行ったら還ってこなきゃだろぉ ②

 黄色い帽子に青いスモックの幼い女の子がお菓子のステッキを手にすまし顔で歩いていて、足元を黒猫がとことこ先導するのが微笑ましい。


「あの猫が……みーちゃんか」

「そう、私が5歳で出会った本当のお友達です」


 黒猫が幼女を見上げてなあと鳴き、ああ会話してるんだって俺は感心する。


「言葉が分かったと言うつもりはありません。私とみーちゃんは言葉を超えて、お互いの感情も感覚も共有していましたから。……たぶん魂さえ」


 幼女は10歳くらいの女の子に成長していて、歩くたびにその子のフリルのスカートがちかちか光る。不思議だったが、つられて俺の心も弾んだ。

 その肩にはさっきの黒猫らしい小さな生き物がちょこんと乗っていて、俺はなぜかほっとした。


「みーちゃんは一度いなくなったのですけど、その後もずっと私のそばにいてくれたんです。他の誰にも見えませんでしたが」


 唐突にガラスの割れる甲高い音がして、どきっとした。痛ぁいと言う子供の泣き声に続いて、何なのあの子、気持ち悪い――ひそひそ声が反響する。

 周囲は暗闇……得体の知れないどろどろに囲まれていた。


「5歳で魂を共有する相手に出会えたことは恐ろしい幸運でした。そのせいで私は他人との距離をうまくつかめなくなっていたようです」


 闇に囲まれながら歩き続ける女の子のクセのある黒髪には、ティアラのように輝く光があり、その手には魔法使いのステッキ。肩の黒猫は額に星模様を光らせ、天使のミニチュアのような白い羽根をぱたぱたふるわせている。俺は何かを思い出しそうだった。


「あの光は……真夜マーヤー……?」

「やっぱり見えるんですね! みーちゃんと私には魔法の力があったんです。私達だけにしか分からない力……おかげで私は助かりました」


 ハープをかき鳴らすような音が鳴り、空から無数の流星が降り注いだ。

 地面に落ちては光を撒き散らし、その一瞬周囲に泥人形めいた無数の影が浮かぶ。

 その薄気味悪い夜道を、女の子は気にもしない様子で歩み続ける。

 時折直撃の軌道で落ちてくる星を、女の子はステッキを振って空中で四散させる。細かい星屑が降りかかるのを、肩の黒猫が体を震わせて吹き飛ばす様子が微笑ましかった。


「猫には魂がないって母は言います。私達のつながりを理解できないんです。それは親だけでなく、ほかの誰にとってもそうなのだと私は学びました」

「……寂しいな」

「いえ……」


 すぐ後ろから声が聞こえることに気付き、俺は振り向いた。

 ウェーブがかった長い黒髪がやや俯き加減の顔にかかり、その向こうから大きな瞳がこっちを見つめている。

 

「寂しい……とは感じないんです。みーちゃんがいますから。私の中にいるんですほら」


 この子には見覚えがある。いつ会ったんだろう。

 少女が俺に話しかけながら、ゆっくり顔を上げ、口元を開いていく。

 彼女の下唇の上に何かが現れる。

 赤黒い塊。

 よく見ると、動物の体毛のようなものがびっしり生えていて、俺は目を離せない。


「大きな車だったんでしょう。潰されてました。大人が何か言ってましたが、私に分かったのはその血肉がすぐ失われてしまうということでした。だから私にできたのは小さな一部だけ」

「……お前……」

「全部を食べてあげられなかったんです……それでもみーちゃんの体を私の中に宿すことができた。魂を分けたお友達とひとつになれた、その経験が私を幸せにし、そして私を他人から遠ざけてきたのです。……あなたが現れるまで、勒郎さん」


 その言葉を聞いた瞬間、視界が黒く染まる。

 俺は突然、自分の背中が固い地面に押さえ付けられていることを意識した。


 るっぎゃああぁぁぁぁ……


 間近の大きな鳴き声に全身が震え上がり、自分が強く目を閉じていることに気付く。

 目蓋を開けると目眩と共に世界が反転し、背中を押し付けられているのが地面じゃなく壁だと分かった。

 巨大な猫じみた影のような怪物が目の前にいて、何本あるのか数えたくもない前肢のうちの2本で俺の身体を壁に張り付けている。いまにも頭から俺を食べようという体だ。


「そうか……あの時の魄魔体ヴァーサナー……」


 猫の巨大な口がさらに裂け、奥から少女の顔が覗いた。確か来子くること名乗った、隣の中学の生徒。焦点のずれた大きな瞳が俺を捕える。


「この心に触れてくれるひとが現れるだなんて希望もなかったのに」

「わ……我が手に来たれ……」


 巨獣の前肢に潰されそうな痛みに耐えながら、俺は必死に真夜マーヤーを発動しようと試みた。

 その様子を愛おしむように見つめながら、来子がゆっくりと猫の頭部から上半身を出し、近付いてくる。


「な……んで、真夜マーヤーが……使えない」


 もがく俺の頭を来子が両手で抱え込む。母親が子供を胸に抱くように。


「思い出しました? 誰とも分かち合えない気持ちに触れてくれたこと。あの時、私は勒郎さんの魂の傷も感じました。暗くてよく見えなかったし、ほとんど言葉も交わさなかったけれど、あなたの傷は私の傷とそっくりでした」

 

 侵食……これは、魄魔体ヴァーサナーに剣を突き立てるたびに起きていたことだ。

 俺の首筋に押し当てられる来子の両手が、服も皮も肉も透過して一体化していくようだ。


「ひとつになれる、これほどの幸せが訪れるなんて信じらない、そうじゃないですか?」


 生ぬるい粘液と共に、彼女の喜びや哀しみが背骨にそって身体の内側へ流れ込んでくる。

 俺は顔にかかる彼女の髪を感じながら、感情のタガが外れれば痛みも心地よくなるんだとぼんやり考えていた。






「同意の上かぁ、久凪くなぎ?」


 とぼけた声がして、水をかけられたように意識がはっきりした。

 俺の真正面、来子の背後で何かが光る。次の瞬間、魄魔体ヴァーサナーが来子を口に収めたまま後ろに飛び退いた。巨体が嘘のような身軽さだ。

 支えを失った自分の身体が地面に崩れ落ちる中、俺は遠くから飛来した光が地面に当たって派手なピンク色の火花を散らすのを見た。


「……はははっ、まじですか」


 俺は身体を起こしながら向かいの建物の上に立つ姿を見て、ギャグかシリアスか大いに迷った上で、ひとまず笑ってみた。


「魔法使いの女の子……だったんすねほんとに」

「いまもそのつもりなんやけどなぁ」


 鮮やかなオレンジに彩られた少女趣味なワンピース、胸元を飾る大きなリボン。大きなトンガリ帽子を斜にかぶり、平沢久遠くおん先生がいつもの赤い縁のメガネの奥で悪戯っぽく笑っていた。その手には宝石のついたカラフルな弓を持っていて、さっきはそこから魔法の矢でも放ったらしい。衣装からはキラキラ光を振りまいていて(真夜マーヤー……?)、空でも飛びそうな勢いだ。


「……月が優しく唄うとき、心の音色ねいろ木霊こだまする」


 右手を高く掲げ、目を閉じて何やら唱え始める先生を俺は呆然と眺めていた。


「この心ふるえる限り、響け! 光のメロディ」


 ここで決めポーズ。

 20代女性が着るには致命的に痛々しい衣装だが、ああも得意気な立ち姿を披露されるとこっちの感性がぐらついてくる。そもそもこのひとが完璧なメイクアップに艶のある髪をなびかせるだけで、俺にとっちゃ天地鳴動の大事件なんだ。


「あのひと……恥ずかしくないんか」

『こういうのは恥ずかしがったら負けなんよぉ』


 正直な感想をこっそりつぶやいた途端、頭に先生の言葉が響いてぎくりとする。テレパシーくらい当然なのか。

 そんな先生を慌てて見つめると、顔も赤いし笑顔も引きつっていて、案外いっぱいいっぱいのようなのでここは素直に感動していよう。


「勒郎! 大丈夫っ!?」


 先生の足元から白い小動物が顔を見せる。ククがその姿でいるとすっかり魔女の使い魔だ。

 俺が無事なのにほっとしたようで、先生を見上げて話しかけている。


「ありがとう、久遠さん……て呼べばいいかな? おかげで間に合ったよ」

「久遠でいいよぉ。……ええっと」

「僕のことはククって呼んで」

「ククね。懐かしいなぁ、むかし君に似たQ太って子がいたんやけど」

「うん……かつて君達の傍にいたのは僕じゃないけど、憶えてるよ久遠。君の魔法、君達の冒険を……」






 うるるるるぅぅぅ……


 猛獣の唸り声にその場の皆が振り向くと、魄魔体ヴァーサナーが無数の肢を地に踏みしめ、身を低く威嚇していた。来子の姿は見えなかったが、その猫じみた巨獣の瞳は彼女のものだ。


「……ええ、知ってます。いつも私達は邪魔されるんです。でも結局は私達の絆の強さを確認するだけ。みーちゃんのときと同じ……」


 平然と言葉を連ねる来子の声が、巨大な猫の口許から聞こえる不気味さに鳥肌が立った。


「こんなに大きい影魔シャドウやなんてねぇ……いま何が起きてんの?」

「久遠、話は後で……」

「うん分かってる。悠久はるか永遠とわもいないから……ここはあたしが張り切るしかないねぇ」


 建物の上から先生が平然と弓を構えると、巨大な猫の影が音も立てずに跳んだ。

 一瞬の交錯の後、空中戦が始まる。

 空を舞いながら先生は矢を放ち、襲いくる無数の鉤爪に対抗する。激戦に違いないが、矢が放たれるたびに黄色やピンクの光が輝き、俺の心もときめいてしまうのがどうにも悔しい。何のショーなんだこれ。


「……何者なんやあのひと」

「魔法少女……そう、永遠Puellaの少女Aeternaとも呼ばれたね」


 紺のブレザーを着た小さな女の子……その姿に戻ったククが傍にいた。

 地面にしゃがみ込んだ俺の肩に手を置くと、巨大な前肢にやられた痛みが引いていく。


「クク……お前先生のこと知ってたんか」

「……どの世界にもいるんだよ、レイヤーを移れる人ってね。僕は以前、世界山メールから彼女達を手助けするためにやってきたことがあるんだけど……それはいまの僕とは別の僕だ」


 ククが俺を覗き込むように微笑むと、頭の上でちょこんと逆立てた毛が揺れる。

 言葉の意味はいまいちつかみかねるが、そもそもいま起きてることがおかしいんだ。


天使の輪舞エンジェリックロンドっ!」


 空中にオレンジ色の波紋を散らしながら、先生が叫んでいる。

 何だこれ。俺はいま誰の物語に入り込んだんだ。弥鳥さんもいないのに話だけが進むだなんて……。

 いや、これは千載一遇の好機なのか?

 ククは俺を守ってくれるが、あいつといる限り俺は表層現実に留まるしかない。弥鳥さんと目指した、そして彼女を最後に見た深いレイヤーへ移るには、あの瓔珞ようらくが妨げだった。それが砕けたいまなら……。そしてここにはレイヤーを移動できるらしい存在がふたりもいる。

 

「勒郎、大丈夫かい?」


 心配そうに尋ねるククに俺は笑いかけ、立ち上がる。傷はすっかり治ったようだ。


 るっぎゃああぁぁぁぁ……!


 魄魔体ヴァーサナーの鳴き声が響き渡る。先生が空中に描いた光の魔法陣めいた模様が閃光を発し、その巨大な影を取り囲んで分解していく。


「あれが彼女達の力だよ勒郎。魄魔体ヴァーサナーを生み出す心の澱みそのものを癒してしまう」

「……凄いな」


 言わば必殺技だったんだろう。閃光が消えると、そこには微かに残った黒い影をまとう少女の姿だけがあった。

 倒れたまま動かない来子の華奢きゃしゃな身体を見て、俺は胸を刺されたような気がした。


――あなたの傷は私の傷とそっくりでした。


「来子……」


 俺が半ば無意識に歩み寄ろうとしたとき、ククが後ろから俺の手を掴む。

 ぼんやり振り返って、ククの真剣な表情に俺は驚いた。


「あれはまさか……」


 ククの視線を追って再び来子に目を向ける。やっぱり倒れたまま……だがその周囲の影が再び具現化しつつあった。来子を守るように身構える、巨大な猫の姿へ。


「……来訪者!」


 ククが叫ぶ。何だって?


――あの魄魔体ヴァーサナー……やっぱりなんか変だよ。


 弥鳥さんは確かそう言っていた。


「勒郎、危険だよ。あれは別世界からの来訪者が、この世界の魄魔体ヴァーサナーに同化してるんだ」

「じゃあ、あれもジャガナートを目指してここへ来た……?」


 俺が見つめる最中、猫は来子を優しく抱き抱えながらその姿をぼやけさせる。レイヤーを移ろうとしているんだ。

 そのとき俺はほとんと何も考えていなかった。ただ身体が動いていた。弥鳥さんを残してきたあの深いレイヤーへ飛び込みたいという衝動がそうさせたんだ。

 疾走する俺は真夜マーヤーを使っていたんだろうか? ククにも追いつけない速度で俺は来子へ手を伸ばす。

 そして身体を貫く衝撃。

 天地が逆転し、地面に転がる自分がうっすらと意識できた。

 派手な黄色とピンクの光がちかちかと舞っていた。






「……どうするつもりやったんやお前は」


 聞き慣れた声。女の人に仰向けに抱き起こされる、なんて経験も物心ついて初めてじゃないかと俺は考えていた。


「ここじゃないどっかへ行きたい……その気持ちは信じてええと思うけどなぁ」


 焦点の合わない目で見上げるせいか、平沢先生が随分綺麗に見える。いや、このひと綺麗なんだよなやっぱり。

 その向こうにククの顔も見える。初めて神社で会ったときの、あの怒った顔。まるで自殺未遂をとがめるような。まああの猫に付いてレイヤーを潜ろうだなんて、自殺と変わりなかったかも知れないが。


「でもなぁ……行ったら還ってこなきゃだろぉ」


 優しく俺の髪をなでる先生を見ながら、魔法少女の格好も見慣れると似合いますね、なんて茶化そうと思ったけどうまく声にならない。

 ああでも先生、俺は一度“ここじゃないどっか”へ行った後で、結局ここに帰ってくるだなんて裏切りは絶対したくないんですよ。

 勿論そんな言葉も形になることはなく、俺の意識と一緒に眠りの世界へ溶けていった。



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