第7-3話:二十歳と二十日の話
私の通っている大学は日本では珍しい3学期制をとっている。そのため夏休みは通常の大学はかなり異なっており、6月から始まるかわりに9月はほぼ頭から授業がある。
対して冬休みはほとんど他の大学と変わらない。2週間程度の休みのあと、大体1月の第2週から授業が始まる。
もう1月も授業が始まって数日が経つ。
冬休みに遊んでいたから授業についていくのが大変だと笑う生徒が多い。ちゃんと勉強してないからだ。日本人が大学に行くのは遊ぶためだというのは冗談だとばかり思っていたが、まさかここまでとは思わなかった。
私としては授業なんかよりも寒さが辛すぎる。私の生まれ故郷は北緯1度に位置し、現地の人にいくつ季節があるのかと聞けば「夏、もっと暑い夏、最高に暑い夏(Summer, hot summer, and hottest summer)」と言われる島だ。
第二次世界大戦で日本に占領された際には
「じゃーね、リリー」
「はい、また来週デスネ」
「デスネデスネ♪」
同じ学部の同級生が私の語尾を真似しながら笑顔で去っていった。
ため息。
自分でもまだ日本語の発音や文法がおかしいことは分かっている。こう考えている内心の言葉も実際はすべて英語だ。
ただ本格的に学び始めたのが高校生からであることを考えると、我ながらかなりの上達っぷりだと思う。
大体からして大抵の日本人の英語なんて私の日本語に比べてすら惨憺たるものではないか。正直、いちいちからかわれるのは非常に納得がいかない。
高校生の頃は実際にその不満を相手にぶつけていた。そしてただ相手を怯えさせた。日本では白人系以外のガイジンに許された立場は2つだ。道化を演じるか、世をはばかる憎まれっ子になるかだ。
敵を作って生きていくよりは労力が少ない道を選ぶことにした。
まだ楽だと思ったからだ。
私の父は中国系シンガポール人、母は日本人だ。祖父が日系企業に勤めていた関係で、シンガポールの日本人学校で日本語を学んだ父は、日本の大学へと進学し、母と出会った。
彼らは幸せだったのだろう。だが2人の子供である私はまだその幸せの分け前をせしめるに至っていない。いやシンガポールで中国系というだけである程度の幸せを享受していると考えるべきか。中国系、インド系、マレー系で綺麗に線が引かれたシンガポールという世界の中で、中国系が最大勢力を占めている。当然、恩恵もある。
だから中国人が中国人であるだけで粗雑に扱われる世界があることなど想像だにしなかった。もっとも私は中国人ではない。しかしそれを理解してくれる日本人は少ない。名前と外見が要件を満たせばそれだけで十分らしい。
高校3年生の頃から、私は割り切ることにした。
元々多くはない仕送りを必要とも思えない交友関係の維持費に回すこと自体、無駄にしか思えなかった。日本にいる理由、それは日本語を学ぶためだ。それ以上でもそれ以下でもない。友達を作るのは自分の世界に戻ってからだ。
日本語を学ぶために利用できるものは利用しよう。古着だろうと貰えるものは貰おう。口調を真似させて笑わせるだけで代返してくれるならそうしてもらおう。余った金と時間は全て日本語を学ぶために使おう。
男には好意を抱かせて利用しよう。
「日本語を嫌いにならずに済みマシタ」
日本語は元々好きだ。嫌いなのは日本語じゃない。
「デート代はセンセー持ちです」
言葉1つで食事代が浮くなら、安いものだ。
どうせ違う世界の住人だ。いつかは別れる相手だ。勘違いさせておけばいい。適当に先生呼ばわりしておけば日本語を効率良く教えてくれる都合の良い相手。そう内心呟くたびになぜか胸の奥にチクリと生じる謎の痛みに戸惑いつつも、私は今日も「センセー」に声をかける。
私の呼び掛けた声に、センセーが本館を出たところで振り向いた。周囲を怪訝な表情で見渡すその顔が私を見つけると途端に柔らかい笑みを浮かべた。
「リリーさん。ちょうど良かった」
ちょうど授業の切れ間ということもあり、本館の入り口前は人の出入りが激しかった。センセーは私と一緒にとりあえずそこを離れるように歩き出した。
「ほら、食事の話。どこに行こうか考えてたんだけど、その前に確認したいことがあって」
「食事……ああ、デートのことデスネ」
あっけらかんと返された私の言葉にセンセーが狼狽する。心の中で笑ってしまった。単純な男だ。しかし今日は暑いな。なぜだろう。屋外に出たばかりだというのに妙に顔が火照る。
「大丈夫? 顔、赤いけど」
「え、あ、ハイ、大丈夫デス」
きっとさっきまでいた教室が暑すぎたのだ。
デロンギが並べられた窓際ばかりが暑すぎたのだ。廊下側は逆に寒すぎる。体調もおかしくなるというものだ。
「とりあえず室内に入ってから相談しようか。学食でいい?」
「ハイ、大丈夫デス」
センセーは魚のアングレーズを頼んでいた。あまり費用対効果が良いとは言えないメニューだ。わざわざ選ぶのは賢いとは言えない。
もしかして好きな料理なのだろうか。そうだな。いつか作り方でも覚えておくか。点数を稼ぐチャンスもあるかもしれないから。
「どうしたの?」
「へ?」
「なんか熱心に見てるけど、食べる?」
「え? あ、いや、違うマス!?」
なぜだろう。無性に恥ずかしい。
自分の内心の動揺を隠そうと慌てて話を逸らす。
「それでナニの話が聞きたいデシタ?」
「そうだ。ごめん、その、食事? どこに行こうかと思ってお店を探そうと思ったんだけど」
お店を探す? ああ、そうか。本当にデートのつもりなのか。別に大学の近くの唐揚げ定食が美味しい蕎麦屋とか松屋とかで構わないつもりだった。
そうか。きちんと探してくれていたのか。
ふーん。
「ごめん、そんなに喜んでもらえるのは嬉しいんだけど、まだお店は決めてないんだ」
「……別に喜んでないデス」
「そう? ごめん、で、リリーさんって二十歳以上だっけ? お酒を飲めるお店のがいいのか分からなく……」
「あ! それデス!」
そうだ、それで思い出した。聞きたかったことがあったのだ。
「なんで日本語は数字数えるがおかしいデスカ?
こういう不思議はもちろん他の言語だってある。フランス語の60以降の数え方も大概だ。それでも日本語の数に関するルールは本当に信じられない。
センセー以外にもこの疑問をぶつけたことが何度かあった。大体の反応は、そういうものだから、でめんどくさそうにあしらわれる。それ以外は、外国人には分からないかな、と苦笑いされるパターンだ。
だけどセンセーは。
「あー、確かに」
きっと共感してくれると思っていた。
「結局のところ
紙ナプキンを広げて、筆記用具を探すそぶりを見せたので、私のシャープペンを貸す。メモをとることが増えたので、すぐ取り出せる位置にしまってある。
「ありがとう」
センセーは受け取ったシャープペンで紙ナプキンに「三十路」「四十路」「五十路」と書いて、それぞれに「みそじ」「よそじ」「いそじ」とルビを振る。
「10の倍数ごとに呼び方が変わるというだけなら区切りという意味で分かりやすいけど、
別に面白くはない。
「めんどくさいデス」
「そっか」
「そうデス」
「そうだよなあ、覚えるの大変だよなあ……」
どうやって教えるのがいいんだろう、とか、語呂合わせとかそういうものでもないしなあ、とか首をひねってる。困ってる割にはなんか楽しそうだ。
「ごめん、なんか変な顔してた?」
「え? 別に」
「いや、なんかニコニコしてたから」
「……別にしてないデス。あとワタシ、
お酒飲めマス、と伝えておく。
正直、あまり人前で飲んだことはない。新人歓迎やコンパの類も断ってきた。
別にセンセーと一緒に飲みたいというわけではないが、今後を考えればお酒を一緒に飲むくらいの仲になってもいいだろう。
「ありがとう。じゃあ
「あ! それもデス」
「分かった、両方とも大丈夫なのね」
「違うマス、
関係ないが、この「なんさい」とか「なんにち」という言葉はセンセーと出会ってからやっと慣れることができた言葉だ。それまでは「なにさい」とか「なににち」と読んでいた。
センセーにはまだまだ利用価値がある。切る必要はない。
一緒に食事には行くべきだろう。うん。
「分かる。すごい良く分かる。小さい頃に
魚のアングレーズを箸で切り分けながらのセンセーの愚痴めいた口調に私はガクガクと頷き、同意を示す。
「
「あー、そういえば
そうそう思い出した、と言いながら、センセーが紙ナプキンに二十日、三十日、四十日、五十日と書き並べた。
「二十日は『はつか』、三十日は『みそか』とも言うけど、四十日は『よんじゅうにち』以外に読み方知らないな。それで面白いのがこの
ここまで楽しそうに喋っていたセンセーが、なぜか一瞬、表情を曇らせた。
でもほんの一瞬だった。
だから、逆に私の印象に残った。
その理由を知るのはずっとずっとあとのこと、センセーのご両親について知ったときだった。
「これ、あくまで日付としては『ごじゅうにち』なんだけど、商売をする人、特にキンユーキカンに勤めている人にとっては違う読み方があるんだ」
「禁輸? 犯罪デスカ?」
「え? あ、違う違う」
紙ナプキンに金融機関を書きながらセンセーが話を続ける。
「銀行とか信用金庫とか、人のお金を取り扱うところ。こういうところだと五十日って書いて『ごとおび』って読むんだよね」
それを聞いた私の顔を見て先生が苦笑する。
「無理だよねえ、さすがにこれは覚えなくていいと思うけどね」
しかしなぜ50日間の呼び方が金融機関でだけ異なるのだろうか。センセーにその疑問をぶつけたところ、どうやらそもそも日数ではないらしい。
なんでも5日、10日、15日などの「5と0がつく日」をまとめて呼ぶときに使うのだそうだ。
どういうときだ。まったく想像が付かない。
「まあ、これは忘れてもいいとしても、
そう楽しそうに言ってくれたセンセーに私はお礼とガラケーのメールアドレスを伝えてから別れた。
こうしてガラケーのアドレス帳に家族以外の名前が増えた。
さて、その酒の席で、焼き鳥の話から長細い物の数え方の分かりづらさに私が憤ったり、その流れでセンセーから
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