第1-3話:お母さんの話
1限目の授業には寝坊したせいで間に合わなかった。めんどいのでそのまま2限目と3限目も自主休講にして新しい方のサークル棟に向かうことにした。
あー、念のため。私は別にどのサークルにも属してない。サークル棟はうちの学生なら誰でも入館可能だ。新旧あるけど、どっちも好き。あえて言えば夏場は新しい方が好きかもしれない。
新サークル棟の1階は壁がほぼ全面ガラス張りのカフェテリアになっている。その窓からは大学の本館前に立ち並ぶ梅の木がよく見えるのだ。6月に入ってそれらはすっかり鮮やかな緑の葉を茂らせてて、そんな風景を冷房の効いた室内から熱いコーヒーを飲みつつ眺めるのは最高の贅沢なのだ(個人の感想です)。
しかし、窓際の直射日光を浴びない席に腰を下ろしてぼんやりとカフェテリアを見渡した瞬間、その考えをあらためることにした。違ったわ。最高の贅沢は「冷房の効いた室内で熱いコーヒーを飲みながら外を眺めたり、セージをからかったりすること」だわ。
そんな考えが頭をよぎったのは、ちょうどそのとき、そのセージこと
目が合った瞬間、セージの顔が生のピーマンを口に放り込まれたみたいになった。ぶはははは。相変わらず、すげー顔に出る男だなあ。しかも本人は自分を冷静沈着だと思ってるのがまた面白い。
セージは一瞬だけ他の空いてる席に向かおうかと迷ったそぶりを見せてから、諦めた顔で近づいてきてくれたので私は両手を広げて相手を出迎えた。
「粕川先輩、なんか用っすか。わざわざいらっしゃってくれて感謝感激、雨あられ。まあまあ、お座りくださいな」
「違うとこ座っても、どうせ同じテーブルに来るだろ、お前」
対面の席に腰を下ろしながら不機嫌そうにそう答える。まあ、実際そうすっだろうけど。
「それより
そういえば同じ授業とってたっけ。こんなめんどくさい奴を本気で心配してくれてんだよなあ。正直、それには本気で申し訳なさを感じる。
「すまねえ」
片手で拝むように詫びる。あとついでにタメ口に戻す。敬語が面倒になった。そもそもセージと私は元々は高校時代の同級生だ。つまり同い年。それなのに敬語を使ったり、先輩呼ばわりしてる理由は2つ。
1つは、単にからかい半分。じゃあからかう以外のもう1つの理由は何かというと、本当に先輩だからだ。セージはストレートでこの大学に合格したが、私は1浪した。いや、むしろよく1浪で済んだものだと自分で自分にガチで感心する。
まったくなんでこんな高偏差値な大学を選びやがったんだ。大変だったんだぞ。そんな文句の1つも言いたい気もするが「同じ大学に行きたかったから猛勉強した」なんて、まるで少女漫画だ。とても恥ずかしくて言えやしない。
ただこのセージと一緒にいるときに感じる気持ちが、いわゆる恋愛感情なのかどうかはまだ自分でも判断がついていない。うん。なんつーか、それを確かめるために追ってきたのかもしれない。
お、ちょっとカッコいいぞ、この言い回し。
とかなんとかどうでもいいこと考えてたせいでセージがなんか喋ってたのを全部聞き逃した。私が我に返ったのは、いきなり耳に飛び込んできた次の言葉のせいだ。
「ごめん、ちょっとカノジョと話してくる」
「はい?」
イマ、ナンツッタ?
呼び止める隙もなく、セージは荷物を残したままカフェテリアの入り口に向かう。そこには、なんつーか美少女としか形容のしようのない、ゆるくてフワッとした「まさにゆるふわ」な髪型をした背の低い女子がいた。
あー、なんか見覚えあるな。
どうみても正反対な2人だったが、マイペースな点では良く似てる。それで気が合うのかもしれない……ってな感じのことを前に真紀子に言ったらすっげー嫌な顔をされたけど。
いや、そんなことはどうでもいい。カノジョだと? あの畑中沙耶がセージの? マジかよ。勝ち目ねーわ。いや、でもあの子、すぐ相手を変えてるイメージあるんだよな。確か真紀子もそんな感じのこと言ってたし……あれ? ってことは、言い換えると意外とすぐ別れるのでは? いやいやいや、それを願うのは人としてどうよ。ここは友人として祝福すべきなのでは。
グルグルとそんなことを考えてるところにセージが戻って来た。座る前に、ちょっと申し訳なさそうに片手を上げて謝ってくる。
「ごめんごめん。ああ、そうそう。それでこの間のプルの話なんだけど」
「おい」
いやいや、待てって、何を普通に話続けようとしてんだ、コイツ。つーかプルってなんだ、プルって。
「セージ、彼女いたの? いや、いてもいいんだけどさ。いちゃダメとか、おかしいとかそういう話をしたいんじゃないんだけどさ。いたの?」
問い詰める私の言葉に対し、いきなり異臭をかがされたように顔をしかめるセージ。
「いないよ。なんでそんな話になったんだ?」
「いやいや、おにーさん、あんたさっきカノジョと話してくる言うたやん」
「なんだ、そういうことか。違うって。ガールフレンドの意味じゃない。単なる代名詞としての『彼女』だよ。なんか入り口のところで呼んでたからさ。お前と話してたところだから行くつもりなかったんだけど、どうしてもって感じだったから仕方なく」
「……なーんだ」
席に腰を下ろす私。そのまま椅子を後ろに傾けて、大きく反り返りつつ脱力する。髪が長い頃のままだったら床に引きずってそうだ。
「ってかさー、そもそも恋人のことを代名詞で呼ぶってのがおかしいとぼかぁ思うね! 大事な人ならやっぱり固有名詞で呼ぶべきだと思うね!」
「なんだよ、そのしゃべり方。あ、その話で思い出したんだけどさ」
「プルの話?」
「いや、プルはまた別の機会にするよ。『カノジョ』のほうだよ。いやちょっと思い出したことがあってさ。ほら、永久子にも前に話したことがあると思うんだけど、昔、外国に住んでたことがあるんだ」
なんかいきなり話が飛んでる気もしたし、プルがなんなのかも気になったけど、それよりも「カノジョに関すること」の方がめっちゃ気になるので、話に乗ることにする。
「あー、そういえば帰国子女だっけ、セージって……アメリカのどっかだよね。なんかマイナーなとこ」
「メリーランド州な。アメリカ人にはかなりメジャーな州なんだけど……まあ、日本人からしたらアメリカの大半の州と街はマイナーだろうけどね。メイン州とかイリノイ州って聞いても分からないでしょ」
「メインなのにマイナーなんだね」
「……なんだって?」
私のアメリカンジョークは伝わらなかったらしく、セージが困惑してる。しまった。いつも私の下らないジョークを真面目に考え込むんだよなあ。
「いいから話を続けてつかーさい」
「あ、うん」
なんか若干納得いってない風だけど、私としてもさっきの最高に下らないジョークを解説させられてはたまらないので必死に先を促す。
「えーと、そうそう、アメリカの生活から帰ってきたのが小学校の高学年だったんだけど、そのとき授業で読んだ国語の教科書に出てきた話」
小学校の教科書の内容なんてよく覚えてるな。
私なんて高校の内容ですら怪しいのに。
「どんな内容だったかっていうと、筆者の女性とその仕事仲間の外国人男性が2人で一緒に電車に乗ってるんだ。外国人は日本語を学びに来てる方でとても日本語が上手い。そしてその2人が座ってる向かいには夫婦と思しき男女が座ってる。その女性の方が男性に『お父さん、今日の夕飯は何がいいですか?』って聞くんだ。そして夕飯の献立について話したあと、次の駅でその夫婦が電車を下りるんだ。2人が下りたあと、筆者の隣に座ってた外国人が不思議そうな顔で筆者に……」
「何? 旦那さんが夕飯のメニューの希望を聞かれて『なんでもいいよー』って言って、お母さんが『なんでもいいが一番困るのよ!』ってキレるのが海外だと珍しいとかそういう話?」
ツッコミ待ちでそう言った私の言葉にセージが嬉しそうに目を輝かせた。
「あ、そうそう、永久子が言ったそれだよ」
「え、嘘!?」
適当なことを言ってセージを困らせるつもりだっただけなのでこれには驚いた。
「ホントに『なんでもいい』って言われるのが一番困る話なの!?」
セージが慌てて首と手を横に振る。
「違う違う違う、そっちじゃない。そっちは心底どうでもいい。そうじゃなくて『お母さん』のほうだよ」
「お母さんが『なんでもいいよー』って言い出したの?」
セージが頭を抱えて突っ伏す。
数秒そのまま止まったあと、ゆっくりと顔を上げた。
「とりあえず最後まで話させてくれ」
「了解でゴンズ」
セージが困惑の表情を浮かべる。
こいつまだそれ気に入ってたのか、いつまで使い続けるつもりなんだ、いや今その話をしだしたらさらに脱線するからとりあえず無視しよう。そんな内心の考えがクルクルと変わる表情に全部出ている。
ホント、好き。
「何、ニヤニヤしてるんだよ」
「私いつもこんな顔だよ」
「そうか」
「そうだよ。ほら、続けた続けた」
さっきの話の後半はこんな流れだった。
筆者が目の前で交わされたのを「夫婦の会話」と思って聞いていたのだが、すぐ隣に座って同じ話を聞いていたはずの外国人男性は「親子の会話」だと思っていたらしく「見た目の年の差がほとんど変わらないのに会話を聞いたら親子だったので驚いた」と言われて、今度は筆者が驚いた、という話だった。
筆者と外国人は同じ会話を目の前で聞いたのに、まったく違う受け取り方をしたのだ。
「初めてこの話を教科書で読んだとき、かなり混乱したんだよ。実はこの外国人とまったく同じ受け取り方をしたんだよね。夫婦の会話だとは思わなかった。親子だとばかり思ってた」
「なんで?」
「女性が男性を『お父さん』って呼んだからさ」
話を思い返す。目の前に座った2人の女性の側が「お父さん、今日の夕飯は何がいいですか?」と尋ねたんだった。いや、だからってなんで親子になるんだ。
「だから? 奥さんが旦那さんのことをお父さんって呼ぶことあるでしょ? 逆もあるし」
「うん、まさにそれなんだ。さっき永久子も言っただろ? 旦那さんに対して『お母さんが』キレるってさ。夫婦が互いを『お父さん、お母さん』って呼ぶこともある。この話に出てくる外国人にはその考えがなかったんだ」
そしてセージが「ちょっと試しにGoogleで『お父さん 英語』って検索してみて」と言ってきたのでスマホを取り出してペタペタとロック解除する。
ちなみにセージはスマホを持ってない。連絡を取るときは大学から各学生に付与された専用のメールアドレスを使ってる。パソコンからしかチェックできない割にはこまめにチェックしてくれてるほうだとは思うけど、正直レスポンスは遅い。LINEで連絡とりたい。めんどくさい。
でもLINEできたら私、とんでもない勢いで意味のないスタンプ送り付けそうだし、さすがにそれやったらガチで嫌われるかもしれないな。
じゃあ今のままでいいのか。
そんなことを考えながらも私の指先は手慣れた動きでフリック入力をこなす。慣れって恐ろしいな。
「はい、こんなん出ましたけど」
検索結果の一番上にはGoogle翻訳の対訳が表示されてた。左側に「日本語 お父さん」が、そして右側には「英語 名詞 dad, father, daddy」とのこと。
「ほらね。辞書で調べるとその意味しか出てこないんだ。だから普通に日本語を勉強してるとさっき永久子が言ってた呼び方はまず覚えない。面白いよね。慣習として、家族を1つの単位として、その中で占めるポジションで呼び合うことが出来るんだ」
慣習? 単位? ポジション? なんかまた難しいこと言い出したなー。そんな私の表情を見て理解してないことがすぐ伝わったらしい。
「え、いや、だからさ。両親と子供3人の5人家族がいたとするじゃない。その家族に属してる5人は誰でも長男のことを『お兄ちゃん』って呼べるんだよ」
……何を言ってるんだ、こいつは。
「長男なんだからお兄ちゃんに決まってるっしょ?」
「両親もだよ。両親にとってその子は兄ではないでしょ? でもその子のことを『お兄ちゃん』って呼ぶことがあり得るんだ」
ホント、こういうときのセージって心底楽しそうだよなあ。
それはさておき、そりゃまあ、あり得る話だろう。「お兄ちゃんなんだから我慢しなさい」とか良く聞く話だ。いや、私に男の兄弟はいないから家の中で聞いたことはないけども。
正直、何がそんな面白いのかよく分からない。思い切り首をかしげてしまう。
「英語だとそういうことないの?」
「ないわけじゃないよ。例えば父親が子供に何か聞かれたときに『それはお母さんに聞きなさい』って返すことはあり得る。でもそのときも多分『Ask that to your mom』って感じで訳としては『お前のお母さんに聞きなさい』になるはず。二人称として自分の妻を『Mother』とか『Mom』とかは絶対に言わない」
ああ、それなら分かる。
「アメリカ人が妻を呼ぶならやっぱりハニーだよね」
うんうんと頷く私にセージが呆れた声を返す。
「それは人によるだろ」
「え、じゃあバイリンガルなセージさんとしては自分の奥さんをなんて呼ぶ予定なの?」
「別に予定なんてないよ」
私に問いに嫌そうな顔を浮かべるセージ。
「さっきの
何くだらないこと聞いてんだ、って顔をして欲しいなあ、とか思いながら聞いてみた。
「ああ、そうだ。思い出した。お前、来週の水曜日って何か予定ある?」
うお、その返しは予想してなかったぞ。
「え、何、デートの誘い?」
「なんでだよ。沙耶がサークルのバーベキューの参加者が少なくて困ってるって言うから行ってみようかなって思ったんだけど、知り合いが少ないと寂しいからさ」
なんだ。
いや、まあ、そりゃ本気でデートの誘いだと思ってたわけじゃないけど、それでもちょっとガッカリするわ。
「セージは行くの?」
「永久子が行くなら行ってもいいかな、って思った」
おや。
ちょっと嬉しいぞ。
でも照れ隠しに思ってもいないことを言ってしまうのが私だ。
「何? 私に『カノジョ』の沙耶っちを紹介するためかい?」
「あ、それなんだけどさ」
……え? なんで否定しないんだ、こいつ。やめてくれよ。なんだよ。
「女性の恋人は『カノジョ』なのに、男性の場合って『彼氏』も『カレ』もあり得るよね。それも不思議でさ」
「……あー。そう」
どうでもいい。心底どうでもいい。
セージはそれについてもメチャクチャ語りたそうだったけど、私としてはもうこれ以上の感情の起伏をジェットコースターされるのに耐えられそうにもなかったので退散することにした。
「頭が軽すぎて落ちつかないから帰って寝るわ」
毎度のごとく適当な別れの言葉を口にする。もっともこれはついでに髪を切ったことに対する感想が欲しかったからというのもある。
「そういえば今日は束ねてないんだな」
「この短さで無理に縛ってるとめっちゃ頭痛くなるから止めた」
「束ねないほうが似合ってるよ」
「せやろ? 可愛いやろ?」
顎を親指と人差し指で軽くつまんでポーズを決めてみる。
しかし。
「どっちかっていうとカッコいいかな」
うーん。期待してた回答と違うなあ。まあいいや。褒められてはいるわけだし。
それより続くセージの言葉のほうが気になった。
「しかしホント毎回バッサリ行くよな、お前」
「……うん、まあね」
こいつ、私が髪を年に1回しか切らないのは単にめんどくさいからだと思ってそうだなあ。一度ちゃんと否定したはずなんだけど……まあ、勘違いされたからって誰も困らないし、別にいいか。
セージだって高校1年のときの会話なんて覚えてないだろう。
「じゃね。バーベキューの詳細はメールでおくんなまし」
立ち上がりながらそう言う私にセージは軽く片手を上げた。
「分かったよ」
「それと次会うときまでに奥さんのことをなんて呼ぶかもちゃんと決めとくように」
「ちゃんとってなんだ、ちゃんとって」
背後から投げつけられたセージの言葉に私は答えなかった。言えるわけもない。ちゃんと私が呼んで欲しい呼び方ってことだよ、なんてさ。
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