ファインダーと幻影(2)
砂浜で解散となり、家に帰っていく新堂君、それから本屋に寄る、といった怜美先輩とも別れた。私は翔太君と二人で家路につく。久しぶりに二人になって、私は翔太君の姿に、異性だということを感じる。たとえそれが、憔悴しきった表情であっても魅力が損なわれることはなく、それはそれでかっこよかった。
翔太君と二人きりになるのは、案外久しぶりな気がする。望海祭の一瞬以来のことだろう。告白以後、かなり時間が開いてしまった。
それでも、二人で歩いているというその事実だけで、私たちの仲が深まっていくような気がして、何でもできそうに思えてしまう。恋の魔力が私たちの周りを漂っている気がして、辺り――例えば何の変哲もない、家屋からの生活音だったり、空地にそよぐ雑草の擦れ合う音だったり――が、まるで私たちを称えているように感じるから、不思議だ。高揚感を味わいながら、あっという間にアパートの前まで来てしまった。名残惜しい時間の残渣が、私の胸の内でうごめいていた。
「勉強、しっかりできなかったね」
彼にすがるような声色で、私は言ってしまった。引き返すこともできないので、続けて、
「もう少し、私の家で勉強していかない?」
「澄香のうちにいったら、俺は狼になってしまうよ」
翔太君はややおどけて言った。その言葉は私に、多大な高揚感をもたらした。彼が私を求めてくれているのなら、もうどうにでもなっていいという覚悟はできていた。
「嬉しいな!」
自然に笑えたと思う。私は笑顔で、翔太君をその気にさせることを望んでいる。
翔太君が私の期待に応えるつもりか、抱きついてきた。どこか母性を求めているような懸命な抱擁は、いやらしさを感じさせなかった。私は人目を気にせず、かわいい翔太君を素直に抱き返す。彼は私の肩に顎を乗せ、私と触れ合うひとときを味わうように、しばらくじっとしていた。
「こういうこと、実は、怖いんだよ」
不意に体を離した翔太君の表情に、これまで見たこともない陰りがあった。後ろめたさに唇をかんでいるような。私は翔太君の頭に手を置いて、尋ねる。
「どうして?」
「お父さんの血を引いてるのであれば、絶対澄香に乱暴してしまうから」
「ちょっとなら、乱暴してもいいんだよ」
「怖い、怖いんだ」
彼の震えた声色から、それが嘘偽りない本音であることは分かった。何を思って、そう言っているのかは判断が付かないが、とにかく彼はなにものかに怯えている。乱暴、という言葉を彼はどうとらえているだろうか。
「お父さんが嫌い?」
「とっても。だって亜紀と、そう言うことをしたから、俺が生まれたんでしょ」
彼はもじもじとしながら言った。
「私は亜紀さんのほうが悪い気がするけど……そう言う問題じゃないよね」
実際私は茂樹さんに会ったことがないので、そう断定することはできなかったが。
「……ごめん、どっちが悪いっていうのじゃない、のかもしれない。俺は親たちが、憎いよ」
「大丈夫?」
「……ん」
強がりでうなずいているのだと言うのは、痛いほど伝わって来た。いとおしくなって私は彼を抱く。彼の優しい母親を、肩代わりすることはどうやってもできないけれど、つとめて、強く暖かく。
「今日はもう家に帰らなきゃだけど。写真、しっかり見て。俺の気持ち、しっかりこもってるから」
「ありがとうね。大事に見るね」
私たちはお互いに後ろ髪を引かれる思いをしながら、階段をのぼる。私が部屋に消えていくのを見る彼の目からは、得体の知れない決意の色が見て取れた。私の錯覚だろうか。
自室で、唯奈に返した漫画を買いなおしたものを読んでいると、怜美先輩が、私のスマホにメッセージを送信してきた。
『今日はせっかくの勉強会だったのにごめんなさい。また、誘ってあげて。翔太の成績、本当にピンチだから。お願いね。
うちのお母さんに何を言われたか、知る由もないし、聞くつもりもないけどさ。私は翔太のことが心配。もし翔太のことを言ってたなら、そのことは絶対本人には秘密にして』
返信に迷った。もちろん言われずとも分かっていたことではあるのだが、念を押されるとも思っていなかった。怜美先輩にだって、もちろん弟への愛がある。それを忘れてはいけない。
『当然です。弟さん思いのメール、素敵です。私の件で、亜紀さんはなにか言っていませんでしたか? 迷惑になっていないか、心配です』
『大丈夫だよ。相変わらず人を褒めるのがうまいな。さすが!』
そこで私は夕飯の用意ができたという母親の声を聞いた。スマホに気を取られていて、肝心の写真を印刷するのを忘れてしまっていた。ご飯の前に作業を終わらせてしまおうと思い、プリンターの電源を入れる。ノートPCの画面に、彼のとった写真――切り取りたがった世界が、映しだされた。プリンターにケーブルをつないで、それを印刷して、十数枚の写真を手に取って眺めた。印刷不良はないようだ。このまま生で渡すのも味気ないと思い、便せん入れ用の封筒でもないものかと、机の引き出しを覗く。
きっと、何度かノックはされていたのだろう。しかし、それに全く気付かなかった。母親が寝てるのー、と無遠慮に自室に入ってくるのを防げなかった。
「澄香、写真なんて始めたの――」
母親は、私が引き留めたにもかかわらず。机の上に置いてある翔写真を手に取って見た。
「趣味が悪いわね」
母親の目――つまり、当事者でない人の目には、車道の舗装のぱっくりした割れ、怜美先輩の傷跡、痩せこけ目やにがこびり付いた野良猫、ゴミにたかる無数の蠅、そういった写真が、見るに堪えない、下劣で悪趣味なものに映るのだろうか。きっとそうに違いないし、気持ちは分かる。
「関係ないから」
私は翔太君に、間違いなく一歩を踏み入れている存在なのだ。それが今、証明されたのだ。確証がほしかったのかもしれない。私は得も言われぬ喜びを覚え、上機嫌で写真を母から奪い取って引き出しにしまった。
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