冬の嵐(3)
「うわ、やば。5だらけじゃん」
私の通知表をちらりと見、ひったくって美薗ちゃんが言う。彼女らしくないからからかい方で、思い切った行動だったのだろう。けれどぼんやりとしていて、それに対するリアクションがとっさに取れなかった。
「澄香、なんか最近ぼーっとしてない?」
私がS高に来て最初の学期が終わりを迎えようとしていた。つまらなさそうに、美薗ちゃんは机にほとんどが最高評定の通知表を置いた。成績など至極どうでもいい。将来につながる勉強をしている暇があれば私は今、目の前の苦しむ翔太君を助けてあげなければならなかった。
「大丈夫」
ふと今、私がつらく思う気持ちをいくら強めたところで、翔太君の心が晴れることには関係がないな、と考えた。それは当たり前のことだ。吐き捨てられて時間が経ち、表面が解け、なかなか靴の裏から離れてくれないガムのように、こびりついて離れないねばつきが私の脳から胸元に回って動悸がする。悩むことについて悩んでいる場合ではないのに、それがどうやらことの本質ではないか、などと新たに考え始めてしまう。
全員分の通知表がいきわたり、浅田先生が、
「皆さん、冬休みですが、まもなく嵐がやってくるという予報もあります。しばらくは外出を控えるように。その後、思いっきり羽を伸ばしましょう。学校の方針からしたら、こういうこと、あまり言うべきじゃないんだけどね……三年生になったらもう、受験勉強で遊んでなんかいられなくなるから」
そう言ってホームルームを絞めようとしていた。
「よいお年を。体には気を付けて……特に松野さん」
指名され、クラスにやや冗談めいた笑いが起こる。
「勉強しすぎなんじゃないの? この前の模試で学年一位を取って素晴らしいと思いますが、そのペースで言って大丈夫なの?」
「すみません、体調管理はしっかりします」
私はそれでさらに、クラスメイト達の苦笑を買った。あまりに不健康な、ぼそぼそとした言い方だったからだ。だから、なんだというのか。私は今、この子たちに関わっていられる余裕がない。そういうときは、誰にでもあるだろう。
ちょうど放課のチャイムが鳴った。
「嵐が近づいているから、早く帰ること」
私は浅田先生の忠告を破らなければならなかった。窓から外をのぞくと、すでに雨は降り始めている。私のビニール傘では、数時間以内にやってくる暴風雨を防ぐことはできないだろう。それでも立ち向かわなければならない。
「今日はよろしくね、松野さん」
新堂君は、決意に引き締まった顔をしていた。彼が――嵐を恐れていたはずの彼が、今日は立ち向かおうとしている。それがとても恰好いいことだと思った。
今日、翔太君はひとり、ゾーヤさんに会うことになっている。ゾーヤさんは前日に、こちらのどこかのホテルに滞在を始めているらしく、予定通り嵐の日にそれが実行されることになった。
「頼もしいよ、私だけで尾行なんて、勇気がなくてできないから」
胸を張る新堂君とともに、作戦会議をしようとした。先に帰ろうとした美薗ちゃんが、私たちがクラスに残っているのを見て声をかけてきた。
「早く帰らないと、風とか雨とか、きつくなるよ」
彼女の脳裏に、十年前の嵐の景色が映っていることだろう。
「うん、ありがとうね」
「分かってないね、澄香は。それに新堂君も」
美薗ちゃんは新堂君のことを、もはや恋愛対象として見ていない。親友である私に暴力を振るった人という意識なのだろう。彼への接し方が、以前と比べて明らかにおざなりになっていた。
「忘れたわけじゃない」
新堂君が言ったが、いつになく強い口調で美薗ちゃんは、
「そうやって善人面するわけなの? 怜美先輩と弟さんのことが、そんなに大事なの?」
私に向けられた、強めの言葉だった。今まで伏せてきたが、いつも彼らの心配をしているということぐらい、彼女はお見通しだったか。
「善人だとか、そういうの関係ないよ。ただ私たちが心配だからやってるだけだよ」
美薗ちゃんはひどく深いため息をついた。
「望海祭の日、私が変なこと言ったね、ごめん。あれは忘れてほしい」
美薗ちゃんが何を考えているのかわからず、
「どうして、そんなこと言うの」
「澄香の具合が悪いの、私の言葉のせいでしょ」
「……そうかもしれないけど」
「だったら、私を嫌いになって。それでいいから、澄香は、休んで」
私はそこまでへりくだる美薗ちゃんに腹が立ってきた。けれどそれをまっすぐ伝えられなかった。そもそも彼女の言葉は、私の心のかなり奥底にあるということは確かだった。その考えをくれた主が、忘れてくれ、と言うなら、素直に捨てるべきだというのも理解できる。
それは簡単な道理だった。それではそうと割り切れない自分が確かに存在するのは、なぜだろうか。混乱し、頭痛がしてきた。ここ最近ろくに眠れてもいない。
「今日でいったん終わりだから。今日が終われば、いったん休むから、ゆっくりするから。今日だけは見逃してくれないかな」
美薗ちゃんに向かって口に出すと、今まで蓋をしてきた事実が、私の目前になぜか急に迫ったような気がした。
私はきょうだいとの関わりを、いつまで続けるつもりなのだろうか? 心をすり減らす出来事が、今後何度も起こることは間違いない。そのたび乗り越えられるか? 自身がない。しかしそれは、疲れにまぶされ、心の芯の部分が見えなくなっているのだ。
では、私の心の芯には、何があっただろう?
「ユー・ウィル・ダイ・イン・ユア・シンズ」
「今度は、なに?」
彼女のいつもの癖ですら、鼻について、尖った口調で尋ねてしまった。
「毎度おなじみ、聖書の一節」
「神様とか、よくわからないな」
「うん、そうだね。そう見えるよ」
彼女は帰っていった。置いてけぼりになっていた新堂君は。取り残されたことだけではないような、含みのある苦笑を浮かべていた。
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