第3話・悪路
閉ざされたホールの扉の向こうでは、まだ歓喜の叫びや巫女姫と王家を讃える声が熱狂的にあがり続けている。冷たい床の上に裸足で立ちすくんでいる私のいる場所とは、扉一枚隔てただけでも別世界のように思えた。でも、ほんとうは別世界じゃない……私の死、という糸で、かれらと私は繋がっているのだ。
断ち切る事はできるだろうか? 走って逃げだしたい衝動に駆られる。でも無理だ。この凍えた足がどれだけ動いたって、男の足に敵う訳がない。
「さあ、行くぞ」
と兵士が私を引っ張った。
「靴が……わたくし、裸足では長く歩くなんて出来ないわ」
「知るものか。歩かないならば引きずっていくだけだ」
無慈悲に言って、兵士は私を引き立てようとする。するとそこに、
「靴ならばここにある」
という声がかかった。
「で……殿下!」
「何故こちらに?!」
いつの間にか背後に立っていたのは、アルベルト王太子だった。彼は私のものではない靴を私に差し出す。
「仮にも、元、わたしの婚約者だからな。靴なしで歩かせる訳にもいかん。靴が脱げるのが見えたから、用意させた」
そう言って、彼は乱暴に私に靴を押し付け、履け、と言った。
「おまえたちはもういい。この役はわたしがやる」
アルベルト王太子は、二人の兵士に告げる。二人は驚き、
「し、しかし、王太子殿下。地下牢など、殿下が足を運ばれるようなところではありません!」
「いいや……この女には直々に聞きたい事もあるからな。おまえたちが気にする必要はない。私がそうする、と言っているのだぞ?」
「は……ご命令とあらば……」
アルベルト王太子の強い口調に、兵士は慌てて頭を下げ、逃げるように立ち去った。
「あ、あの、アルベルトさま……靴を、ありがとうございます……」
私は、これを情けと思い込み、お礼を言う。そうだ、あのお優しかったアルベルトさまが、あんなにご無体な事をなさったのは、ただ、国の為を思っての事。だけど私は本当に魔女なんかじゃない。ないのだから……それを解って頂ければ、悪夢は醒めるに違いない。私は望みを持った。
だけど。アルベルト王太子の返答は、私の希望を削ぐものでしかなかった。
「足を冷やすな。刑場では、自分の足で歩いて貰わないと困るからな」
「…………」
私は肩を震わせた。
「マーリア?」
じっとしている私を、王太子は不思議そうに見る。私は、笑った。涙を流し、かれを睨みつけながら。
「足を冷やすなですって? あははは、可笑しい! お優しいこと! 明日には首がなくなってしまうのに、足が冷える心配をする余裕はありませんわ!」
王妃陛下に次ぐ淑女であり続けるべく、大声を上げたりはしたなく笑い声を立てたりする行為そのものを忘れていた私だったけれど、もう、自分を抑える必要はない。
狂ったように笑っている私を、王太子は暫く黙って見つめていたけれど、やがて顔をしかめ、
「行くぞ」
と言って背を向けた。
◆
地下牢なんて、ずっとこの王宮で暮らしていながら、どこにあるのかも知らなかった。王太子は宮殿の奥の方へどんどん進んでいく。やがて建物を出て別の塔へ……。周囲は薄暗く、手入れされていない樹木が生い茂る陰気な場所だ。王宮の敷地内にこんな場所がある事を初めて知った。体格のいい赤毛の王子は、私の歩調など知った事かとばかりに、大股で歩いていく。大きな背中に、私はただ合わない靴の痛みに我慢して早足で付いていくしかない。
塔の門番と言葉を交わした王太子は、鍵束を受け取って黴臭い木製の扉を開ける。門番はまだ事情を知らないので、ただぽかんとして私と彼を見つめていた。
虚ろな気持ちのまま、突き当たりの階段を彼に付いて下り始める。地下一階、地下二階……その辺りはまだ、所々に灯火が備えられ、空気が澱んだ感じがする以外にはそれ程不快ではなかった。
アルベルト王太子はずっと無言だった。何を考えているのだろう……。
初めて出会ったのは、8歳の時。彼は二つ年上。私は王宮のホール……さっき断罪を受けたのと同じ場所で、教え込まれた礼儀作法通りに深々とお辞儀をし、許しを得て顔を上げた。
興味深そうに私を見ていた二人の少年。値踏みするようにしげしげと見る、やんちゃそうで体格のいい赤毛の少年が、聞いていた通りの容姿で私の将来の相手とすぐに判った。そして、もう一人は、本当に兄弟なのかと思う程似ていない、細面の銀髪の少年。アルベルトさまは国王陛下に似て、弟王子のエールディヒさまは王妃陛下似なのだとは聞いていたけれど。エールディヒさまは、遠慮がちに、でも銀の瞳はまっすぐに私に向けられていた。
『おまえが俺の后になるマーリアか! うん、頭は悪くなさそうだし、その金の髪も気に入ったぞ。よし、仲良くしてやるから、俺に釣りあうようにしろよ!』
『アルベルト! もう少し王太子らしい物言いをしなさいといつも……』
『あー、申し訳ございません、母上……これでいいですか?』
そう言って無邪気に笑ったあのお顔。彼は少し子どもっぽいところもあったけれど、優しかった。『おまえは俺の后に、王妃になる女なんだから、俺にとって特別なんだ』と仰って……成長してからはよく、『共に国を支えるべく、俺たちは手を取り合って進まねば』と声をかけてくれて……その印象ばかりがまだ強く、さっき私を殴った時のお顔はとても同じ方とは思えなかった。
いま、私の前を行く王太子の顔は見えない。あれは芝居だ、嘘だと、そう言って元の笑顔になって下さったら……。
だけど、裂けたドレスを纏い、ぶかぶかの靴を履いて、ごつごつした石造りの地下牢の廊下を歩かされている私には、本当はそんな希望はないんだとも思っていた。この国では、巫女姫の告げる神託は絶対。それを覆す程に愛されてはいなかったのだ、と断罪されたあの時にはっきりと知ったから。
『穢れた魔女め』
憎々しげに私を睨みつけて……。私の言い分は、何ひとつ聞いて貰えなかった。
ただひとつ、望みがあるとすれば、さっき兵士に仰った『この女には直々に聞きたい事がある』という言葉。二人きりになれば……私の言葉に耳を貸すおつもりがあるのかも知れない。
アルベルト王太子は廊下を進み、壁にかけられたランプを手にする。
「マーリア……ここからが、本当の地下牢と言うべきだ。最下層だからな。王宮で育ったおまえには耐えられまい」
「それはそうでしょう。最下層の牢というくらいですもの」
「いや、おまえの想像など遥かに凌駕しているだろう。まあ、魔女の最後の一晩には似合いかも知れんがな」
『魔女の最後の一晩には似合い』という言葉に私はぞっとする。やはり彼は私を放免する気は全くないのだ、と感じたから。
彼は鍵束からひとつの鍵を選んで鉄格子を開けた。その先は真っ暗だ。
「足を滑らせないように気をつけろ。今ここで死なれては困るからな」
と言い、彼はランプに火を点した。
勾配の強い螺旋階段が闇の中に浮き上がる。手すりもなく、王太子の持つランプが照らす範囲の外はどうなっているのか全く判らない。真の闇とはこんなものだろうか? 王太子は自分の足元だけを照らしながら下りてゆく。私は必死の思いで王太子の踏んだ場所をなぞる。そうでないと確実に落下してしまう……この、底の見えない闇の中に。尤も、私の運命はどうせ明日にはそうなってしまうのだけれど。
下りていくうちに、段々嫌な臭いがきつくなってきた。嗅いだこともない、吐き気を催す臭い。そして、不気味な音……よく耳を澄ますと、それは人の声だった。啜り泣き、低く呻く、男性や女性の声。
「なに……なんなの、ここは?!」
「マーリア……地下牢の最下層は、拷問部屋だ。父上は前もって命じられていた。拷問によっておまえから自白を引き出すようにと」
私は言葉を失った。ランプの向こうに揺らめきながら見える王太子の厳しげな顔は、やや蒼ざめているようでもあった。
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