The S.A.S.【10-3】
SAS選抜訓練における最大の関門は、気候の移り変わる大自然を相手取った長距離行軍だ。部隊創設から訓練課程の変更は度々あれど、この強行軍だけは変わらない。通称『ファン・ダンス』。本気で連隊を志す兵士に、この儀式を知らぬ者はいない。平たく言うと、時間内に決められた経路を踏破すればいいだけなのだが、この試練から帰らなかった者も多い。屈強な兵士を屠るファン・ダンスの実態は、雄大な自然との一騎打ちだ。刻々と気候の変化する険しい山野を、背嚢だけで二十キロは下らない装備を身に着けて歩く。高所の強風に身をこごめ、指定された複数の中継地点で将校に挨拶して周る。それも、複雑な山岳地図を読み解きながら。オフィスでコーヒーを啜っている限り、およそ要求されない技能のオンパレードだ。かてて加えてこれが月のない夜間にも行われるのだから、そりゃあ死人だって出る。かつて選抜訓練で命を落とした兵士が、霧の夜に合格の証であるベレー帽を求めて彷徨うという噂も、安易に否定出来ない。
そういう訳で私物のラップトップで〈Googleアース〉を開き、左脇にブリジットを控えさせて経路の予測と注意箇所の確認を行った。訓練地に指名される山野は幾つか挙げられるが、十中八九ウェールズ南部のブレコン・ビーコンズ自然公園があてがわれる(ファン・ダンスの名は当地の最高峰『ペン・イ・ファン』から来ている)。主要な三角点を押さえ、紛失に備えて予備の地図を持ち、山の斜面を垂直に登らず遠回りしてでも緩やかな箇所を探せとの講釈を、ブリジットは整然とノートに綴った。
頭脳労働のストレス解消に射撃で筋肉を解させていると、弾倉を交換するブリジットが問い掛けてきた。
「ヒルバート様は、何を兵士の仕事を捉えられてます?」
特殊部隊に何を問うと思えば、甚だ愚問であった。
「三つある。歩いて、耐えて、寝て……それから考えない事だ」
テロリストから鹵獲したAK47を再び構え、ブリジットは眼を細めた。
「じゃあ、簡単ですね」
何処の国でも、兵士に向かない人種というのがいる。言われた命令にだけ従っていればいいのに、勝手に四つ目の課題を作ってしまうやつらだ。目の前の特殊部隊候補生の背中が、この数日で急に大きくなった。
走って、撃って、怒鳴って、食って、聞かせて、寝て、また走って……。そうして、付け焼き刃を磨く三日間が終わった。早朝、ブリジットはダニエルと俺の見送りで砂漠の滑走路を発つ。舎弟を伴ったのは、阻止機構としての苦肉の策だ。甲斐性なしが恋人を引き止めるかもしれない暴挙に及んだら、ダニーが身を挺して俺に組み付いてくれる。本当は母国の恋人に抱き付きたいだろうに。
雑多な積み荷を満載する輸送機が発つ直前、ダニエルに少し離れた所で待って貰い、ブリジットと二人きりになる時間を設けた。感情を殺すのに必死で何を言ったか定かでないが、最後に彼女が頬にキスをして「一人でしちゃ駄目ですよ」なんて囁く。反論に喉が音を結ぶのを待たずして、教え子は輸送機のタラップの奥へ消えていった。
翼下に備える四基のターボプロップ・エンジンを唸らせ、柔らかな輪郭のハーキュリーズが悠然と滑走路を離れる。恋人を乗せた輸送機が晴天に呑み込まれ、一秒毎に俺との繋がりが弱まる。輸送機の尻が八倍率の双眼鏡から失せるのを見届け、舎弟に先立って兵舎へと踵を返す。
「早く戻ろう。ここは眼が乾く」
背を向けてわざとらしく点眼液を注し、左手で顔を覆う。もう一言も発せなかった。極端な早足で帰路に就く小隊長に、ダニーが距離を空けて着いてくる。唇を噛み締めると、指の隙間から人間らしい感情が漏れた。
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