仮想世界でも、ノックスの十戒は有効ですか?

lablabo

第1話 その扉が開かないはずはない

 押し潰すような鈍い感触が、生暖かいと錯覚させるこの手の内にまだ残っていた。


 手には銀やエメラルドの装飾がなされた細長い長剣。短髪と眼鏡が似合う男性姿のアバターには、金や銀の糸で編まれた華やかな防具が身にまとわれている。ファンタジー世界によくある出で立ちだろう。そんな姿で闊歩するのが、この仮想世界の住人であるキャラクターネーム=ミオリだ。


 ミオリは男性であり、上級騎士職である。もっともゲームの中の世界での話だけれど。ただこの世界では完全に♂になれるわけではなく、その身体的特徴や声質は、どうしても現実世界のものを引き継いでしまう。それでも異性をやってみたくなるのは、人間らしさの表れであるとミオリは思う。


 ミオリは騎士として、これまで幾度となく闇を蠢く魔獣たちを切り刻んできた。何度となく対立する国の人々を誅してきた。ゲームにより作られたこの仮想世界では、ただ強くなることこそが、正義だったから。しかし、今ミオリの手に残る感覚は、異様なほどにリアルで、仮想世界の中にいるのだとは、到底思えないものだった。


(肉を切るって、本当、嫌な感覚……)


 ミオリは奥歯を噛み締めながら、漂う死臭をかぎ分けていく。いや臭いさえ、この世界ではないはずなのに、今ミオリの目の前に広がっている世界は、ある意味で現実を越えていた。まるで全ての五感が研ぎ澄まされたような感覚。もしかしたら、現実世界と比較して足りない部分を、脳が補完してくれているのかもしれない。だから、見えないものが見え、感じられないものが感じられるのだ。ミオリは仮想世界の将来性を考えると、何だか嬉々となるのだった。


(そう、このVRMMOの世界から、新たな常識が始まるんだよ……)


 松明でオレンジ色に包まれた薄暗いダンジョンの中、息を殺して歩を進めていくミオリ。何処からともなく流れる水の音が聞こえる。荒々しく獰猛な獣の息づかいも、反響するように耳に届いている。初めて進む攻略情報などまだ公開されていない未知のダンジョンに、不安に押し潰されそうになるミオリ。敵のレベルだって、スキルだって、まだ何一つ公開されていないのである。一体どんなボスが待ち受けているのか。息を潜め、武器を構え、慎重に突き進んでいくミオリ。やがて、鍾乳洞のように壁がじっとりと濡れた空洞を抜けると、ミオリの目指すボス部屋が現れた。


 白い壁の中に、赤茶色の錆びた扉がそびえたっている。そう表現したのは、扉の高さや大きさが、ミオリの倍はあったからだ。扉を手で押してみる。しかし、扉はビクともしなかった。


(私のレベルで開かないってことは、鍵がかかってるのかな……どうやって開けよう……)


 キョロキョロと左右を見返すミオリ。よく目を凝らすと、左の壁に、青いボタンが埋め込まれているのがわかった。


(押せってことね……)


 戦闘の準備はいつでも整っている。ソロでボスを倒せるかどうかは別として。そして、ミオリがボタンを押した瞬間、予想通り扉は押し開かれていった。


(あれ……?)


 そう、ここまでは予想の範疇だ。でも、本来ならば、すぐにボス討伐ミッションの表示が可視ウインドウに出るのに、ミオリが数歩足を前に進めても、それが表示されることはなかった。


(誰かに先を越されちゃった……? でも……?)


 中は恐ろしいまでの静寂に包まれている。先客がいると考えて間違いないだろう。だとしたら、もうとっくに戦闘は終わってしまったのだろうか。あるいは挑戦したパーティーがボスの返り討ちにあってしまったかのどちらかのはずだけれども。


 ミオリが数歩進むと、背後で扉の閉まる音がした。振り返ると、赤い扉が見事に閉まっている。扉の周りを確認する。入口と同じように白い壁ではあるが、その左右のどちらにもドアを開けるようなボタンは見当たらなかった。ミオリは違和感を覚えずにはいられなかったが、それでも今は先にあるものが一体何なのかを知りたくてたまらなかったのだ。


(静かすぎる。まさか、全滅?)


 最悪のシナリオを想定し、まだ見ぬボスに身構えるミオリ。しかし、目の前に広がっていた光景は、ミオリの眸をはっきりと見開かせたのだった。


(……えっ?)


 両端が三十メートルずつほどある十角形の部屋の中では、銀髪の美しい少女が横たわっている。少女の胸には、。きっとボスの攻撃を避けることが出来なかったのだろう。残念ながら、彼女はもう息があるようには見えなかった。


 (惜しいな、相討ちかな? でも、他のみんなは……?)


 広々とした空間は、ただ恐ろしいまでの静寂に包まれている。そのいずこにも、ボスの姿どころか他のパーティーメンバーの姿は見当たらなかった。


 (やっぱり、ボスはもういないみたい)


 そうなると、やはり視線は、倒れている少女に釘付けになる。


 仮想世界の中とはいえ、人がいなくなるのは実に悲しいことだ。ましてやそれが女性キャラならなおのことだ。あえて現実とは異なる男性キャラを選んだミオリは、いつか女の子を守る白馬の王子様の役割を演じたかった。そしてそれこそが、ミオリの所属するセントリアルナイトとしての使命だと思い込んでいたりもした。


(だのに、どうして?)


 VRMMOであるゲーム=セントリアライブ。


 この世界では、一度死んだキャラクターは、規定時間を超えると、そのままアカウントごとデリートされてしまう。今まで上げたレベルもスキルも、そしてフレンド登録した仲間のデータさえも、完全に消滅してしまうのだ。それは即ち、今まで費やされた時間が無になってしまうということであり、またプレイヤーにとっては現実世界と同等の死を告げられることになる。ゲームをプレイしている人間にとって、これほどきついことはない。


(だから死なせたくなかったのに……)


 ミオリは横たわる少女に駆け寄り、唯一の蘇生可能アイテムである金翼蝶の鱗粉を振りかけてみた。キラキラと光る金色の粉が、粉雪のように少女にそっと舞い落ちる。


(お願い、間に合って……)

 

 金色の粉は少女のアバターに付着すると、微かに光を放つ。普段ならその光はどんどん大きくなるはずなのに、少女の光は、弱々しく儚げに残るだけである。結局、彼女は微動だにしてはくれなかった。


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