雲を残す魔女

あまり

第1話

「リリィ、リリィ、もう5時だよ」


まだ外も仄暗い時間、オーウェンに起こされリリィは目覚めます。


「うん、今起きる」


「おはようリリィ昨日はよく眠れたかい?」


「おはよう兄さん。昨日はみんなでピクニックに行ける夢を見れたわ」


そう言ってリリィは微笑みます。


「それは良かったね。さぁお母さんが目覚めるまでに顔を洗っておいで」


オーウェンはリリィを洗面台へ促します。


「はい」


オーウェンは顔色一つ変えていませんでしたが、リリィは少し申し訳なく感じてしまいます。


しかし、言ってしまったものはしょうがないです。


気をとりなおしてリリィは顔を洗い、濡れた頬を二度叩きます。


窓を見るとオーウェンがもう花壇の水やりを始めています。


リリィとオーウェンの朝は早いです。


服を着替えた後、リリィの腿ほどの大きさがある空のボトルを手にします。


そして、まだ眠っているであろうリリアーナを起こさないようにリリィはそっと玄関のドアを開けます。


他の大陸と比べて極めて暮らしやすい気候の風の大陸でも朝はやはり肌寒いです。


リリィは外で薬草の手入れをしているオーウェンに「行ってきます」と言ってそれから駆け出します。


リリィの毎朝の日課、丘の上の泉汲みのためです。


毎朝まだ大樹様も輝かない時間から起きていることを街の友達に話すとみんな驚きます。


お調子者のラルクはリリィよりも二時間は長く寝ていても寝たりないと嘆いていましたし、ちょっと家がお金持ちのレイチェルはそんな時間に起きていたら美容に悪いと、誰よりも優しいミアは自分にはできないとリリィを褒めてくれます。


でもリリィはみんなが言うほどの大変さは感じていませんでした。


それはやはり早くリリアーナに元気になって欲しいというその一心からです。


リリィは走ります。


大樹様が輝きだすまでにはまだ時間に余裕がありますがそれでもリリィは走ります。


木々が放つ静かな吐息、草花に滴る雫の冷気、そしてリリィよりも早起きな動物達の鳴き声。


それら全てが作り出す朝の空気がリリィは好きです。


この肌寒くも心地よい空気に触れるとリリィはどうしようもないくらいに走りたくなるのです。


周囲の温度と違ってリリィの体温だけが上がっていくその感覚がリリィは好きです。


次第に体も火照ってきたところでいよいよ丘の上、泉の場所までやってきました。


はぁ、はぁ、とリリィが息を整えていると


「おはようリリィ。今日もご苦労様ね」


そう答えるのは泉の妖精です。


泉の妖精はたなびく水の髪を撫でながら暑そうなリリィに息を吹きかけてあげます。


体を火照らせたリリィには泉の妖精が吹きかける息はとても気持ちよく、体を冷ましてくれます。


「ありがとう妖精さん。それからおはよう。今日も泉の水を分けてくださいね」


リリィは泉の妖精に両手を合わせお願いをします。


すっかり毎日の日課となった水汲みですがそれでも最低限の礼儀は忘れてはいけません。


「ええ、いいわよ。ちょうど大樹様が輝きだすわ」


そう言って泉の妖精は世界の中心、天も地も穿つあの大きな、大きな、大樹様を見上げます。


すると泉の妖精が言った通り、ちょうど大樹様が輝きだし、四大陸全ての朝が訪れます。


大樹様が輝くとそれまで眠っていた周囲の動物、木々や草花、大樹様により頂いた命をもつもの全てが次々と目覚めだします。


そして、この朝一番の大樹様の輝きは泉にも影響します。


泉は大樹様の輝きに応えるように澄んだ青をこれでもかと言うほどに輝やかせます。


「今日もいい天気ね」


リリィは一度深呼吸してからそう言うと泉の妖精はと満面の笑みで答えます。


「ええ」


そしてリリィにボトルを差し出すように促します。


泉の妖精は自らの体の一部である泉の水をリリィが持ってきたボトルいっぱいに入れてくれます。


ブクブクと音を立てボトルの中の空気は泉の水へと変わっていきます。


大樹様の輝きを浴びた美しい泉の水は例えボトルに移されようがその輝きを失いません。


「ありがとうございます」


リリィは精一杯の気持ちを込めてもう一度両手を合わせ泉の妖精に感謝します。


「それじゃあねリリィ。リリアーナとオーウェンにもよろしく」


「ええ、また明日!」


リリィと泉の妖精はお互いに手を振りお別れの挨拶をします。


リリィは知りませんが音と森の大陸の妖精は基本的にとても寛容です。


これが技と鉄の大陸や眠と雪の大陸になるとおおよその妖精が人の期待を裏切るような応えをだします。


ある妖精は単純なお願いでも多くの対価を要求します。


またある妖精は人間が頼んだ要求と真逆の結果をもたらすことあります。


それに、そもそも人間からの要求なんて聞こうとしない妖精だって。


しかし音と森の大陸の妖精たちがこれほどまでに人と仲が良いのは古くから人との交流が深く、人々も彼らに感謝の気持ちを忘れずに接しているからでしょう。


何よりも彼女、泉の妖精はリリィのことを幼い頃より知っていてまるで娘のように感じている面もあります。


それはリリィにとっても同じ、リリィにとって泉の妖精は優しい隣人であり、母親であり、友人でもある。そんな存在なのです。


ボトルいっぱいに入った水は産まれたての赤ん坊よりも少し重いくらいです。


リリィは帰りは行きと違いゆっくりと歩いて帰ります。


以前にリリィは早る気持ちから行きと同じ速度で走って帰り転んでしまったことがあります。


幸いにもボトルの水は無事でしたが帰りが遅くなったためにオーウェンとリリアーナに酷く心配されました。


リリィはそのことを思い出し、少し寂しくなりました。


しばらくして家に帰るとオーウェンが朝食の準備をしてくれていました。


「おかえり、リリィ」


「ただいま兄さん。これ」


リリィはボトルいっぱいに入った泉の水をオーウェンに手渡します。


「いつも悪いね。さぁ、お皿をだして。もうご飯ができるよ」


リリィは食卓にお皿を用意します。


自分とオーウェンの分、それからリリアーナのためのコップを一つ。


オーウェンはコップに泉の水とそれからオーウェン自らが調合した薬を入れリリアーナの部屋へ持っていきます。


リリィは少し心配そうな顔でその光景を眺めます。


そして暫くして戻ってきたオーウェンと共にご飯を食べます。


食事の途中、オーウェンはあること思い出します。


「そういえば昨日、クーからの声鏡で連絡があったんだけど今日の午後にもこっちに帰ってくるって」


「え!本当に!やった!」


思わぬ来訪の知らせにリリィは喜びます。


「なにかお土産もってきてくれるかな」


「どうだろうね、『理術学塔』に行くと言っていたけど」


「楽しみだなあ。というか家の中掃除しとかないと」


「そうだね、今日は騒がしくなるな」


リリィもオーウェンも楽しそうに会話をしています。


そうと決まれば今日は大忙しです。


朝食の後リリィとオーウェン、それぞれ朝にすることをやり始めます。


リリィはいつもよりも丁寧に部屋を掃除します。


オーウェンは薬草の手入れ、それから午後に来る客人に持って行ってもらうための薬の準備。


二人は一生懸命に働きました。


そして大樹様が正午の輝きを放つ頃、リリィが外に洗濯物を干していると。


「あっ!」


ふと空を見上げれば大樹様の枝葉とも、空に浮かぶ雲とも違う一本の白い線が見えます。


どんどん伸びる雲、それは他の雲よりも低く、よく見ればその先には人の影が見えます。


「おーい!」


リリィは思わず飛び跳ねながら手を振ります。


次第にそれは高度と速度を落しつつリリィの家の前に着陸します。


紫色の三角帽子とローブに身を包んだ金の髪をもつ女性はホウキから降りてリリィの元に駆け寄ります。


「久しぶりリリィ!」


「クー姉さん!」


二人は再開の喜びに抱き合います。


彼女の到着に気づいたのかオーウェンも家から出てきました。


そしておもむろに空に残った一筋のホウキ雲を見て、言います。


「久しぶり、『雲を残す魔女』様」


「様だなんてやめてよ」


『雲を残す魔女』は恥ずかしそうに頭をかきます。


「そんなことないよ!風の大陸じゃ十年ぶりの魔女なんだから凄いよ!」


リリィはまるで自分のことのように楽しげに言います。


「もう、リリィまで」


『雲を残す魔女』はますます顔を赤らめ、それを見た二人は笑います。


「そんなことより!オーウェン君、街の人たちへ持っていく薬はできているの?」


二人の笑い声をかき消すように『雲を残す魔女』は大声で言います。


「もちろんだとも。家の中にある」


だけど、とオーウェンは前置きをして。


「お腹、空いているだろ。先にお昼にしよう」


オーウェンの提案に『雲を残す魔女』は目を輝かせます。


「本当に!?」


「クー姉さんが帰って来るからって兄さん凄く張り切って作っていたよ」


リリィはオーウェンに見えないように手で口だけを隠して『雲を残す魔女』に教えます。


「リリィ、オーウェン君にも聞こえているよ」


『雲を残す魔女』がそう言うとオーウェンは無愛想な顔をしてリリィの頭を軽く叩きます。


その様子を見ていた『雲を残す魔女』は微笑みます。


オーウェンはため息をつくと、「家の中に入ろう」促し三人は揃って家の中へ入っていきます。


「やっぱりだけど全然変わってないね」


家の中を見渡し『雲を残す魔女』は口にします。


「アタシが作ったお守りもちゃんとある」


『雲を残す魔女』は玄関にかかった魔術石を見て微笑みます。


「リリアーナさんはどこに?」


『雲を残す魔女』が尋ねるとオーウェンとリリィは顔を暗くします。


「奥の部屋で眠っているよ」


「容体の方は?」


「毎日、薬は飲んでもらっているんだけどね。母さんも父さんの時と同じで全く効いてる様子がない」


オーウェンは悔しそうに唇を噛み締めています。


「オーウェン君、これ。大樹院の図書室から探してきたよ」


そう言って『雲を残す魔女』は三角帽子の中から『得 薬品全書』と『得 薬草分布書』と書かれた二冊の分厚い本をオーウェンに渡します。


「ありがとう。こっちの大陸じゃ売ってなくって」


「その中にリリアーナさんをなんとかできる物があるの?」


「わからない。読んでみないことには」


オーウェンは強い眼差しで二冊の本を見つめます。


「きっと、あるよ」


リリィは祈るのようにそう言います。


「うん、そうだね。きっとある」


オーウェンは少し微笑みます。


「さぁご飯食べよう。早くしないと冷めてしまう」


三人は食卓について料理を囲みます。


オーウェンが丹精込めて作った料理はどれも美味しく、『雲を残す魔女』は舌鼓をうちます。


美味しい食事は会話も弾ませます。


リリィは聞きます。


「クー姉さん、『理術学塔』に行ってきたんでしょ。どんな所だったの?」


「とにかく寒かった!こっちの朝も寒いけどもうそれ以上に!」


『雲を残す魔女』は自分の体を抱く様な仕草をします。


「そんなに寒かったの?」


リリィは外の世界に出たことがないため半信半疑です。


「塔の外なんかとても出歩けたもんじゃなかったわ」


「それじゃ簡単には逃げ出せなかったわけか」


「アタシそんなに不真面目じゃないってば」


そう言いますが『雲を残す魔女』の目は泳いでいました。


「『理術学塔』の人たちと比べても?」


オーウェンは意地悪な質問に『雲を残す魔女』は首を振ります。


「確かに、あそこの人ら朝から晩までずっと勉強、勉強、勉強でもう目眩がしたわ」


今度は目頭を押さえる仕草をします。


「それで、クー姉さんの魔法は魔術にできそうなの?」


「無理無理、そう簡単に体系化できるもんならアタシ魔女なんかになれてないって」


リリィの質問に『雲を残す魔女』はキッパリ答えます。


「大婆様の言いつけだから仕方なく行ってきたけど正直、大婆様だって本当に魔術にできるなんて思ってなかったと思うよ」


「じゃ、やっぱりクー姉さんは凄いんだね!」


「だからそんなんじゃないってば」


『雲を残す魔女』はまんざらでもなさそうにですが否定します。


「クー以外の魔女はどんな人だったの?『理術学塔』には二人いるらしいけど」


「なんというか、凄く癖のある人だったよ」


『雲を残す魔女』は苦笑いを浮かべます。


「『気を抑えぬ魔女』はとにかくおしゃべりで一日中喋り続けてるんじゃないかってほどだったし、反対に『法を縛る魔女』は普段は全くの無口のくせに塔内での規則を破った途端にボソボソ声で責め立ててくるし」


「やっぱり魔女ってみんな変わってるんだね」


オーウェンは言います。


「それってアタシもはいってる?」


「どうかな?」


リリィはそんな二人のやりとりを見て笑います。


賑やかな昼食が終わる頃、『雲を残す魔女』は思い出したように言います。


「あ、そうだ。二人にお土産買ってきたよ」


「本当に!?」


リリィは目を輝かせます。


『雲を残す魔女』は三角帽子から二人へのお土産を取り出します。


「リリィにはこれ。いい夢が見れるっていう『シズアのお香』」


『雲を残す魔女』は小さなビンをリリィに手渡します。


「ありがとう!クー姉さん!」


「それからオーウェン君には『疲れ知らずのバングル』」


「なにこの老人臭いのは」


「オーウェン君いつも腰を曲げてるからね。これがあればちょっとは背筋もよくなるでしょ」


「余計なお世話だよ」


オーウェンはそう言いつつも『雲を残す魔女』からの贈り物を受け取ります。


昼食も食べ終わり、一息つくと『雲を残す魔女』は立ち上がります。


「よし!お昼も食べたことだし、そろそろ街へ行ってくるわ」


「そうだね。願いするよ」


「わかったわ」


「リリィも久しぶりに街に行ってきたらどうだい?」


リリィはオーウェンの思わぬ提案に目を見開きます。


「え、いいの?」


リリィはつい、昼食後にする分の薬草の心配をしてしまいます。


「うん。いいよ。昼にやる分の薬草の世話は僕がやっておくから」


「ありがとう兄さん!」


「お願いできるかな?」


オーウェンは『雲を残す魔女』にリリィも一緒に連れて行ってもらうように頼みます。


「ええ。もちろんよ。リリィ、一緒に行きましょう」


リリィは久しぶりの街に心を躍らせます。


二人は街へ行く準備を始めます。


リリィは街へ行くようにお気に入りの服に着替え、肩までかかる髪も編み上げます。


『雲を残す魔女』とオーウェンは街へ持っていく薬の最終確認。


それぞれが準備をし終えたところでいよいよ、街への出発です。


「私、クー姉さんのホウキに乗るのって初めてだよ」


ホウキにまたがったリリィは嬉しそうに言います。


「リリィ、ちゃんと捕まってなさいよ」


リリィは『雲を残す魔女』の背中をぎゅっと抱きしめます。


「クー、リリィを振り落とされないにしろよ」


「もちろんよ」


自信満々に答える『雲を残す魔女』は明らかにイタズラな笑顔を浮かべます。


それを見たオーウェンはやれやれと言った様子です。


「それじゃ、オーウェン君行ってくるわ」


「兄さん行ってきます!」


「ああ、気をつけて」


三人がお互いに顔を見合わせると『雲を残す魔女』は宣言します。


「いざ!『ドレミの街』へ出発!」


瞬間、二人を乗せたホウキは瞬く間に上空へと飛び立ちます。


側に立っていたオーウェンが思わず体を数歩引いてしまうほどの衝撃。


リリィは思わず目を閉じ、叫び声を上げてしまいます。


しかし、リリィ自身、体を強く叩きつける風により自分の叫び声すらまとも聞き取れません。


リリィにはこの上昇の時間は果てもないような長さにも、あっと言う間の短さにも思えました。


既にホウキの上昇は止まりましたがリリィは『雲を残す魔女』の背中にピッタリとくっついています。


「リリィ、リリィ、ほら目を開けてごらん」


『雲を残す魔女』に促されて背中から顔を離したリリィがやおらに目を開けます。


「すごい……」


リリィは殆ど無意識に呟きました。


そうです。


そこにはまだリリィが見たこともない世界。


空が、見上げたその先にも、見下ろすその先にも無限に広がり、その中心にそれよりも遠く、どこまで伸びているのか目では見えないほど高く、神々しい大樹様。


その大樹様から伸びる父の手のような大きな枝葉はリリィの何十、何百、何千倍とも計り知れないほどの巨大な四つの大地を支えています。


その大陸を見下ろせば先ほどまでそこにあった大地が、森が、家が、兄が、なんと、リリィの手のひらよりも小さいではありませんか。


そのあまりにも雄大な景色にリリィは息を呑みます。


「どう?世界を見渡した感想は?」



『雲を残す魔女』の質問に未だ呆然としていたリリィはなんとかこの景色に対する相応しい言葉を探そうとしますが。


「本当に世界は大樹様が支えているんだね」


結局、口にした言葉はそんな当然の知識への理解でした。


リリィはこれまで当然のように知っていた知識がその時始めて実感を持って本当の知識として身につくのを感じました。


「オーウェン君も始めてこの景色を見たとき同じこと言ってたよ」


「兄さんも?」


「うん。リリィと違ってオーウェン君は半べそかいていたけどね」


『雲を残す魔女』はその時のことを少し懐かしげに思い出し笑います。


「私、今日見たこの景色、今まで見てきた中で一番だと思う」


リリィは精一杯に言葉を探し、言いました。


「それは良かった!」


『雲を残す魔女』は満足げにリリィを見つめ微笑みます。


「さぁ、街へ急ごう!みんなオーウェン君の薬を待っているわ!」


「うん!」


リリィが頷くと魔女のホウキは再び物凄い速度で空を駆けます。


リリィが一番だと言ったその景色。


空の中心にそびえ立つ、果ても知れぬ大樹様、その大樹様が支える五つの大陸、そしてリリィにその世界を見せてくれた魔女の後ろ姿。


リリィにとって、この日見た景色は生涯忘れることのできない思い出の一つとなることでしょう。

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雲を残す魔女 あまり @amarimono

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