第4-4話:熊に目薬の話
「なー、お前、めっちゃスタイルいい美人の1年と仲良いんだって?」
2時間目が終わり休み時間のベルが鳴った途端に話しかけて来たクラスメートの
「え、違うの?」
「いや、あれを見て『仲が良い』って表現されるのがちょっとショックだっただけだ」
「知らねーよ、俺、見てねーもん」
うん?
「なんか、いつも1年女子と一緒にいるって誰かが言ってたからそうなのかなってさ」
ああ、そういえばこいつ、野球部と美術部を兼部してるんだっけか。だからほぼ毎日放課後はすぐ教室からいなくなるんだよな。
しかしこんな小柄なのによく野球部でレギュラーとれたな。まあ、うちの野球部は一回戦勝てたらそれだけで全校集会で校長が泣いて喜ぶレベルだからなあ。
それはさておき、秋山も放課後に教室を出るとき、逆方向にダッシュしてくるあの女とすれ違ってはいるのかもしれないが、仮に見てたとしても「先輩に憧れて教室まで顔を出しに来るスタイルが良い後輩」という存在とは結び付けないだろう。
さて、どう答えるか。
「確かにスタイルのいい1年女子に付きまとわれてるのは事実だ」
嘘ではない。
はずだ。
「美人ではないの?」
無邪気にそう聞かれると困る。
美人かどうかか。
多分、俺の深層心理ではすでに答えが出ているのだろうが、それを表に出すことを何かが拒絶した。
「まさかとは思うが、紹介してくれとかそういう話か?」
「ちげーよ、そいつショートなんだろ? 俺が好きなの黒髪ロングだもん」
なんの話だ。
「あ、そうそう、ちょうどそれと関係した話なんだけどさ」
「もう何でもいいから早く言え」
その後、秋山から一方的に頼まれごとをしたところで短い休み時間はあっという間に終わってしまった。
しかし、困ったな。
どうしたものか。
「
いつもどおり、廊下をダッシュしてくる足音が教室に辿り着いたと同時に俺の名前が声高に呼ばれた。
当然、そこには男子の平均身長を軽く超える180cm近い女子生徒が立っていて、ピンで留めたその短髪の下でエネルギッシュに輝いた両目はまっすぐに俺を見ていた。
名前は
俺はとりあえず教科書と筆記用具を鞄に片付けることにした。
周囲のクラスメートもいちいち反応しない。
あれ? まずいな。なんか俺も周囲も慣れてきてないか?
「聞いてくださいッス! ことわざっぽい言葉を思いついたッス!」
「そうか、ありがとう」
「って、なんで澱みなく帰り支度を続けてんすか!?」
「帰るからだよ」
なんでそんな不思議そうなんだ。
もう放課後だろうが。
「ふふふ、でも先輩のその行動、読めてたッスよ!」
目を閉じながら不敵に微笑む。
いや、帰宅部が放課後になったら帰り支度する、というのを読めないほうがどうかしてると思うが。
「ジャジャーン! 見て下さいッス! あたしも!」
ここでクルッと背中を見せる。
「帰り支度終えてきたッスよ!」
首をグイッとこっちに向けながら背中の鞄を親指で指し示した。
しかしそこには誰もいない。そりゃそうだ。いちいち待つ義理もない俺は相手が振り向くのと逆方向から教室の外に出ていたからだ。
「先輩。そりゃないッスよおおおお!」
「……お前、本当に足速いな」
廊下の先にある階段を下りようとしたところで捕まってしまった。せめて1つ下の階まで下りるところまで差を広げられれば、後をまくチャンスもあったんだが、実に残念だ。
「分かった。俺の負けでいいから、早く言え」
観念した俺の言葉に、相手がきょとんとした顔をする。
「何をッスか?」
「お前、自分が何しに来たか忘れたのか」
「……ああ、なんか先輩に追いつけたのが嬉しくて色々すっとんでたッス」
申し訳なさそうにその目立つ長身を折り曲げて何度も頭を下げる。
少し不安になる。俺にそこまでしてもらう価値があるのか。
「ああ、なんだ、ことわざだっけか」
内心の動揺を誤魔化すように先を促す。
「そッス。ことわざっぽい言葉ッス」
ニッと笑う。
ちょうどそのとき歩いていたのは未使用教室の前の廊下だった。人通りも少なめだ。ここでとっとと言いたいことを言わせて帰ることにしよう。そう思って俺は足を止めた。
「分かったから、早く言え」
それでも何人かの生徒たちが、昇降口へと向かう足で俺たち2人のほうをチラチラと見やりながら通り過ぎていった。
どう見えてんだろうな。ふとそんな考えがよぎった。
「先輩?」
「あ?」
「だから、熊に目薬ッス」
ああ、ことわざか。
「熊に目薬」
「そッス」
「意味は?」
俺の問いに、クイッと首をかしげ、目をパシパシと
「意味?」
「ないのか!?」
「え、ないとまずいっすか」
「まずいというか……それで終わりなら帰るぞ」
「え、じゃ、あるッス。意味あるッス」
じゃあ、ってなんだ。
「ないんだな」
「いや、えーと、ほら、あれっすよ。危険なことのたとえッス。ただ退治するだけなら侍とか猟師とかも多分できるんすよ。でも目薬さすためには熊に近づかないといけないじゃないッスか。ましてや熊ってデカいじゃないっすか。目も上のほうに、こう、あるわけでして、いや、もうホント、大変なん、ですか?」
俺に聞くな。
そもそもなんで侍が熊を退治したり、目薬さしたりするんだ。
「待て待て、そのことわざ、いつから使われてるんだ? 目薬って出来たの最近じゃないか? 江戸時代とかなさそうだけどな」
「どうなんすかね。あたし、江戸時代の頃はまだ生まれてなかったんでよく分からないッス」
1868年生まれがいたらギネス記録を更新できるだろ。
「まあ、それはさておき、どうせ既存のことわざを組み合わせてそれっぽくするなら『熊に目薬』より『熊の目にも目薬』とかのほうが個人的には好きだな」
「そっすか? あたし、猫に小判とか豚に真珠とか短いのがそれっぽい気がしたッス」
そこらへんはもう個人の好みだろう。
「でも先輩がそっちのが好きなら合わせるッス」
「なんでだよ。もっと自分を大切にしろ」
「あたしにとって先輩のほうが自分より大切ッス」
おかしいだろ。
たまにこいつの俺に対する過大評価が恐ろしくなる。
正直、俺は自分をそこまで評価してない。
「お前、あまり幻ばかり追いかけてると現実知ったときのショックがデカくなるぞ」
わざと冗談めかした俺の言葉にうんうんと頷く。
「青天の
「いや確かにお前には辟易させられてるけど、正しくは
そもそも「想像と違ってて驚くこと」には使わない気がするけどな。もっとこう、突然降ってわいた発表とかに使われそうな気がする。
少し見上げる位置にある顔にそう言うと、うーん、と腕組みしながら悩み始めた。
「難しいッスね」
まあ、こういうフィーリングは個人差の話だ。とやかく言ってもしょうがない。
「霹靂って他に使い道あるんすかね?」
「まあ特定の言い回しやことわざでしか使われない言葉なんてそう珍しくない気もするけどなあ。
「そっかー」
なぜか驚くほど嬉しそうだ
「
イェイ、とブイサインを出された。
……そういうことか。
あまりに自然な相槌にギャグだと気づけなかった。
「アホか」
俺の呆れた顔に、へへへ、とめちゃくちゃ照れてる。
ほめてないぞ。
「
「なんすか、それ」
「手ごたえがないことのたとえだ」
「なんか難しい言葉ばっかッスね。とりあえず釘と豆腐だけ分かったッス」
豆腐?
……待て、違うぞ。
「馬耳東風だ。分かってねーじゃねーか。馬耳東風の『とうふう』は
「なんすか、それ」
「ん? そういえばなんだろうな。俺も良く知らんけど」
「先輩も知らないことあるんすね」
お、お前は俺をなんだと思ってるんだ。
「当たり前だろうが。何でも分かるんならまずお前と会わずに済む手段を実行するわ」
「ままま、袖触れ合うも多少の縁っすよ。ちょっとくらいお時間拝借させて欲しいッス」
さすがにちょっと言い過ぎかと思ったが、相手はむしろちょっと嬉しそうな様子で口元を隠しながらもう片手をパタパタさせた。うーん。もっとキツく言ったほうがいいのか……ん? 待てよ。
ふと相手の発音が気になった。
もしかして良くあるあれか?
「
「へ? 他に『たしょう』って言葉ありましたっけ?」
「多く生きるで
あと、こいつは「袖触れ合う」と言ってたのに対して、俺は「袖擦り合う」で覚えていたが、さすがにそれは単に現代語訳のようなものだし、ツッコミを入れるのは野暮に思えたので黙っておいた。
「でも面白いよな。多くて少ないのほうの『
「面白いッスか」
パッと顔が明るくなった。その様子に思わずつられて笑ってしまう。
「へへへ、先輩が嬉しそうだとあたしも嬉しいッス」
まあ、こいつに冷たくしたからって何か得するわけでもないのか。
あれだな。
「情けは人の為ならずか」
「そういうもんすかね。個人的には甘やかしてもらいたいッスけど」
ん?
「このことわざは『人に優しくすることは巡り巡って自分のためにもなる』みたいな意味だぞ」
「え、マジっすか? 逆だと思ってたッス」
だろうな。
「いや、俺も同じだ。昔、初めて知ったときはお前と同じく、他人に情けをかけるのはお互いのためにならない、って意味で覚えてた。そうだな。分かりやすさを缶がるなら、
また感心してもらえるかと思ったら、なぜか黙りこくってしまった。
どうでもいいけど、こいつ、背が高くて意外と整った顔立ちしてるから、黙ってるとめちゃくちゃ美人に見えるんだよな。
美人薄命。
そんな縁起でもないことわざが頭をよぎって慌てて振り払った。上書きするべく美人に関することわざが他に何かないか、と脳内を検索し始める。
「立てば
「炸薬? ボタン? なんすか、その歌」
「炸薬じゃない。歌じゃない。ん? 歌じゃないのか?」
いかん、どこから説明したらいいのか良く分からん。
「まあ、お前が……」
美人だってことだ、と続けようとして危ないところで自分が何を口走ろうとしているかに気づいた。
「なんでもない」
自分の顔が赤くなってるのが分かる。
これはキツい。
「いやいやいやいや、そこで止めるのはないッスよ! 絶対なんでもあるじゃないッスか! つうか、なんで顔真っ赤なんすか!」
「お前が……アホってことだ」
「嘘だー、絶対嘘っすよー! それは、アホの私でも分かるッス!」
「アホなのは認めるのか」
「今更否定してもしょうがないッス。それで! なんて! 言おうとしたんすか!」
言えるわけあるか。
お前がいない状況でのクラスメートの会話でさえ……あっ。
「そういえばさ」
「ごまかそうたってそうはいかないッス!」
「いや、確かに話をそらしたいのは事実なんだが、それはそれとしてクラスメートに、いや秋山って奴なんだけど、ちょっと頼まれたんだよ。お前なら知ってるかもしれないって」
俺の言葉に、スレンダーながらもそこそこある胸を張りつつ、鼻息荒く頷く。
「なんの話かはよく分からないッスけど、まあ、先輩のクラスメートならあたしのクラスメートも同然ッス! どんどん頼って欲しいッス!」
それはおかしいだろ。
まあいいけど。
「お前のクラスかどうかは分からないんだが、1年にめちゃくちゃ髪を伸ばした女子いないか?」
「なんすか、それ」
さっきまでの動揺が残っていた俺は、自分の用件を話すのに精いっぱいで相手の変化に気づけなかった。
「いや、ほとんど顔が見えないくらいの見事な黒髪らしいんだ。なんかそのクラスメートが入学式のときに見かけ……」
「先輩は」
相手の様子がおかしいことにようやく気付く。
見上げた先には、一度も見たことのない表情の佐藤がいた。
「先輩は心当たりないん、ですか」
まるで極限まで薄くしたガラス細工のような、触れただけで粉々に砕けてしまいそうな細い声。
「俺か?」
正直、俺がまともに話したことのある1年はこいつくらいだ。部活にも委員会にも入っていないせいで、後輩や先輩との接点がほとんどない。校内で見かけた後輩の様子を片端から思い起こしても、対象の女子は浮かばなかった。
心当たりはない。
言うな。
何かが止めた。
「ないんですか?」
その言葉遣いは明らかにおかしかった。
だが真っ直ぐに聞いてきたその言葉に、俺は正直に答えてしまった。
「いや、ないな」
その答えに、相手が何か呟いた。
俺には聞こえたのは「これで無理なら」という最初の言葉だけだった。
「おい」
何を言ったのか聞こうとしたちょうどそのとき。
「うん」
そう声に出すと、佐藤は背筋を伸ばし、真っ直ぐ俺に向き直った。
そして深々と俺に頭を下げた。
「今までありがとうございました」
俺は声が出なかった。
「安心してください」
頭を上げて光る笑顔を見せる。
「もう行きませんから」
そして俺に背を向けて走り去った。
なぜか、薄くて脆い何かが、粉々に砕け散ったような気がした。
清々したというべきなんだろう。
このまま、また適当に理科室のパソコンで遊んだり、ファストフードで1杯のコーヒーで粘りながら読書したりして放課後をつぶす毎日に戻れば良かったはずだ。
多分、そうしていた。
佐藤の笑顔が、涙に光ってさえいなければ。
こうして、追う側と追われる側が逆転するのだが、それはまた別の話だ。
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