君の望んだ世界だね ①

 この物語を、俺は届けなければいけない。

 遥かな時空を隔てて、俺はいま為すべきことを必死に思い出そうとしている。


「キミがこの世界から出ていけないのは、くびきがあるからだよね」


 あれは夜の歩道橋だった。

 街灯がぼんやり照らす静かな車道を弥鳥みとりさんが睥睨へいげいしていた。


「例えば親や友達……大切なひとの存在が、キミを世界につなぎとめる。この世界で為すべきことがあるという幻想がキミを束縛し続ける」


 出会ってすぐの頃だ。まだ夏の熱気が空気に溶けていた。

 弥鳥さんの視線が向けられると身体に痺れが走る。その瞳に別世界の気配を感じるから。だから俺は彼女を信頼する。


「ジャガナートの中心に至れば、そんなすべての軛から解放される。こうありたい、こうでなきゃ……そうやってキミ自身を制約する幾重ものかせから自由になれるんだよ」

「それ……自分自身も消えてしまいそうやね」

「ううん、キミなら大丈夫さ久凪くなぎくん。その胸にある光……純粋な気持ちの結晶があれば」


 あれは賢者の石のことだったんだね。いまなら分かる。でもあれは砕けてしまった。

 いや、本当にそうだったろうか?


「ジャガナートの中心は宇宙の法則すら届かないから、そこから時も空間も超えてあらゆる世界へ行ける。ボクがその扉を開いたら……キミは迷わず踏み出して。その胸の光の指す方向へ……」






 襲いかかる魄魔体ヴァーサナーを空中で寸断しながら、俺は視界の端に風に引き裂かれそうなフギンの黒い翼を捉える。来子が叫んでいる。


勒郎ろくろうさん!」


 来子くるこが差し伸べる手をとって、俺はなんとかフギンの背中に戻った。

 ジャガナートの巨大な渦に吹き飛ばされる大小の魄魔体ヴァーサナーが眼前をおおい、俺達はそれを叩き落としながら飛ぶ。ただ破壊のために剣と魔法を振るう。ぼとん。がつん。飛び散る黒い血肉が降りかかると腐敗した果実のような匂いがする。

 密度の濃い大気がうねる中を俺達は飛ぶ。それは濁流を泳ぐに等しかった。

 フギンの翼の上に軽やかに立って、来子がその濁流に身を任せている。ウェーブのかかった長い髪が生き物のように揺れる。彼女の周りで大きな黒猫の影がまたたくたび、飛び来る蒼黒い巨体が引き裂かれる。そのどろどろした体液はすぐに来子の全身を染める。その血色の薄い顔を黒く塗り潰す。血肉をしたたらせる顔の奥から、来子の大きな瞳が俺を見つめる。


「生まれて初めて……この世にこんな楽しいことがあるなんて」


 来子が笑っていた。

 俺も笑い返した。

 世界を壊す嵐の中で、俺達は雨に濡れながらはしゃぐ幼児だった。

 どうしてそこ・・へ向かうのか、俺にはもう分からなかった。

 来子は俺の願いを叶えたいと言ってくれた。それほどの願いが俺にはあった。だけどいまはこの瞬間だけがある。

 胸が火傷するように熱い。


 奇怪な絶叫が響く。

 世界を暗黒に染める雷光が走り抜け、大気を焦がす。


「暗闇の子供か……!」


 フギンを駆るワタリガラスが声を上げた。後ろ姿しか見えないが、いつもの好戦的な笑いを浮かべているに違いない。荒れ狂う大気に翻弄される俺達にとって、そのドラゴンめいた怪物は恐ろしい脅威なのに。

 蝙蝠の羽根を何枚も広げながら風を裂くように飛び、破壊を振り撒く冥界の使者。大小様々なその竜人達が空を覆い尽くす。


面白おもしれぇ、そろそろ終演らしい展開になってきたぜ」


 そうだ。物語終盤の絶望的な状況は、最後の奇跡を演出する。

 崩れた塔の残骸が、黒い泥流と化した魄魔体ヴァーサナーの海から姿を見せていた。そこは生き残り達の砦だった。6人、7人……いやもう少しいる。人と動物が混じったような、魔物めいた姿。


「あれは……来訪者!?」

「そうだな! あははは、この状況でもジャガナートの中心を目指す往生際の悪い奴らだよ。勒郎、俺達と同じだな!」


 フギンの操縦席からワタリガラスが振り返る。はためく長い黒髪の向こうに、意外なほど無邪気な笑いが見えた。こいつもはしゃぐ子供だ。

 不時着するようにその砦に降り立つとき、俺とワタリガラスは同時に全力の真夜マーヤーを正面にぶつける。

 暗闇の子供の黒い雷光が直撃する。

 天地が砕ける衝撃。

 だけど俺にとっては2回目だ。今度は持ちこたえる。意識を保てる。

 ぶつかり合った力が周囲に飛び交う影を一掃して、視界が晴れる。

 砦は健在だ。

 ここと同じように黒い海から突き出した建物の残骸ごとに、それぞれ来訪者達が集まっていた。その中にリエメイと名乗ったあの白い姿もあった。角と翼を生やした獣の少女が一瞬、その笑みを向ける。

 そして、どこかに弥鳥さんの気配があった。

 俺達3人も飛び入りだ。

 言葉は交わされない。

 だけど皆が同じ興奮の中にあった。

 空から襲いかかる無数の暗闇の子供に相対し、視界の半分を埋める巨大な歯車の傍で、撒き散らされる破壊にあらがって戦っている。

 ここが祭典の最前列だ。

 灰と黒と紫の世界に、魔術的な光が飛び交い、鈎爪と牙が剥き出しになる。

 遥かな高みに見える歯車の中心……皆があそこを目指していた。


「いまここで終われるなら……私最高に幸せです」


 来子のつぶやきが聞こえる。

 ああ、俺も同じだ。この異形の世界で、全身全霊を尽くして戦える。俺の歯車が世界と噛み合っている。俺達は笑っていた。


魔霊を遣う者ゲンドリル……」


 ワタリガラスの右手から黒い杖のような影が伸び、そこから黒い無数の獣達が飛び出して俺や来子を、そして同じ砦にいる来訪者達を守るように取り囲んだ。狼、カラス、蛇やトカゲのような黒き守護霊が、暗闇の子供の爪や牙を受け止める。

 この女は仲間だと見なせば徹底して同じ側に立とうとする。漆黒のセーラー服をはためかせながら矢継ぎ早に真夜マーヤーを展開するその存在は、攻防両面でパーティを助ける強力な魔法使いだ。俺は剣を振るう戦士より、彼らの万能の魔法に憧れていた。


「すごいな、ワタリガラス」

「これはついでだぜ勒郎。俺には俺の目的があるからな」


 隣で俺を見下ろす長身の女が面白そうに笑うと、その胸元に緑の光が見えた。賢者の石の欠片……。


「あそこに辿り着いてからは助けねえぜ。お前はお前のやりたいようにしろ」

「世界を……変える気がないならって……」

「ああ?」


 空からの電撃を勇者のつるぎで弾き返し、俺はふたたびワタリガラスに話しかける。


「お前が言ってたんやワタリガラス。世界を変える気がないなら、せめて溜め込んだドロドロを吐き出してから死ねって」

「あはははは……真理じゃねえか?」

「うん。俺は世界を変える気なんかあらへん。せやからこれは、ただドロドロを吐き出してるだけや。この世界でやりたいことなんかない。でも……あの向こうに」


 空から襲いかかる怪物に、俺は氷雪の嵐を叩き付ける。その向こうに歯車の中心が見える。


「あの向こうに何かあるってことは分かるから……そこを目指してるだけなんや」

「ああ……それで勝てればいいな勒郎。お前の言ってるのは……勝たねえと意味のない想いだぜ!」


 ワタリガラスが複雑な動きで右手を振るうと、俺達の砦に取り付いていた3、4体の闇の子供を恐ろしく派手な爆炎が薙ぎ払い、引き千切られた肉片が宙で焼き尽くされて灰になる。まるで……魔法使いメイジ最強の攻撃呪文。


躊躇ちゅうちょするなよ勒郎」


 燃え上がる炎を背景にワタリガラスが振り返る。影になった顔の中で瞳だけが紅く光る。


「その扉が開いたとき、戻ろうなんて思うんじゃねえぜ。最後の最後でその一歩を踏み出せねえ……そんな物語は死ぬほど見飽きたんだ俺は」

「……もしそうなら、始めっから向こうへ行こうとか思わへんよ」

「だといいな」


 妙に優しげなワタリガラスの笑みに、一瞬あの少女の姿が重なった。メガネをかけて上目遣いにこの世を睨む女の子。世界を見透す賢者の石の力はもうないはずなのに。


「人それぞれ辛いことあるやろ。そこで何とか生きてるんやん」


 フギンの背に乗り込んでふたたび舞い上がるとき、聞き馴染んだ声が聞こえた。


「……あやの?」


 耳元でうなる風がつくった幻聴か?

 周囲の戦いの中に、民族衣装の女が戦っている姿が見えた気がした。

 かき混ぜられる大気が意識を揺さぶる。


「そうやって現実から抜け出せる時期があるってことには意味があるって思うんよ」


 平沢先生。いや……夢幻少女・平沢久遠くおんが、オレンジ色のワンピースを煌めかせながら、襲いかかる怪物へ魔法の矢を放っている。

 錯覚だ。幻だ。

 あのひとの戦いはきっと、こことは違った、だけど重なりあった別の現実で繰り広げられている。

 きっとこっち側も向こう側もないんだ。

 俺達は戦いの中にいる。この世界で戦いは避けられないから。


「勒郎左だ!」


 分かってる、ワタリガラス。

 俺は天から招来した雷をその怪物へ撃ち落とす。勇者だけに使える最強の魔法……いまならイメージできる。

 尽きることのない怪物の群れの前に、来訪者達は引き裂かれ、砕かれていく。しかし何人かは辿り着けたはずだ。あの歯車の中心に。そこで望んだことが叶ったのか俺には分からない。

 来子が何か叫んでいる。すぐ目の前に迫る巨大なドラゴンめいた影、その闇の顔を俺は眺める。

 お前が終わりを告げてくれるのか?

 愛しさすら感じていた。


 閃光が世界を満たす。

 ちりちりと肌を刺す感覚。その向こうから声が届いた。


「やっと見つけた、久凪くん」


 弥鳥さんが笑ってる。

 俺の立つフギンの翼の傍を飛ぶその姿が懐かしい。はぐれたのはついさっきなのに。


「元気そうだな、世界山メールからの来訪者」

「あはは、キミもね、漂流学園のひと」

「元、だよ。一緒に行くか?」

「ふふ……ボクと久凪くんに付いてきてもいいよ」


 とん、と身軽な仕草で俺の隣に降りると、弥鳥さんは例の恐ろしい武器をフギンの前方へ構える。


「弥鳥さん」

「うん、行こう。もうすぐそこだよ」


 もう一方の翼に立つ来子が不思議そうに様子を眺めている。


「勒郎さん?」

「来子、ありがとう。このままジャガナートの中心まで行こう。そこまで付き合ってくれるんやったら」

「そんな……そんなロマンティックな言葉ずるいですよ……」


 ん? そうだったかな。

 赤くした顔を伏せる来子から視線をらし、俺は正面に向き直る。

 弥鳥さんの凄まじい真夜マーヤーが一直線に宙を穿うがち、一掃された進路をフギンが突き進む。

 その先、視界をふさぐ巨大な歯車、光すら歪ませる圧倒的な存在の中心にぽっかりと暗黒の穴があった。

 大きな洞窟のようなうろ


「これが……ジャガナートの中心……」


 呟きはほとんど声にならなかった。

 ワタリガラスも来子も黙ったまま、ただ正面の暗闇を見つめていた。


「そう、ここが世界のあらゆる束縛から解き放たれる場所……」






 俺達は暗闇へ飛び込んだ。いや……飛び降りたというべきか。

 そこは天も地も無い巨大なすり鉢状の空間だった。

 空間をぐるりと囲む壁が“下”になるようだが(遠心力で疑似重力を作る宇宙コロニーのように)、すり鉢状に斜めになっているので足を滑らせると奥へ落下しそうだ。

 フギンの姿が消えて、俺達はそこにばらばらと降り立った。


「ここだ……! ようやく解放できる、俺の手に入れた力……!」


 奥へ走っていくワタリガラスの声が奇妙にひずんで反響した。


「みーちゃん……」


 来子がぼんやりと自分の影から現れる大きな黒猫を見つめている。ミーアクラア……来子に同化したそれが何かを求めるように奥へ向かって鳴いている。

 そこには他にも来訪者達の姿があったが、どこかおかしい。あれはカラダが潰れたように見える。あっちのはいくつもに分裂しているようだ。


「久凪くん、奥へ急ごう」


 弥鳥さんの手を取ると、身体が浮いてすり鉢の底へとゆっくり落ちていく。

 宇宙に放り出されたようだ。

 暗く静かな空間……だが心はざわめいていた。

 激しい感情が沸く。

 それが喜びなのか怒りなのかも分からない。

 思い出したこともない過去の会話が蘇る。いつか眺めた夕焼けに沈む街。陽光を受けて揺れるカーテン。脈絡のない記憶の断片。

 懐かしかった。1000年も昔の記憶に巡り合えたような、信じられないほどの懐かしさ。

 涙が燃えるように熱い。

 内側に閉じ込めていたものが蓋を破って溢れ出していた。

 身体中に痺れが走り、ちくりとした痛みに目をやると、手が内側から圧されるようにひしゃげて見える。いや、背骨を軸に全身がねじれていくようだ。


「弥鳥さん……どこや……?」


 さっきまで一緒に浮かんでいたのに。

 涙に歪む視界の中で、洞窟は渦を巻くように脈動していた。

 暗闇の中で自分がどこへ向かっているのかも分からない。

 その闇の深淵に少女がいた。






「あなたを……待ってたの……」


 上下のない暗黒の中から、彩飾で縁取られた大きな目が俺を見つめる。

 少女の伸び放題の髪や小さな身体を、輝く石や金属が豪奢ごうしゃに飾り立てている。

 彼女がジャガナートだった。


「何で俺を……」

「この場へ来た誰もを……あたしは知ってるわ。いまここにいるのがあなたであることに理由はないの……ただそうだったというだけ」


 少女の声が水面に波紋を起こすように、俺の意識にさざ波を立てる。

 いつの間にか少女は目の前にいた。

 異形の瞳が俺をじっと見据える。

 胸の奥が焼けるように熱い。

 これはたぶん、気の遠くなるほどの間待ち望んだことなんだ。

 ふと、すぐ傍に弥鳥さんの気配を感じた。


「ほら、あそこだよ久凪くん。向こう側への扉だ」


 ジャガナートの背後の暗闇にその光があった。叢雲むらくもを透かす月のようにかすかな光。


「手を伸ばして……さあ、あの向こうへ」


 その光は感情の奔流を受け止めるように優しく瞬いていた。

 気が付いたのはそのとき……ジャガナートの足元に何かがいた――鳥肌の立つおぞましいものが。

 この世界への強烈な憎悪と怨念が、気の遠くなるような深みから湧き出していた。


「冥界の……」

 

 何が起こったのか分からなかった。

 そこから真っ黒な何かが“こちら側”へ手を伸ばした。

 瞬間、世界を壊すような轟音が洞窟を満たし、暗黒の光が外へ放出された。エレシュキガルや闇の子供の雷光とは比べ物にならない凄まじさだ。


「来子! ワタリガラス……!」


 俺は洞窟の深淵から後ろを振り返る。

 黒い光は洞窟の内側を半壊させ、来訪者達の肉体をガラスのように砕いていた。

 頭部を失くした来子の身体が壁にぶつかり、4つ5つの断片に割れるのが見えた。


 足りないよ。足りないよ。もっともっと壊して。この世に生きるすべての人間を壊して。のうのうと当たり前に生きてるすべての人間を。幸せだと笑う人間も不幸だと騒ぐ人間も。


 俺の傍に立つ蓬髪ほうはつの少女の足元から、それがい出してきた。

 闇をした闇、暗黒そのものが凝固したようなそれは人の形をしていた。

 ジャガナートの少女の瞳がじっとそれを見つめていた。

 誰かが呼んでいる。黒いセーラー服を来た長身の女が遠くからこっちを見ている。

 いや気のせいかも知れない。左肩から斜めに引き裂かれて下半身のない状態で生きているとは思えない。


「弥鳥……さん……」


 俺は何をすべきだったのか憶えていなかった。

 ただ胸の奥が熱い。

 足元から現れるそれに背を向けて、俺は少女の後ろにある幽かな光へ手を伸ばす。

 それに触れたとき、胸の奥に抱え込んできたすべての痛みが溶けた気がした。



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