いつだってその瞬間しかないんだぜ ②

 自分の家庭が少しおかしいって、あたしが気付いたのはいつからだろう。

 あれに殴られた青アザに担任教師が騒ぎ立てたのは小5の頃だったけど、酔っ払いの溜まり場になった家から弟を連れ出して夜の街をぶらつくようになるのはもっと前からだ。

 7歳のとき、あたしは別世界への扉を開こうとした。思えばあのときすでに気付いていたのかも知れない。ここにはいたくない、そう強く願うほどには。


「じゃさとる、あたしは一回家に戻るから、あんたはお母さん見てたげてて」

「お姉ちゃんちょっと寝てきたら。疲れてるやろ」


 大丈夫。眠ってて叩き起こされることがないから病院にいる方がかえって楽だ。とりあえず着替えと日用品をまとめて、またすぐ戻ってくるだけ。前にもあったことだ。大したことじゃない。


――お前、家で何かあったんか?


 気遣うようなあいつの声が聞こえる。何だそれ。そんな顔されることじゃない。

 あいつに同情されるのがあたしは恐い。まるであたしの人生に深刻なことが起きてるような気になる。


――あやの……お前も来いよ。ひとりやとおもんないやろ。


 あのときあいつはそう言った。

 コックリさん。稲荷神社の鳥居を抜ければ向こう側へ行ける。7歳児の他愛ない遊びだった。

 なぜあたしは、あの言葉をいまだに抱えてるんだろう。あれは向こう側への誘いの言葉だった。あたしをここから連れ出してくれる救いの言葉――。


 ダンダンと木の板を叩くくぐもった音がする。

 アパートの扉。夜中にあれが帰ってきた音だ。

 すっと心が冷える。

 重たい石が水底みなそこへ沈んでいくように。


『うふふふふふ……』


 可笑しくて仕方がないという声。いつから聞こえてたんだろう。

 すると扉を叩く音が小さくなって、あたしはほっとする。


『沈むと気持ちいいよね? 深く深く……うふふふふふ……』


 楽しそうな笑い声が木霊こだますると、あたしは嬉しくなる。

 全身を包むひんやりした水が心地いい。

 そうだね、沈むほどに静かになるね。もう笑い声しか聞こえない。


『うふふふふふ……。そうだね静かになるよ。もっともっと深く沈めば……』


 ……音も光も優しくなるね。深く沈めばもっと……。

 うふふふふふ。

 そうか、あたしが笑ってたんだ。

 うふふふふふ。気持ちいいなあ。

 このままでいたいなあ。

 

「……の!」


 まだ音がする。扉を叩く音。嫌だ。もっと深く深く……。


「あやの!」


 ……やめて。あたしに手を触れないで……!






「あやの……!」


 俺はアパートの戸を叩きながら叫んでいた。どうしてだか、あいつの姿が、あいつの心が見える。抱え込んだ気持ちを閉ざしていく心が。

 俺はいままで何をしてたんだ。あやのは俺のすぐ傍でこんなにも苦しんでいたのに。


勒郎ろくろう、だめだ。彼女はもう取り込まれてる。いや……」


 隣でククが後退りながら周囲に視線を向けている。

 どうしてだ。どうして魄魔体ヴァーサナーがあやのを襲うんだ。

 ああ、俺にもこの目眩のする感覚は分かる。レイヤーがどんどんずれていく、坂を転がり落ちるような感覚。そして戸の向こうの恐ろしい気配が高まる。


 …………ァァァ!!


 心を引き裂くような絶叫が頭を揺さぶる。


「彼女の方が……取り込んだ!?」

「クク、なんでや、なんであやのが……」


 ククの小さな紺のブレザーを乱暴につかむと、空気を押すような手応えのなさにぞくりとした。

 その姿を薄れさせながら、ククが悲しそうに俺を見つめていた。


「周囲の人間も……影響を受けるんだよ。ごめん、僕の考えが甘かった」


 いまやアパート全体が真っ黒に塗り潰されて見える。なのに……元の建物もはっきり分かる。

 俺の首元が銀色に光っていた。


「ジャガナートが迫り、来訪者が集ういまこのときに、君の影響力を甘くみてた。勒郎、君は絶対に来ちゃだめだ」

「クク、待てって! 俺も……」


 首の瓔珞ようらくを引き千切ろうとするのに、うまく掴めない。真夜マーヤーを込めようとして俺は一瞬躊躇ちゅうちょする。俺の影響を受けてあやのがこうなったのなら……。

 もうククの姿を認識できなかった。そこにいるはずなのに。


「真野あやのは僕が追いかける。勒郎、君には謝っても謝りきれないけど……せめて僕ができるだけのことをするよ」


 最後の声が消えると、どんよりとした暗い空気も無くなっていた。

 目の前には、あいつのアパートが何の変哲もなく建っていた。






 廃ビルの屋上から眺めると、夕陽が街の喧騒を彩る様子がよく分かる。その光景では皆が帰る場所を持っているようで、なぜか苛立たしい。

 学校へは戻らなかった。平沢先生のことは気になったが……あのひとなら大丈夫だろう。それに先生と顔を合わせるのが怖かった。


――なんてひとりよがり……


 ククの言ったとおりだ。結局俺は変わらない。ひとりよがりな悩みに浸りながら、自分では何もせず、周りの足を引っ張るだけ。まるで……


「……魄魔体ヴァーサナーそのものや」


 俺は屋上の端、一段高くなった塀の上に立つ。足を踏み出せば……俺はまだ空を飛べるだろうか。


「お前じゃ飛べねぇぜ」


 急に声がして足を踏み外しそうになる。この声は……!

 半ば逆上して俺は床へ飛び降りる。


「なんだ? ようやくお前の気配を捉えてみれば」


 黒いセーラー服の女がそこにいた。

 胸元のリボンだけが白く、袖も、足首近くまであるプリーツスカートも、完全な黒だ。人形のように細い手足が伸び、俺よりずっと背が高い。

 闇を溶かしたような長い黒髪が風になびいていた。


「お前は……!」


 俺はすぐ真夜マーヤーを発動させる。右手に剣、そして全身を魔法で強化する。日が沈むにつれ真夜マーヤーが強くなるのを感じる。


「……あのときの大鴉おおがらすやろ」

「はははぁ、そうだな。ワタリガラスとでも呼んでくれ、少年」


 女の両眼が嬉しそうに見開かれた。夕暮れの暗がりの中、その瞳が紅く光って見える。


小凍ダ・ル・ト……!」


 有無を言わせない。俺は魔法で作り出した極低温の疾風を相手に叩き付ける。大気中のチリが氷結し、刃となって奴を襲い……。


「だあああっ!」


 魔法と同時に飛びかかり、勇者の剣をなぎ払った。……が、手応えなく空を切る。

 かわされた!?

 いや、女はすぐそこに立っているのに! その黒いセーラー服に傷ひとつない。


「まあ……まあ……まあ……」


 女は何気ない仕草で右手を突き出し、俺の胸へ刺し込んだ・・・・・

 激痛……それは精神的な痛みというべきだった。

 とっさに両手でその腕を掴むが、女の手首から先は同化したように俺の体内に消えている。またこいつの奇怪な能力だ。


「そう興奮するな少年」

「あがっ」


 体内を掻き混ぜられる感触に嫌な声を上げた瞬間、俺の全身から黒いヘドロのようなものが溢れ出してビルの屋上を埋め尽くす。

 それは縄状に固形化し、俺を立ったまま縛り上げた。まるで身動きがとれない。

 その様子を女の瞳が楽しそうに見ていた。


「み……弥鳥さんはどうした!?」

「知らねえよ。あいつらは生きるも死ぬもねえんだし……気にしててもしょうがねえだろ」


 どういう意味だ。こいつだって外からきた“来訪者”のはずなのに、弥鳥さんはその中でも特別なのか。

 もがく俺を覗きこむように、女が黒髪をたらしながら顔を近付ける。


「それより……さっき表層から濃い影が落ちてったが、あれはお前の何だ」

「あやのが……魄魔体ヴァーサナーに……」

「あやの……ねぇ」


 俺の首につけられたククの瓔珞ようらくに気付き、女が怪訝そうな顔をする。


「……そんなものに守られてたのか。それで、そのあやの・・・を見捨てたまま逃げ帰って、自分の城でねてるって訳だ」

「そんなんじゃ……!」

「じゃあ安全なとこでぬくぬく何してんだよ。ジャガナートはもうすぐ始まるってのに」

「何なんやお前……お前こそここで何してんねん」

「ああ、俺は探し物だ」


 女は俺の胸に突き刺した手を乱暴に掻き回す。自分の一部が引き剥がされるようで目が眩み、ひいいと声を上げてしまうのが情けない。

 女の右手が何かを掴んで引き出した。うっすらと緑色の光を脈打たせるもの。


「ああ……まさしく賢者の石……!」


 右手の光を天に掲げ、長い黒髪を振り乱し、女が狂喜している。


「あははははは! 俺の望みは叶うようになっていたんだ。恒真の守護者アガスティアども……天刑陣てんけいじんに縛られるのもおしまいだ」


 俺は朦朧もうろうとしたままその光景を眺めていた。

 邪悪そうに笑う女に、暗くおどおどした少女の姿が重なって見える……。

 黒髪を三つ編みにし、目もとのクマが不健康そうなメガネの少女が、両目をおどおどと上目遣いにして、思いつめたように中空を見つめている。


殊子ことこちゃん……オレ……絶対取り戻すから』


 その少女が自分に言い聞かせるようにつぶやいた気がした。






「ことこ……?」


 ぼんやりと少女の言葉をなぞっていたらしい。気付くと女がじっと見つめていた。


「……なるほど。俺にすら同調できるのか」

「同調……?」


 このワタリガラスと名乗る女が、こんな冷静な表情を見せるのは初めてだ。

 賢者の石……同調……そこに大きな意味があるのが分かる。こいつは出会ったときから奇妙なことばかり言っているが、俺はたぶんその意味を理解しなきゃいけない。


「それが賢者の石……俺の中にあったんか……」

「そう……感情を相転移させる触媒……これでジャガナートの賭けにすら勝ちが期待できる……」


 女が一歩引いて、右手の光を愛おしそうに胸に抱く。黒いセーラー服姿のせいか、さっきの少女の幻のせいか、宝物を見つけて無邪気に喜ぶ女の子のようだった。


「……どうせお前にとっちゃ、誰かとつながる糸電話にしかならねぇだろ?」


 つながる……? 俺はさっき、あやのの心の奥を垣間見た……学校にいながらあいつのアパートのヴィジョンを見た。あれが……。


「人との関わりを避けながら、それでも誰かとつながりたい。心から理解し合いたいと願いながら、そのことを恐れて引きこもる。……その矛盾を一時いっとき忘れるために、道具としてこいつを使うんだ」


 女は優しささえ感じられる表情を浮かべていた。


「そうじゃねえだろ……失われゆくものを諦めず、掴みたいものへ躊躇なく手を伸ばす。そのためには世界のことわりすら超えたいという思いにこそ、こいつは使うべきだ……」


 その一瞬ふたたび、正面を見つめる三つ編みメガネの少女が現れた。内心の絶望にひるみながら、その涙を内側に閉じ込めるように凍り付いた瞳。

 ああ、こいつにもあったんだ、世界から見捨てられたことを自覚する、あの瞬間が。


「俺やって……そう思てた……」

「あははははは!」


 女が凶悪な笑い声を発し、その瞳を紅く光らせると、俺を締め付ける黒い縄が暴発するように膨らんで屋上をおおう。身体が呑み込まれそうだ。


「あのとき本当はこうしたかった……次の機会は本気でやろう……そう思うたびに自分を殺してるんだお前は。いつだってその瞬間しかないんだぜ。重要なのは、その瞬間お前が手を伸ばせるかどうかなんだよ」


 叩き付けられるような言葉。何も言い返せない。


「悪いがこいつはもらってくぜ。これで物語の座標系は引き直される。お前はこれからはしっかり現実・・を見据えて生きてってくれ」


 女がきびすを返す。

 彼女の右手の光が遠ざかるにつれ、俺は自分の為すべきことが消えていくのを感じた。もう俺にやれることはない……。


「……待ってくれよ」


 誰にも届かない言葉がこぼれた。


『……あたしも……あんたと同じようなもんやったな』


 あやのの声が聞こえてはっとした。

 あいつの視界が浮かぶ。紫色の空がドームのように覆い、廃墟のような建物が並ぶ……この世界は見たことがある。


「あやの……!」

『……最後に……ノート渡せて良かったわ……もうちょっと続き描きたかったけどな……』


 まだ“糸電話”が機能している! あやののところまで辿り着けるんじゃないか。いまならまだ。


「こんな縄……」


 もがきながら、あやのへ声をかけ続ける。賢者の石……それがまだ俺とあやのをつないでいるんだ。


「あやの!」

「うるせえなあ」


 顔を上げると、黒いセーラー服の女が俺を見下ろしていた。


「……頼む……」


 じっと覗き込む女の瞳を、俺は必死で見つめる。


「俺を……連れてってくれ……」

「都合のいいことじゃねえか。俺に何の得がある?」

「あやのを救えたらその石はやるから」

「……交渉になってねえ。こっちはいまもらっていいんだ」

「できるか? 俺はまだ……それとつながってる。抵抗できるはずや」

「ふぅん……」


 女が右手の緑色の光と俺の目を見比べる。『こいつがいる方が……使いこなせるか?』女の声が聞こえた。


「……少しは……マシな顔をするようになったじゃねえか」


 女が首を傾けると縄が溶けて流れ落ち、俺は倒れ込みそうになる身体を両手を突いて支える。まるで女の足元にひざまずくようだ。


「俺と行くなら二度と戻れねえぜ」

「ああ……」


 片膝を突いて立ち上がる。

 平沢先生、だけど今回はひとりよがりのバカじゃないんです。あいつのために、俺はいま行かなきゃいけないんだ。


ドグマを司ヴァルる漆黒の羽根ラヴェン……」


 女が左手を軽く掲げると、妙な電子音が鳴り、周囲に小さな精密機器めいた構造体が浮かんだ。

 細かな立方体の集合が形を変えながら明滅し……目の錯覚だったかのように唐突に消える。


「サービスだ。本来はお前ひとりで引き剥がすもんだぜ」


 女の左手に銀色の首飾りがあった。ククの瓔珞ようらく……俺を表層へ縛り付けていたかせ。俺は思わず自分の首元を確かめる。


「これでもう命綱はないぜ」


 女が力をこめると、瓔珞ようらくが銀色の閃光を発し、無数の粒子となって飛び散った。夕闇が覆う廃ビルの屋上を、それは花火のように照らした。


「……帰ろうなんて思ってへんよ」


 女が笑った。

 白い残光が、女のセーラー服と俺の姿を浮かび上がらせた。



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