第1話
「お兄ちゃん、だいじょうぶ?」
見て見ぬふりができなくて、思わず声を
母親と共に公園に遊びに来ていたレリンは、ベンチに
レリンに話しかけられた少年は、ゆっくり顔を上げる。やや
「けがしているよ! えーっと……これ、あげるね」
ごそごそとエプロンのポケットを
少年はぽかんとしたままハンカチを受け取ろうとしないので、ちょっと
困った人がいたら助けてあげなさい、と両親から教わってきたレリンは、一仕事終えて満足し、少年の手にハンカチを持たせた。一方の少年はハンカチが赤黒い
「ご、ごめん! せっかくのきれいなハンカチを……」
「いいの。それね、レリンがししゅうしたの。まだお店には出せないから、いいの」
きれいなハンカチ、と言われたレリンは、ぽっと
少年は目を丸くし、手の中のハンカチをしげしげと見つめた。
「君がししゅうしたの?」
「ん、そうなの。レリンね、大きくなったらさいほうしさんになるの。だから、れんしゅうしてるんだ」
「へえ、すごいね。これだけきれいなししゅうをするんだから、きっとすてきなさいほうしになれると思うよ」
「ほんと!?」
「うん、君ならできるよ」
レリンは目を
「ありがとう! それじゃあ、お兄ちゃんには、夢はある?」
「ぼく?」
「うん。レリン、お兄ちゃんの夢も聞きたい──」
「レリン?」
背後から母親の声がする。残念、もう時間のようだ。
本当はもうちょっと、この少年と話をしたかった。レリンだって、彼に夢があるのなら応援したい。でも、もう家に帰らないといけない。
はーい、と返事をし、レリンはベンチに座る少年に手を
「何かいいことでもあったの?」
「うん! とってもいいこと!」
力作のハンカチは
──また、会えるかな。
吊り気味の目を
これからの楽しい日々と明るい未来を信じるレリンの
フランチェスカ王国の中央に位置する王都サランは、秋という物寂しい時季に
そろそろ市街地を
そんな大通りを外れると、
もともとは純白だった
少女たちの笑い声がさざめき合う、聖堂学校の
「……ってことで、三番区カフェのオーナー、昔はうちで学んでいたらしくて。この制服で行くとちょっとだけオマケしてくれるの。先生には
そう語る女子生徒はあどけなさの残る顔をほころばせ、友人の顔を
「レリンも、一度は制服で街に行ってみたら? オマケしてもらいなさいよ」
「私?」
同級生と共に廊下を歩きつつ、彼女らのお喋りを
「制服で行くだけで、そんなに
「そうそう。しかも、お店でオマケしてもらえるだけじゃないのよ。街のお兄さんや上級学校の
「素敵な先輩……かぁ」
レリンは
十六歳のほっそりとした体を包むのは、ここフランチェスカ王国が
頭にはフードを
ちなみにレリンは制服などの身だしなみのほとんど
この聖堂学校は教師も生徒も女性ばかりの女子校だが、入学・編入する生徒の身分は問わない。
「レリン、裁縫師を目指しているからって、常に校則ガッチガチである必要はないのよ」
友人ヨランダに言われたので、レリンは
「うーん……でも、品行方正である方が後にも有利だって、シスター・イデアもおっしゃるし」
「ま、確かにね。授業もあれだけ
「でも、制服で遊びに行くのは
廊下の向こうから、背筋をぴっと
道を譲られた女子生徒たちは、レリンたちには
「……ああ、やだやだ。何が
「仕方ないわよ……何か問題が起きてもいけないし」
「これってまだましらしいわよ。私のお母さんがここにいた
「メルテル陛下の
「メルテル陛下のご温情よね。……きっとルディア様もすばらしい女王陛下になられるわ」
「……そういえば、近いうちにルディア様がうちに編入されるって噂が流れているけれど、本当かしら」
少女の呟きに真っ先に反応したのは、ヨランダ。
「え? ルディア様って、もう王太子位を
「そう、だから私も半信半疑。フランチェスカは女性しか王位を継げないでしょう? ルディア様には上と下に王子様がいらっしゃるだけ。王太子に就任したというのに、ひょっこりと学校に編入できるものなのかしらね?」
友人たちの噂話を耳にし、レリンは自分が知っている王女の情報を頭から引っ張り出す。
ルディア・レイ・ステイラー王女は、確か今年で十六歳。レリンと同い年だ。ずっと城で教わっていたので、学校に通ったことはないとのことである。
「もし本当に編入されたなら、私たちと同じ学年ね」
「レリン……それはそうだけど、どうせそうなっても親衛隊が
「……そうよね」
しゅん、とレリンは気落ちする。もし本当に王女が編入するなら、
お喋りをしつつ、レリンたちは次の教室へ向かう。次の授業のことを考えると自然と足取りは軽くなり、だんだんと胸も高鳴ってくる。
次の授業は、レリンの一番得意な裁縫だ。
本校の教育課程では、貴族は
三年生で裁縫の授業を受講しているのは、二十名ほど。そしてレリンたちが入室したときには、彼女ら以外全ての女子生徒たちがそこに
……とはいえ、着席して大人しく授業開始を待っているわけではない。
「……ほら、あそこ! 今、木の
「えええ……ちょっと
きゃっきゃと
クラスメートたちはこぞって、南向きの窓に
彼女らが授業開始時間ギリギリまで窓に張り付く理由。それはレリンも知っていた。
「あー! っもう、
「今日もいらっしゃっているの?」
自分の席に裁縫箱を置き、レリンはとことこと窓に歩み寄った。押し合いへし合いしていたクラスメートも今し
「そうそう。……ヨランダたちも見たら?」
「今日もあの格好いい『王子様』、来てるんだよ!」
「え、あの噂のお方?」
「そうそう!」
クラスメートに手を引かれ、ヨランダたちと同様にレリンも窓辺に立った。そして、ドキドキしつつ窓から外を覗き込む。
聖堂学校は王都サランの
聖堂学校と上級学校の間には高い
だが、この裁縫教室だけは別だった。
この位置からはちょうど、グラウンド
広葉樹の陰から、背の高い人物が姿を現した。とたん、裁縫教室を黄色い
「きゃああ! 来たわ、来たわよ王子様!」
「ちょっ! どけて! 見せて!」
「嫌よ! さっき見たばかりでしょ! そっちで見習いでも見ててよ!」
「何言ってるの、
見せろ、嫌だ、のやり取りをするクラスメートをよそに、レリンは呼吸も忘れて「王子様」を
「見て……あの赤茶色の
「なんかもう、
「なんて引き
「そういえば、ヨランダは軍服が大好きだったね」
「くうっ……こっちを、こっちを見てくれないかしら……ご尊顔を拝見したいのに……」
口々に「王子様」を
上級学校の
ふいに、
おそらく少年は、騎士に教えを
きゃあっ! とレリンのすぐ隣にいたヨランダが悲鳴を上げてふらつき、その隙に別の少女が身をねじ込ませてくる。
「かっこいい……!」
思わず、レリンの
騎士は相手の少年に何かを言い、その背を押してグラウンドに帰してやった。きっと先ほどの打ち合いでのアドバイスをしてやったのだろう。
「あああああっ! もう、せっかく王子様の剣技が見られたと思ったのに!」
剣技を拝見することができなかったクラスメートが
剣を
あまりにもうるさかったからだろうか。教室の窓から女子生徒が覗き見しようと歓声を上げようと、今まで
彼がこちらを見たのは、ほんの数秒のこと。だが、視力が悪くないレリンはその数秒で、しっかり彼の容姿を
美しい顔立ちだ。目は
だが、その表情は険しかった。おそらく
こちらを見つめる──というより
「……睨まれちゃった」
「何言っているの、レリン。私のハートは今、騎士様の
「──ハートを射貫かれるほど
──いつからそこにいたのだろうか。
──裁縫師は、貴人の前に出てはならない。
これは、今から約二十年前までのフランチェスカ王国における常識だった。
貴婦人がドレスを仕立てるとする。
つまり、ドレスを製作する立場の裁縫師が顧客の前に出ることはない。むしろ、出てはならない。裁縫は、平民の仕事だから。
「……しかし、当代女王メルテル陛下の
二年前、一年生だったレリンが最初に受けた裁縫の授業で、教師はそう語った。
「
「陛下は、ドレスを仕立てるときにデザイナーだけでなく必ず裁縫師を呼ぶようにと命じられる、って聞きました」
同級生の誰かがきびきびと発言し、教師は
「そうです。陛下はそれまでの常識を
メルテルの思想の柱は、大きく分けて二つ。「使える人間は誰でも使う」ことと、「自分の目で見たものを信じる」こと。
服飾関係のみならず、女王は様々な「常識」の壁にぶつかり、それらの壁を
メルテルの思想は
女王の
夢を叶えるために、レリンは──
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