで行った。


 ドアを開けるなり、彼は叫びに我を忘れ、見境なく飛びかかって来た。彼ののびた爪が私の前腕に食い込み、傷跡に刺さってぱっくりと開いた。鋭い痛みが走り、声をあげてしまった。その声の主へ――というのは、まるで彼は私を目に入れていないようだったからだ――翔太君はどすのきいた呻りを繰り返す。私は何とか、彼の部屋に入り込んだ。話し合いの場を設けたかった。


――またか! またお前か!


 また、と言った。前があるというのだろうか。彼は何と戦っているのだろうか。


 ――翔太君、またってなに。


 聞く耳を持たないかのように、彼は荒い呼吸をさらに荒くしていた。すぐに衝撃が来た。今度は、私のお腹にこぶしがやってくる。内臓に衝撃が走って、体の深奥から突き上げられるような痛みに、私はえずいた。立っていられず、エビのように背を丸めて、私はぜいぜいという自分の息の音を聞いた。


 ――翔太君、私だよ、澄香だよ。


 取り乱していた割に、彼は落ち着くまでが早かった。そのうえ、顔を青ざめさせて、私に向かって何度も彼は謝った。そして、夜な夜な聞こえるという誰かの声の話を聞いた。


 ――大丈夫? 救急車呼ぶ?

 

 彼は優しい声色を取り戻していた。大丈夫、と平静を装って見せるが、立ち上がるとまだ、くらりとした。急に吐き気がして、私はトイレに駆け込んで、吐いた。胃酸の味ばかりが私の口の中に拡がって、強烈な酸っぱさに不快を覚える。彼の「またか」という声が何度も頭に響いていた。


 まさか。まさか怜美先輩を殴っているのは、――。


 私はその思いつきを、今も翔太君に確認せず、抱えたままでいる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る