偉大なるジャック・オ・ランタン

神乃木 俊

プロローグ

 イギリス南部を東流し、古い伝統を持つテムズ川。


 そのほとりにある田舎町に、心優しい少女が住んでいました。少女はミサという名前でした。ミサは終業のベルが鳴ると、一目散に学校を飛びだしていきます。


 十月も終わりに差し掛かり、学校と家を繋ぐ川沿いのレンガ道は、赤黄色のブナの葉が絨毯のように敷き詰められています。乾いた秋風がススキの穂をうなずかせるたびに肌寒さを感じます。


 ミサはすこしでも温かくなるように、ワンピースから伸びた足をちょこまかと回転させ、手はオールのようにブンブン振りまわします。そうすると家に帰り着くころには、ちいさな額にたまのような汗が浮かんでいるものでした。


 ミサの家は街の外れに位置していました。掘っ建て小屋に藁で葺いた屋根は、イギリスの伝統的なカントリー・コテージと呼ばれる質素な造りでした。


「ただいま」


「おかえり」


 ミサはナップサックを自分の部屋のベッドに置くと、長袖の裾をまくしあげながら、急いでリビングに戻ります。お母さんの洋服縫いを引き受けるためです。お母さんにはそのあいだ、晩ご飯の支度に取りかかってもらいます。


 ミサの家はけして裕福ではありません。

 今着ているチェックのワンピースはお母さんのお下がりで、教科書を入れるナップサックはお父さんのシャツを生地にして作られました。家にある家具も近所から譲り受けたものばかり。


 家の立て付けも褒められたものではなく、夏は壁の隙間から昆虫がお邪魔してきて、冬は冷たいすきま風がびゅうびゅう吹きこんできます。


 しかしながら、ミサは幸福でした。


 朝昼晩なにかしらの食事は口に出来て、学校には気の置けない友達がいます。授業では知らない世界についてたくさん学べます。けれどなによりも、心から甘えられる両親の存在はミサの幸福そのものでした。


 ミサは健気にお母さんの言いつけを守り、友達と遊ぶことなくまっすぐに帰宅して、内職を手伝います。けれど最近のミサは、どこか元気がありません。裁縫の糸を針に通す手には迷いがありました。表情もどこかくもっています。


「どうしたの、ミサ」


「ううん、なんでもない」


 ミサのお母さんは娘からの気のない返事に、かまどに薪をくべる手を止めました。ミサは元気がないようだけれど、なにかあったのかしら。お母さんには拭えない負い目がありました。


 それは、自分たちの稼ぎがすくないせいで可愛い我が子に負担を掛けている、というものでした。けれど孫の手も借りたい現状を鑑みると、ミサを甘やかすことはできませんでした。


 そんなお母さんの心配をよそに、やっと針に糸を通し終えたミサは、ズボンのチャックのほつれをなおしていきます。そのちいさな胸には、お母さんの負い目とは異なる悩みがつかえていました。


 かまどの火に掛けられた鍋から香ばしい匂いが立ちあがるころ。

 大好きな父さんが帰ってきました。シャツは泥だらけで肩には重そうなつるはしを担いでいます。ミサよりも二回りほど大きな手はあかぎれて痛そうです。


「お帰り、お父さん」


「ただいま、ミサ」


 ミサは汗ばんだお父さんの腰にくっつくようにしながら、洗い物を受け取って早速石けんで洗濯します。お母さんも労りの言葉を贈りながら、お腹がぺこぺこなお父さんのために夕飯の準備を急ぎます。食事の仕度が済むと、ミサたち家族は三人揃って食卓を囲みました。


 昨日の野菜スープの残りに、すこしカビの匂いがするパン。それとすこしの煮っ転がし。質素な夕食でした。贅沢する余裕がないのに加え、冷蔵庫のないミサの家では食財を買い込むことができません。今日のようにお母さんの内職が忙しい日には、買い出しが間に合わず、朝ご飯と同じ品目が並びます。


 それでもミサたち家族は暗い顔一つせず、今日の出来事を食卓のうえで交わせていきます。そこには真っ白な湯気に包まれる、温かな笑顔がありました。ミサは学校で学んだ歴史の授業の話に熱を注ぎます。


「ジャック・オ・ランタンはね、もともとは悪賢い人だったの。だから天国にも地獄にもいけなかったの」


 それは生前に墜落した人生を送っていた魂の悲惨な物語でした。


 悪さの限りを尽くした魂は、天国にも地獄にもいけません。行き場を亡くした魂を悪魔は哀れみ、道しるべになる地獄の石炭を分け与えました。流浪の身となった魂は、萎びて転がっていたカブをくりぬいて被せて火種としました。


 そのランタンこそが、後にジャック・オ・ランタンと呼ばれるようになるのです。


 そしてその言葉は、長い年月の経過と供に、いつしかランタンを持つ魂、人物をも意味するようになりました。行き場を失った魂は、今なお、ジャック・オ・ランタンを片手に彷徨っていると語り継がれています。


 お父さんはミサに食事の半分を分け与えながら、壁に掛けられたカレンダーに目を向けました。


「そうか。明日はハロウィンか」


「お父さん、こんなに食事をもらっていいの」


「もちろん。働きすぎるとね、逆にお腹が空かないものなんだ」


 ミサは滑らかに動かしていた口を閉じ、お父さんのトパーズ色の瞳を見つめました。その瞳には、成長期であるミサにすこしでも多く食べさせたいと書いてありました。ミサは食事を受け取ることにしました。


 そちらの方がお父さんが喜ぶと、ミサは知っていたからです。


「ありがとう、お父さん」


「どういたしまして。今日の学校は楽しかったかい」


「う、うん。楽しかったよ」


 脳裏をよぎったのは、ある男子にされた悪戯のこと。敏感なお母さんは、歯切れの悪い愛娘の返事にスプーンの手を止めました。


「どうしたんだい、言い淀んで」


「そ、そうかな。えへへ」


 ミサは慌てて笑顔で取り繕いました。お母さんはミサの顔を覗き込みます。けれど気丈に振る舞うミサに、最後には諦めるようにゆっくりと息を吐き、なにもなかったようにスープを口元に運びました。


「なんの授業が楽しかったんだい」


「歴史かな」


「お父さんは数学や理科以外はからっきしでね。ミサはお母さん似なのかな」


「うん。私、歴史大好き」


 それからは平和な食卓でした。


 食事が終わったミサは満足な気持ちでお茶を啜ります。食事を終えたお父さんとお母さんは、家計簿を見ながらなにやら真剣です。


 ささやき声から察するに、どうやら来年の夏までに、冷蔵庫を買うか買わないかを話し合っているようでした。けれど赤い鉛筆を握っているお母さんの表情は厳しいものです。


 ミサは部屋に引き上げた方が良さそうだと、蝶番が緩んで傾いているドアのノブに手を掛けました。


「あ。ちょっと待って、ミサ」


 そこでお母さんに呼び止められました。お母さんは椅子から立ちあがると、修繕が終わってカゴに詰められた洋服の山を掻き分けます。


「どうしたの」


「これ。ミサにプレゼント」


 お母さんはカゴの一番下にあった洋服を手にとると、ミサの手に乗せてくれました。お母さんが手渡してくれたもの。


 それは折り畳まれた黒のローブでした。すべすべとした肌触りで、表面はまあるい蛍光灯の光を反射させて天使の輪っかのようです。


「わぁ、すごい」ミサは眼を輝かせました。「どうしたの、これ」


「私が作ったの。余った生地をもらってきてね」


「じゃあこれ、私の、私だけの、ローブなの」


「そうよ」


「あ、ありがとう。お母さん」


 感激したミサは、お母さんの頬に惜しみなくキスしました。ミサの眠気と一緒に、お母さんの苦労も遠いお山の向こうに吹き飛んでいくようでした。


「良かったな、ミサ」


 二人を見守っていたお父さんも満面の笑みです。お母さんのサプライズプレゼントは、家族三人にとっても最高のプレゼントになりました。


 ミサはお風呂に入って自分の部屋に戻ったあとも、ハンガーに掛かったローブを見て興奮が覚めやりませんでした。明日これを着て、友達と一緒に家々を回ることを想像します。自然と口元がゆるみます。


 けれどそのまえに、ミサは学校にいかなければなりません。その現実をまえにすると、興奮はお風呂の栓を抜いたように引いていきました。


 学校自体が嫌いな訳ではありません。けれど同じ教室で勉強する友達、それも苦手とする異性の友達の一人に、ざらつく想いを抱いていました。


 沸きあがる想いを拒むように、ミサはやわらかい布団にちいさな頭をうずめます。ひび割れをガムテープで塞いでいる頭上の窓。そこからは優しい月光がシルクのように降り注ぎ、継ぎはぎだらけのパジャマの胸元を照らしました。ミサはぽってりとした瞼を静かに閉じて祈ります。


 神様。どうか月光を心の奥まで浸透させて、立ちこめる闇を晴らしてください。控えめな寝息を規則正しく立てながら、楽しい夢が迎えに来てくれるのを待ちます。


 そのときです。


 彼女の一挙一動足を監視していた一羽のコウモリが、天井と壁のちいさな隙間を抜けて夜の闇へと羽ばたきました。


 早くも夢の世界に誘われたミサは、その事実に、まったく気がついていませんでした。

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