第2話 人狼の行水

「この部屋は一体何なんだい?」

 神楽に案内された棚に籠が整然と並ぶ部屋を眺めてイオラは尋ねる。少しもやっとした湿度が漂っているのをイオラは毛で感じる。

「あぁ、外国の方には何する場所かわかりませんか。脱衣所と言って風呂に入るためにここで服を脱いだり上がった後髪を乾かしたりする場所ですよ。」

「へぇ。」

「まむっかいにある戸の向こうにお風呂があります。あの、お嬢様。彼女の事おまかせしてよろしいですか? 私は秋資くんと部屋の方を準備しなければなりませんから。」

「えぇ、わかったわ。ありがとうね。神楽。」二人が会話をする間にイオラはばばっと服を脱ぎ散らかすとズカズカ湯殿に向かって歩いていく。

「ちょーあんた! 服は籠にちゃんと直しない!」奥鳥羽は彼女がとっちらかした服と下着をかき集め手近な籠へとダンクする。

「聞いとると!」声を上げる奥鳥羽をガン無視するイオラ。


 彼女の興味は完全に湯殿に向いている。奥鳥羽の注意などどこ吹く風で硝子戸に手をかけ一つ息を整えるとがらりと引く。もうもうとした湯気が脱衣所目掛けて吹き込んで彼女を飲み込んだ。薄らいだその先にはいくつもの蛇口と鏡が並んだ洗い場と最奥には泳げそうなほどの広い湯船がドカンと鎮座していた。


「でけー。」両の手を広げても足らないほどに戸を開けてイオラは驚嘆する。


「ちょっと。はしゃいで飛び込まないでよ。ちゃんと体洗って。」かんなは考えられる人狼の行動に釘を刺したてる。

「わぁってるよ。っても、俺にゃどうすりゃいいか分かんねぇな。これ。」洗い場に少し入ったところでイオラは二人を待つことにした。

「じゃ、使い方説明するけん。あたきの真似して。」かんなより先に来た奥鳥羽は手近にある椅子を一つスカンと蹴って滑らせ、蛇口の前に据えると腰を落ち着ける。イオラも椅子を探して腰を据えたが、背の高い彼女にはどうにも収まりが悪いらしく鏡は彼女の胸を写してしまう。


「なぁ、これ。この鏡って動かねえの?」

「無理。」頭を洗っている奥鳥羽は短く答える。

「ま、いっか。」無理なら気にしないことにしたイオラは石鹸を泡立て体を洗う。

 短い髪を手早く洗い、泡を流し終えた奥鳥羽は、イオラがちゃんと横にいるか首を向けた。

 その監視対象の人狼の隠しもしていない野性的な体つきを視線で舐める。彼女の裸体を見た奥鳥羽は彼女がすでに何度もアピールしている胸よりも、真っ先に腹筋に眼が引っかかる。ガチリと締まったそこは幾重もの隆起を見せていた。


「結構肉付きよかっちゃね。腹筋バキバキやん。」

「そうか? 普通だろ。こんくらい。まぁ、何か所かは。自信あるけどな。」さっきやったようにイオラはまたズンと胸を張った。

「どっかの誰かさんとは大違い。」奥鳥羽はくすくすと笑いながら反対側の横にいるかんなの高機動型で空気抵抗がない体に視線を滑らせた。

「今はあんたもでしょ。奥鳥羽。」すこしむすりとしてかんなは返す。

「あたしはこいつが人狼だから全身毛だらけかと思ってワクワクしてたのが意外に普通で残念だわ。」

 ちらりとかんなが見るイオラの肌は人のそれと変わりなくツルリとしていた。

「変身してた時は腹や胸以外毛むくじゃらっぽかったのに」

「あんなもん変身した時だけだって。んまぁ、中にはいるけどさ。元から毛深い奴ってのも。でもまぁ、髪の毛は人に比べてちょっと太いかもな。」

 イオラは髪の一房をつまむとかんなに見せる。それは髪というより毛と言った方が適切であった。太さも一回りは太くあった。

「つまんでみ。」イオラに促されるまま、かんなはそれをつまんでみる。それは人の髪に比べるとコシがはるかに強い。クッと反らせて見た指を力強く押し返してくる。

「ほんと太くてゴワゴワやね。昔撫でたことある狼の毛皮より堅か。」奥鳥羽も手に乗せたイオラの髪をなでてそう評した。

「なめすの大変そう。」かんなは奥鳥羽が言った毛皮という言葉にだけ反応して口にしていた。

「何言ってんだおめぇら。」恐怖からかイオラは髪を二人の手から振り払うと湯船に歩く。

「髪の毛巻き上げなさいよ。」かんなは髪をまとめながら同じ長髪のイオラに注意する。


「そんなんいらねぇだろ。水浴びの時もそんなことした事ねぇぞ。 ! 」

 イオラはざぶりと湯船につかろうとして脚を突っ込み、一つ叫ぶと即飛び出した。


「あっちぃ! あっつ!」バタバタと暴れた後に手近な蛇口から水を出して人狼は足を冷やす。

「そうかしら?」

「感覚が違うっちゃない。」ざぶりと難なく湯船を歩み二人は腰を落ち着ける。

「あついってこれ。お前らおかしいんじゃねぇの?」

 眼に涙を浮かべてイオラはつま先をふーふー吹いている

「あら、これくらいで熱いだなんて。おこちゃまね。」かんなはあざ笑うような顔を見せる。それに彼女はカチンと反抗する。

「っく。見てろぉ!」イオラはツンツンと湯面をつま先でつつく。

「あっち。あっつ!」ゆっくりと足を漬け、湯船の縁に腰を下ろし、脚を上げては浸け上げては浸けを繰り返し徐々に湯に足を慣らす。

「よし。」ざぶざぶと湯波蹴立ててかんなのそばに歩み寄って

「どうだ。」と強がって見せる。

「すごいわね。じゃぁ、浸かりなさいよ。湯冷めするわよ。」

「え?」イオラはかちりと固まる。

「何が、え? よ。お風呂なんだから浸かりなさいよ。」風呂で湯船なのだから浸かるのは至極当然当り前なことである。

「えぇ。それはまた。」くるりと踵を返そうとするイオラにかんなは一言。

「おこちゃま。」と煽った。煽られた彼女は対抗心から浸かることを決心した。


「くぅ。くぅあぁ!あっち。あっちぃよぉ。ぃいいぃい!」イオラは苦悶の声を上げながら徐々に徐々に体を湯に浸していった。

「っふぅ、あ。あぁああ。」イオラは縁に手をかけ多少逃げる形ではあるがついに湯船に身を投げ出す。一つ落ち着いた後に横目でかんなをどうよと見る。

「よくできました。」子供をほめる様な言い方をする。イオラが嫌味を返してくるかと思ったが彼女は“あー”と湯を味わっているのか味わわれているのかしながら天井に眼を向けていた。


「そいやさ。あんた結構日本語行けるんやね。すらすらやん。」

 奥鳥羽は体の次に気になったことを彼女に尋ねる。

「ん。おお、昔とある爺さんにずったぼろに負けた後無理やり旅に付き合わされてなぁ。覚えとくと便利だからいくつか覚えとけーってさ。無理やり覚えさせられた。」天井に視線をやったまま口だけを動かす。

「じゃぁ、他のもぺらぺらなん?」手足をほぐしながら奥鳥羽はさらに尋ねる。


「ぺらぺらってのがどういうこと言うのかわかんねぇけど、まぁいくつかの言語を旅に支障がない程度にゃな。まぁあの爺さんが教えるのそこそこうまかったからなんだろうけどさ。」イオラはざぶりと湯から上げた掌で使える言語を指折り数えていく。

「サーギラとかイクートに教えたのは俺だけどな。」

 人狼が言葉を教えたと聞いて奥鳥羽は目ん玉をひんむいて驚く。

「まぁ、あんたが他人に何か教えられるほど頭がよかげな。驚き。」

「人は見た目によらないって事よね。」眼を閉じてじっくりと湯を味わっていたかんなは短く会話に交じった。

「うひぃ。もう限界。つーかよくこんな熱い湯に長く使ってられんなぁ。」ざぶりとイオラは湯船から出る。湯につかる前は白みのあった人狼の肌は湯で火照り、桃のように赤くなっていた

「あんたが我慢弱いだけよ。」

「ま、入りなれてなかけんそう感じるかもしれんねぇ。その内これが病みつきよ。」そう言う奥鳥羽はとぷんと湯船に潜ってみせる。

「へぇ。そんなもんなんか、ね!」イオラは髪と体を左右に振って水を切った。

「毛を振るだなんてやっぱ犬ね。あんた。」無防備にイオラの湯を浴びてしまったかんなはぶすりと機嫌の悪さを口にだす。

「あ、すまん。つい。」バッと振り向いたイオラの顔にはしてやったりの表情などなく、やってしまったという表情だった。濡れた身を振るうのは人狼の本能からなんだろう。その顔を見て怒るべきことではないと思考を巡らせたかんなは一つ息をついて湯気に怒りを散らす。

「いいわ。飼ってる畜生のやることにいちいち眼を立てる飼い主いないもの。早く上がらないと湯冷めするわよ。」

「わりぃな。」もう一言謝罪をしてイオラは脱衣所に出て行った。とぷんと潜ったままだった奥鳥羽がカエルのように眼だけ出してくる。

「奥鳥羽、あんた。」

 イオラが出て行ったことを確認して縁を背もたれに奥鳥羽は湯につかり直す。

「そらね。人狼やもんやると思った。」

「なら教えなさいよ。」

「察せんあんたがふーたんぬるかだけたい。」奥鳥羽はにやりとした。



 イオラが戻った脱衣所では奥鳥羽に雑然と籠に放り込まれたイオラの服を神楽がたたんでいるところだった。

「あら、もう上がるんですか?」あまりにも早いカラスの行水のようなイオラの風呂に彼女は驚いた。

「あぁ、もうのぼせそうでさ。」イオラは棚から真白いバスタオルを一枚引き出すと体を吹き、手近なベンチにドカリと腰を下ろした。

「そうですか。」のぼせそうだと言っていた彼女を心配して神楽は扇風機を彼女に向ける。

「おー。涼しぃ。」手を広げイオラは風を全身で受け止める。

「湯冷めされては困るのでほどほどですよ。」

「落ち着いたら言ってください。部屋に案内しますから。」



 イオラが末月に案内された部屋ではすでに秋資あきすけが寝ていた。よほど疲れていたのだろう。イオラが盛大に開けた引き戸の音にすら眼を覚まさない。

「あら、秋資くんったら。相当疲れてるんですね。っしょっと。」神楽は慣れた手つきで布団を一組その隣に敷いた。

「ここがあなたの寝床です。じゃぁ、なにかあったら正面の部屋に来てください。そこが私の部屋ですから。」旅館のような案内をして神楽は早々に部屋を去った。


「石鹸の臭い。」

 ごろりともぐりこんでみた寝具からは清潔感のある匂いがする。この臭いのする寝床をイオラは少し嫌だった。綺麗すぎて落ち着かないのだ。彼女は鼻を一つ鳴らすと、より落ち着けそうな場所がないかと探す。


 そして見つけた。


 それは秋資。イオラは、石鹸の臭いよりは人の匂いの方が好きだったし彼はこの部屋の中で唯一汚れた匂いがしていた。彼女はそれを鼻に入れると落ち着く感じがした。

(長い事爺と旅をしてたからかな。)イオラは勝手に理由を見つけて、かってに秋資の近くでこっそりと丸くなる。落ち着いた彼女は眠りへととっぷり落ちて行った。

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