好きって何(1)
「望海祭、って名前、実はなくなるかもしれなかったんだよね」
次の平日の朝、私は美薗ちゃんに会うとすぐ、借りていた本を返し、十五年前この地を襲った風雨について尋ねた。彼女はこう切り出した。
「十五年前の夏の嵐で、大きな被害が出た。死者も、何人か。波が高くて、防波堤を超えるんじゃないかって言われて、みんなでここの屋上に避難した。そのときの屋上からの眺め、ずっと覚えてるよ」
私は話していくうちにみるみる表情を曇らせる美薗が心配で、
「無理に話さなくてもいいよ」
「ううん、大丈夫。むしろ、外から来た人にはこのこと、知ってもらわなきゃいけないと思うし――泣き叫んでいる赤ちゃんの声が、屋上ではたくさん聞こえた。砂浜が流れついたゴミや木でぐちゃぐちゃになってるのが見えた。雨のにおいが、うっとうしかった。――あんまり悲しい光景だったから、望海祭なんて名前やめにしよう、って言う運動が起きてさ。学校側は伝統を守って望海祭って名前を通してるけれど、それで、それで、今も遊びに来てくれない大人も、結構いるみたい。例えば、うちの両親とかね」
「そうなんだ……寂しいね」
そのとき教室に新堂君が入ってきた。私は彼に聞きたいことがあったが、向こうから話しかけられるまでは何も言わないでおこうと決めていた。これは彼にとって、繊細な話だ。案の定、彼は私に話しかけてこなかった。
「新堂君、あんまり浮かない顔をしているね」
私には普段の柔和な表情を浮かべているようにしか見えなかった。美薗ちゃんはよく、彼のことを見ている。多分彼のことが、好きなんだと思う。
「出場した全種目で県一位を取ったのに、なにか悩みごとなのかな。ねえ澄香、応援行ったんでしょ。何か知ってる?」
「私、途中で体調悪くなって帰っちゃったから……美薗ちゃん、話しかけてみたら?」
「私!? 無理無理、緊張して何もしゃべれなくなっちゃうよ」
「美薗ちゃんって、新堂君のどういうところが好きなの?」
「好きな前提で話さないで……恥ずかしい」
頬を朱に染める美薗ちゃんを、この上なく乙女だと思う。私は美薗ちゃんにも隠れファンがいることを、演劇の稽古の時に知った。演劇の脚本を手掛けた、という、知的な感じが受けているようだ。けれどそれは、周囲が彼女に抱くイメージに過ぎない。
「自分のコンプレックスを乗り越えたところだよ。自分の災難を乗り越えて、誰よりも頑張ってるところが、かっこいいと思う……って、言わせないでよ恥ずかしいなあ!」
私は真っ赤になって机に突っ伏す美薗ちゃんを、心底いじらしいと思った。彼女からすれば、お互い仮面をかぶったもの同士。建前を持った人間が、同じく立派な建前を持っている人に惹かれるのは自然なのだろう。
「恋をするって、どういう気持ちなのかな」
美薗ちゃんに質問をしておいて、自分でもおかしな話だと思う。私だって、恋をしている。そのはずだった。けれど、どうにもはじめ私が海に対し抱いたほどの胸の高鳴りが、起こらないのだ。美薗ちゃんはうっとりとした目で、
「恋って、憧れているうちが一番楽しいのかもしれないね」
「そうかな」
「彼のことを考えると、胸が苦しくなる。夜は悶々と彼のことを想像してしまい、眠れない。頭の中であれがしたいこれがしたい、って想像することって、告白とか、そういうのをする前じゃないと楽しめないと思うんだ」
そういうものだろうか。私は首をかしげると、美薗ちゃんは笑った。
「澄香も好きになれそうな人、見つけたら」
「……そうだね」
すでにその相手がいて、告白も済ませてしまっていることは伏せておきたかった。相手が、怜美先輩の弟だったのでなおさらだった。ふとここで、自分の感情がどこにあるのか分からなくなり、不安で、彼女にすべて打ち明けてしまえば楽になるのではないか、そう思った。翔太君は優しくてかっこいい。彼を思い浮かべると、確かに胸の鼓動が早くなる。それはしかし、初恋のものほどではない――私は翔太君への様々な感情を「好き」とひとくくりにして伝えてしまったことをやや後悔していた。それは短絡的だったのではないか。「好き」とはもっと、曖昧なものなのではないか。わからない。
結局私はだんまりを決め込み、美薗ちゃんはまた、視線を新堂君のあたりに向けていた。
私も水泳の記録会の時から、少しは冷静になった。新堂君が背負っている荷物は重すぎて、きっと私がこう考えるよりもずっと大きくて、そのはけ口に水泳があるのだとしたら。私は彼を責められない。私が勝手に、彼を嫌っているだけだった。怜美先輩と違って、彼は誰も傷つけてはいない――彼が傷つけているのは、人ではない。むしろそれは、マイナスの感情の健全な発散法と言える。
しかし、私には彼に問いただしたいことがあった。
「なんで調子悪そうにしてるのか、私が聞いてみるね」
「その言葉を待っていたの」
美薗ちゃんが、すがるような上目遣いで私を見た。
「私も聞きたいこと、ひとつあるし」
新堂君のところに行った。彼は私が本当に体調不良で帰ったのだと信じているのだろう、普段通りの笑顔で私に挨拶をした。
「新堂君、ひとつ質問があるんだけど、いいかな」
「どうしたの?」
「初めて会ったとき、私に言ったこと覚えてるかな」
一瞬、彼は考えるように額に手を当て、
「覚えてるよ、どの話のことかな」
「責めてるわけじゃないんだけどさ、どうして海が大好きなんて嘘をついたの?」
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