水を裂く(1)

 演劇の稽古で連日遅くまで学校に残っている疲れが出ていて、休日はお昼頃まで眠ることが多かった。しかし今日は、朝早くに目が覚めた。もう少し無意識の世界にいたかった。


 九月も末だ。休日の朝のニュース番組で、来月からの天気の三か月予報が流れていた。12月、こちらの地方は天候が安定せず、激しい嵐が起こる可能性が高い、などと報じている。私は着替え、支度をする。決まって早起きをする母親に声を掛け、朝食のパンをかじる。億劫で仕方がない。


 私はここに引っ越して来て一度も利用したことのない、最寄り駅の改札を抜ける。改札を入ったところに、八時に集合する予定。そわそわして、三十分早く着いてしまった。彼女に会う前に、どう声を掛ければいいか考えておかなければならないはずなのに、まるで頭が働かなかった。私は長袖のラフなパーカーの袖をまくりたくなる衝動と戦った。隠す必要はないのではないか。まだ、夏だ。熱気は私の体の周りで、まるで変幻自在の物体のように存在感を主張していた。


 まだ、来ない。来ないでほしいとも思う。今日の約束は、あの出来事がきっかけでおじゃんになったのかもしれない。怜美先輩と連絡を取る手段はもちろんあるし、学校ではなんどか顔を合わせている。私はあまりに気まずくてすぐに目を背けてしまうし、どことなく向こうもそっけない気がしていた。自動販売機で水を買って飲みながら、もし待ち合わせ時間までに来なければひとりで電車に乗り込み旅をしようと考えた。


「お待たせー」


 昨日も聞いた声が、私の耳に入った。彼女はベージュのタイト目なワンピースを身にまとって、シックなネイビーのパンプスを履いていた。疑念の余地は微塵もなく、彼女は大人びていて、とても綺麗だった。


「あの」

「どうしたの! そんな顔してる人に応援されても、新堂君元気でないよ? ほら、にこって笑ってね、にこっ!」


 気合を入れて口角を上げようとするが、頬がひきつるように動いただけだった。


「元気がありますね」


 言ったのち、こんな口しか聞けない融通の利かなさを呪う。


「今日は新堂君が頑張れるように応援することが目的。そうでしょ?」

「そうですけど」

「そうですけど?」

「そうですね」


 私の肩になにか重いものがのしかかってくるような心地を覚えながら、私は彼女と二人で歩く。駅のホームで電車を待った。電車が来て、東京とは比べ物にならないほどガラガラの車内に驚きながら、二人並んで座席につく。怜美先輩が来なければ、私はどこへ行くつもりだったのだろう。多分、唯奈のいるところだ。


 彼女は何の気兼ねもなさそうに、私に高校生活の話題を振った。


「そういえば演劇、調子いいんだってね。放課後もクラスから声、聞こえるね」


 私たちのクラスは望海祭の出しものに全力投球している。私も演劇の稽古を通して、クラスのみんなと仲良くなれているし、特に美薗ちゃんとは、かなりうまくいっている。とても仲のいい友達として、私たち二人はクラスに知れ渡っている。


「頑張ってます」

「高校での思い出作りは、とても大事だと思うよ――なんて現役高校生が言うセリフじゃないか」

「怜美先輩のクラスって」

「喫茶店。軽食と、お茶を出すけど変装も何もしないから、つまらないよ。三年生だもん、みんな受験勉強で忙しいよ」


 怜美先輩は車窓から、海側のほうを眺めた。建物しか見えない。彼女にかける言葉が見つからず、私は膝の上で握りこぶしを作ってうつむいていた。


 記録会は県の水泳競技場で行われる。そこまで、電車でおよそ三十分。私はもう、眠ってしまおうと思った。目ぶたを閉じる。その動作に誘発して、私はつい、眠る前に想像してしまう好きな人のことを考えてしまう。


 彼からの返事はない。それどころか、私はあの日以来彼と顔も合わせていなかった。元気にやっているだろうか、まだ、常習的に腕を切っているだろうか。寛容な海の音は、彼を優しく慰めるように癒すだろう。私も、彼を癒してあげたかった。そのために、私は怜美先輩を糾弾する必要があった。彼女は、家族に対して言ってはならないことを言ったことについて、私は避難しなければならない。それがまず、私がきょうだいにかかわってすべきことだと思っている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る