好きって何(2)

 私の声に、彼はあからさまに表情をかげらせた。


「海は好きだよ、泳ぐのが好きだから」

「海で泳いだこと、あるの?」


 彼の顔色が青ざめてくる。彼は首を振った。


「そんなことで、大丈夫なの? 今目の前にある海に、飛び込もうと思わないの。せっかく泳げるのに、優しく触れ合えるのに、勿体ないと私は思うな」

「うるせえんだよ……」


 これまで聞いたことのない、低くうなるような声だった。その後、体が軽くなるような感覚があった。息が苦しく、顔に血が溜まって、こめかみの血管がしんしんと鳴る。新堂君に胸ぐらをつかまれていたのだと気づいたとき、騒然とするクラスメイトの声を聞いた。彼は土色の頬に汗を流し、荒い呼吸をしていた。のどが詰まって涙が流れたけれど、彼のことが怖くはなかった。彼のそういう表情を見て、不思議と安心する気持ちさえあった。こういう感情も、彼は持っていて、よかった。彼は海の敵だ、そういう愚劣な感情を、持っていてほしかったという期待があったかもしれない。彼は徐々に我に返ってきているのか、私をつかむ力を少しずつ緩めていた。


「ごめん、ごめんなさい」


 かといって、私は彼を責め立てたいわけでもなかった。ただ、感情を確認したかっただけ。つかむ手を放されると同時にそう考え、自分が意地の悪い性格だと気づき、私は嫌になって顔を伏せた。


「私、デリカシーなくて。気に障ること言って、本当にごめん」

「なんで松野さんが謝ってるの。乱暴なことをしたの、僕だよ」


 新堂君はクラスにいるのが気まずかったのか、話がある、と言って私を中庭へと誘った。私は彼に、素直についていった。


 望海祭がもう、来週の土曜日に迫っていた。中庭に植えられたソテツに、当日校舎の見えやすいところに飾る、美術部の有志作成のポスターが立て掛けられていた。結局、私は部活に所属しなかったな、などと考えていた。もはやその必要もないかな、と感じる。私は部活に入らずとも、もうクラスで立ち位置ができているからだ。彼がそのそばで立ち止まった。私のクラスの演劇組が、発声の練習をしているのを見つけて、場所を変えた。足取りは落ち着かなかった。ようやく花壇のそばに立ち止まって、なおも彼は沈黙していた。煮え切らず、私は彼に声を掛けた。


「おとといは途中で帰っちゃってごめんね」

「体調が悪かったなら、仕方ないよ。来てくれてありがとう」


 新堂君は今や、いつもの柔らかい笑みなど浮かべている余裕がないようだった。


「僕はたまに、分からなくなるんだ――自分の泳ぎが早くなる、その延長に、海を克服し制覇することがあるのかどうか」

「そんな日もある」

「毎日がそうだよ。はっきり言うよ。僕は夏とか、海が苦手だ。トラウマになってる」


 堅い鉄は、もろい。しっかりした信念は、一度揺らぐと元に戻すことが困難になる。


「僕は小学校に上がると同時に、水泳を始めた。怖い海に立ち向かうための努力と自分に言い聞かせて、克服することに必死になれた。それでも――駄目なんだよ。確かに僕はこの県の高校生の中で一番速く泳げるかもしれない。――速く泳げて、なんになるって言うんだ」


 彼の口もとが、泣きだしそうにわなわなと震えていた。


「僕はやめたいよ、こんな、全部無駄になるかもしれないようなこと。途中から、気づいてたよ。こういう方法は、近道じゃないって、小さいころに気付いたよ。それで僕は、もしかしたら怜美先輩に聞いたかもしれないけど、彼女が家出をしたとき、本当のお母さんを探しに行きたいって、言われて、『どこへ逃げても同じ』って答えたんだ。あれは、自分自身に向けての言葉だ。そうに決まっている。泳ぐことに逃げてる、自分が愚かだと思って、言ったんだ」


 私は突然涙を流し始めた新堂君に、ハンカチを差し出した。彼の気持ちに同情することは、難しかった。でも、理解はできた。それは苦しいことだろうと思う。


「新堂君が逃げているとは思わないな。そうして、結果が出せているんだもん。新堂君はいろんなもの、持っているんだよ。優しい性格とかさ」


 そういう言葉をかけるつもりはなかった、本当になかった。けれど、気づくとそう、口にしていた。


「それがまやかしだって、分かっただろう。僕は君の胸ぐらをつかんだんだよ」


 私は黙ってかぶりを振った。それを見て、彼はため息をひとつついた。


「君はお人よしだね。そう言う自分を演じたいんだろう。そうやってキャラクターを作って、みんなにちやほやされたいんだな。僕だってそうさ。優しくしていたのは全部、ちやほやされたかったからだ。――僕は自分が海にかないそうもないと思い知らされるとき、無性に人のつながりに自分を埋没させたくなる。そうしたら、みんなが僕にちやほやしてくれる。――見下していると、嗤ってくれてもいいけど」

「私は、私を救ってくれた海と、親友に、少しでも近づきたいだけだよ」


 気づけば私は彼にやさしく微笑みかけていた。ワイシャツの裾をまくって、右腕を見せる。自傷の跡を。


「建前とか、どうでもいい。これは私が勝手に自分の存在を確かめた証。これが、私のわがまま。今ここにいて、私がしなきゃいけないって言う本音を、私は腕に刻んだの」


 彼は驚いたようにひとつ大きく息を吸って、勢いで何か言おうとしたらしいが、結局肺にたまった息をそのまま吐き出すだけだった。


「翔太君と、同じことをしたんだね――訂正するよ。君は強い子だね」

「新堂君のほうが、よっぽど」

「そんなことはないよ」


 ややニヒルな笑いを浮かべながら、


「――僕はおととい怜美先輩に振られたんだ」


 ぽつりと呟いた彼の声は震えていた。また涙がこみあげてきているようで、ハンカチに顔をうずめた。


「埋めてくれる存在が、欲しくなるんだ。僕は――本当に汚い自分が嫌になるけれど、そのとき怜美先輩に欲情していた。前から、好きだったんだと思う。乱暴に彼女の唇を奪おうとしたんだ。もちろん嫌がられたけど、そんなに強い抵抗ではなかった。だからこそ、僕はもう何もできなくなったんだ。今は駄目だって、言ってた。私は今、清算しなければならないことがあるからって。それが終わるまで、待ってくれって言われた」

「それは――やっぱり、本当のお母さんのことなのかな?」


 彼は顔を上げて、


「違うよ。怜美先輩は、弟のことをすごく心配していた」


 私の背中を衝撃が走って、筋肉がひきつりそうになる。なぜ? という声が頭の中で反響して、くらくらとした。


「大丈夫? やっぱり僕が胸ぐらつかんだせいかな、気分が悪いなら保健室に行って。それで、僕のせいだってしっかり伝えて」

「そうさせてもらうね」


 嘘だった。簡単に頭を下げて、私は怜美先輩のいるクラスのところへ速足で向かった。

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