アルビノ・ナガレモノ

洞貝 渉

 コンビニの明るい店内で紙パック入りのカフェオレを手に取る。けれども、うすく主張する夜の気配のせいでなんだか落ち着かない。体がすかすかして意味を失い、そのくせ精神はごろりと重いだけになる。

 まるで風船のようだ。中身の無いゴムの器はわけもわからずぷかぷかと浮かんでいて、そのくせタコ糸でつながる重しは確信を込めて重力に従順になる。どっちつかずで煮え切らないし落ち着かない。

 でも、風船は好きだ。

 私が嫌いなのは夜の気配。

 夜、それ自体は別に嫌いではないのに。真っ暗な空にしずしずと浮かぶ星や月には吸い込まれそうなくらいの魅力を感じるし、高いところから見下ろす街明かりは切なくなるくらい優しく輝いている。私はそんな夜の風景が好きだ。

 落ち着かない気持ちのまま茶髪で鼻ピアスの店員さんに小銭を出す。そして紙パック入りのカフェオレをコンビニ袋に入れてもらう。

 店を出ると夜の気配がじゅわりと強くなった。

 最近は日が長くなってきている。しかしどんなに日が長くなろうとも夜は必ずやってきた。

 夜は好きだ。

 でも、夜の気配は嫌い。

 夜の気配から拒絶されているような気がして馴染むことが出来ないから。なのにこちらは夜の気配を拒絶することができない。二十四時間明かりの消えることがないコンビニでさえ拒絶しきれていないのだから、今頃真っ暗な私の部屋は、たっぷりと夜の気配を吸ってしまっていることだろう。ため息がでる。


 コンビニ袋を提げて信号待ちをしていると何か白いものが目の前を通り過ぎた。反射で体がびくんと揺れる。

 べたんべたんと動くそれは蛙だった。


 近頃、どこにいるのか知らないが、蛙は鬱陶しいくらいにゲコゲコと鳴き散らしている。昼間はそこまでうるさくないのに。蛙は夜行性なのだろうか。

 べたんべたんと飛び跳ねる、いやに後ろ脚の大きいその蛙は赤信号の道路へずしずしと突き進んでいく。どこで危険に気付き方向転換するのだろうかと見ていたら、蛙はそのまま道路に出てしまった。

「あっ」

 車が道路を走り抜ける。

 当たり前だ。道路なんだから。

 ほのかに水の香りを感じた。だが意外にも水っぽい、ぐちゃりという音はしなかった。

 かわいた破裂音のようなものが頭の内に響く。誤って砂利を噛んでしまった時のあの不快感が背筋にすとんと落ちてきた。

 蛙が車に轢かれるのなんて、初めて見る。

車は何事もなかったかのように通り過ぎ、信号が赤から青に変わった。蛙の声はあいもかわらず鬱陶しいし、夜の気配は濃厚だ。

 ふと、耳元でクロロロロと呻き声が聞こえたような気がして慌てて振り返る。しかしコンビニが周囲を少しだけ明るくしている以外、何もない。気のせいのようだ。

 私は怖いもの見たさで蛙が轢かれた所に目を向ける。だが蛙の死体は見当たらなかった。不思議に思ってコンクリの上をちろちろと探すが、どこにも蛙の死体なんてない。

 ちろちろ、ちろちろ。

 潰れた蛙の死体探しなどというくだらないことをしている間に信号が点滅し出し赤に変わってしまった。


 家に帰ると、それがいるのに気がつく。

 部屋はたっぷりと夜の気配を吸ってしまっていて、それと夜の気配とが中途半端に混ざり合い、まるで部屋に膜でもはってしまっているようだ。

 私は一つ舌打ちをしてからいつものように電気をつける。しつこい夜の気配は、もちろん部屋を明るくした程度では追い払えない。ただ気休めくらいにはなった。

 ぱっと明かりがつき、ほんの少しだけ部屋から夜の気配が逃げていく。中途半端に夜の気配と混ざり合っていたそれは戸惑ったようにしおしおと縮まった。

 買ってきたカフェオレを飲みながらテレビをつける。ちょうど連続ドラマが終わるところだった。カフェオレを飲みつつしばらく眺めていたらCMが流れ、次の番組が放送される。テレビがわざとらしく笑い声を上げ始めた。どうやらバラエティ番組のようだ。

 適当に苦笑しながらテレビを見ていると、耳元でクロロロロと呻き声が聞こえたような気がした。何事かと思い顔を動かすと、隣にそれがいる。白っぽい色をしていて、赤い目、平べったい体に大きな後ろ脚。先ほど目の前で車に轢かれた蛙と、それはとても似ていた。反射で体がびくっとする。

 その蛙はじっとテレビの方を向いていて、時々体を震わせた。体の震えるタイミングから考えると、笑っているのかもしれない。私はちょっと考えてからテレビを消してみた。白い蛙はしばらくの間真っ暗になったテレビの方を向いて固まっていたが、思い出したかのようにいきなり動き出して私を驚かす。

 赤い目の蛙はべたんべたんとテレビの方へと突進し、テレビ台に激突して止まった。


 飲み干したカフェオレのパックを捨てて寝支度を始める。ぬるいシャワーをとっぷりと浴びて、汗を流す。さっぱりとして浴槽から出ると、それはあいかわらず赤い目でテレビ台の前を陣取っていた。少し縮んで、しっぽを生やしたようだ。

 水の香りがする、と思ったのと夜の気配がしない、と気が付いたのはほぼ同時だった。白くて後ろ脚がやたら大きい、しっぽの生えた蛙は動かない。

 私はリモコンでテレビの電源を入れた。明日の天気予報が画面に映し出される。

「雨は好き?」

 思いつきで風変わりな足の蛙に話し掛けてみた。返事は期待していなかったけれど、律儀にもクロロロロという呻き声が返ってくる。


 夜の気配は完全に消えていた。そのかわりぴしゃりとする何かが部屋を満たしていて動くたび私にまとわりついてくる。かなり体が重く、動きづらい。

 テレビを消したが静寂は訪れなかった。水の中にもぐりこんだ時、よく聞くカプカプという音がするのだ。

 すでに四肢が退化して、おたまじゃくしになってしまったそれは気持ち良さそうに部屋中を泳ぎ回っている。

 私は部屋の電気を消した。夜の気配が戻ってきてしまうかもしれないと心配したが、杞憂だったようだ。水の音が静かに部屋を満たす。カプカプ、カプカプ。

 おたまじゃくしはすいすい泳ぎながら、ぐびぐびとしぼんでいく。


 布団に横たわり、目を瞑った。

 水の香りは時間を追うごとに強くなる。布団が湿気っぽくなり、空気はぬめりと重くなり、水の音とは別にポコンポコンと音が発生し、嫌な汗が頭から吹き出た。私は息苦しくて音が気になってしまって、どうしても寝付かれずに、とうとう目を開いてしまう。

 霞んだ視界がこぷこぷと揺らめく。

 あっ、と言ったつもりだったが、私の口からはかぽりと泡が吐き出されるばかりだ。

 部屋は、水で満たされている。

 ポコンポコン。音は途切れない。

 水中でゆらゆら揺れる私の体。息が苦しい。

 部屋から水を抜かなくては。でもどうやって?

 窓を開けてしまおうか。いや、そんなことをしたら夜の気配が浸入してくる。

 ポコンポコン。ポコン。ポコ。

 音が止んだ。もうどんなに耳を澄ましてみてもカプカプしか聞こえない。カプカプ。カプカプカプ。

 私は何やら空恐ろしくて空気が恋しくて後先考えずに窓を開けた。案の定、開いた窓からじゅわりと夜の気配がにじみいる。じゅわり。じゅわり。

 水性絵の具を水に落としたように、夜の気配は水の中で不恰好な軌跡を描き、ゆっくりと溶けていった。私の口からはかぽりと泡が吐き出されるばかりである。外からは蛙の鳴き声がガコガコと聞こえる。いい加減、意識も遠のいてきた。

 どうすればうまい具合になるのかわからず、もうどうにでもなれと苦し紛れに思い切り吸い込み、飲み込んでみる。夜の気配が混ざり込んだ水に不快感が広がったが、他にどうしていいのかわからないので、ひたすら不快な水を飲み続ける。背筋がくらくらした。

 夜の気配はいよいよ濃くなり、体中がひえびえとしていく。朦朧としながら、ねとりとする水を飲み続けていると、ふいにのどがなった。何か水ではないものを飲み込んでしまったようだ。ごくりという音がして、それから。


 鳥肌。暗転。耳鳴り。


 それから……、それから水の香りと夜の気配の味。

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