水を裂く(2)
気が付くと、怜美先輩に肩をゆさぶられていた。意識はあったが、半ば眠りについていた。私は飛び起きると、急いで扉の外に出る。名前も知らない駅名だが、なかなか大きく、人足もある。会場までは駅から歩いて十分で着いた。
「新堂くん、十時からウォーミングアップ。それまでは二階の観客席にいるから、励ましに行くよ」
怜美先輩は場所の勝手を知っていた。何度かここを訪れたことがあるという。新堂くんをひとりで応援しに来たことがあるのだとか。私は彼女についていきながら、そこまでして彼を応援したい気持ちの源泉となるものは何だろう、などと考えていた。
「あ、ホントに来てくれたんだ。ありがとうね松野さん」
「ちょっと、私もいるんですけど」
「先輩はいつもいるじゃないですか」
軽口をたたく新堂君を、初めて見るかもしれない。
「恩返し、ですよね」
「私はそんなつもりじゃないよ。新堂君のこと、心から応援したいと思ってるから」
「ありがとうございます、と言っておきます。――じゃあ、ちょっと着替えてくるんで、また後で会いましょう」
怜美先輩は頬をやや膨らませたが、流石の笑顔で、更衣室に向かう新堂君にエールを送った。
私たちはそのまま、二階の応援席に座った。電車の中と、気まずさは変わらず。私は新堂君がウォーミングアップで出てくるまでの時間を、どうやってつぶせばいいか分からなかった。それでうつむいていると、
「――新堂君がなんで、泳ぎをはじめたか知ってる?」
「聞いてません」
「そっか。てっきり聞いたものかと思ってたけど――新堂君の母親の話、したじゃない?」
私は、夏休みの夜、彼女が一人マンションの駐車場に座り込んでいたときの会話を思い出す。
「本当のお母さんを探している、ここから出ていきたいって言ったら、どこへ逃げても同じって返されたんでしたっけ」
「そうそう。――新堂君には、父親がいないの。私たち家族がここに引っ越して来る前、水難事故で亡くなったの。大きな嵐に巻き込まれて」
驚きが私の背中を突き抜け、暑い競技場の中でも寒気がした。美薗ちゃんから借りていた、ここ出身の作家の小説の内容を思い出した。今から十五年ほど前、この地を大きな嵐が襲ったそうだった。
「彼の父親は市役所に努めていて、環境課の護岸担当に回されていたんだって。まだ若くて、津波の注意報が出ていたけれど、功を焦って視察に行っていた。それで、海に流された。――その数日後、遺体で見つかったんだって」
辛い過去を背負う新堂くん――彼と、それを語る怜美先輩の瞳は、同じ輝きをしているように思える。
「それで――彼は海の強さ、残酷さを知った。それに打ち勝ってやりたい、そんなことはできないけれど、せめて人間の中では海と戦って強い存在になりたい、つまり人より速く泳げるようになりたい、と考えているんだろうね。敵討ちじゃないけどさ」
なんとなく、分かる気がして私はうなずいた。
「同情じゃないけどさ。本当の親に、どうやっても会えないって言うところで、ちょっと共通点見出しちゃってるよね。いや、私のほうが恵まれている。私の本当のお母さんは、まだ生きているはずだから――」
会えるかどうかわからない家族のことなんかより、今自分が家族を傷つけているということに自覚を持ったらどうですか。
私はその台詞を飲みこんだ。怜美先輩の、あこがれの視線に、強い言葉を彼女に向ける気がそがれてしまう。代わりに尋ねる。
「怜美先輩は、昔本当のお母さんと過ごしていたとき、楽しかったですか?」
「それはもう。とっても幸せだった。優秀なお父さんと、優しいお母さん。今にして思えば、できすぎていたぐらい」
今日初めて、私の脳は活動を開始したような感覚だった。そういった暮らしに戻りたいとは思わない、とこの前言っていた。それは、なぜだろう。
どこか懐かしむような怜美先輩の表情を伺いながら、次の言葉を必死で考えていた。
「あ、新堂君出てきたよ!」
私の思考はまた、彼女の言葉によってストップした。競泳パンツ一枚の新堂君は、しなやかな筋肉が綺麗についていて、素敵な体つきをしていた。彼は飛び込み台からの着水を、何度も繰り返した。その後、ゆったりと、水に同化するようにウォーミングアップを始める。彼の眼差しはゴーグルに隠れて分からなかったが、きっと優しい目つきをしているのだろう。
――水を切り裂いて、自分で水の流れを作って、一緒になって前に進むのがすごく好きなんだ。
初めて新堂君に会ったとき、彼はそう言っていた。ウォーミングアップの様子からは、そんな感じを少しも受けなかった。むしろ、普段の柔和な笑みを浮かべる彼らしい泳ぎだった。
「いつも、初めはゆっくり泳ぐのよ、新堂君。競技になったら、それが豹変する。別人みたいに、ぐいぐい進んでいくんだから。驚くよ」
怜美先輩が私に向けて言った。三十分ほどで彼に与えられた時間は終了する。最後まで、彼はゆっくりと泳いでいた。まるで水と対話するように。
「私はこういう新堂君のほうが、新堂君らしいというか、好きです」
「初めて彼の泳ぎを見たとき、私もそう思った。けれど、水を裂くように進んでいく新堂君のほうが、彼が本当になりたい自分なんだから、応援してあげなきゃ」
彼のウォーミングアップを見ているうち、応援席には人が増えてきていた。それぞれの観客が、めいめいの選手を応援するのだ。私は怜美先輩と一緒に、新堂君を応援する。それにはまず、二人の連携が必要な気がして、私には到底無理だと思う。
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