Ⅱ 君だけの断章/冥界からの呼び声は彼女
行ったら還ってこなきゃだろぉ ①
『……胎蔵印を発動……表層へ追い込んだよ
凛とした女の子の声が頭に響く。
俺はゆっくり目を開き、周囲の気配を確かめる。
『位置は……かなり西にずれてる。
『ごめん、動きが早い奴だ、気を付けて!』
緑色に照らされた薄暗い街を俺は駆ける。身を包む青白い光がビルの屋根から屋根へ跡を引く。
ひと区画先を、硬そうな殻に覆われた黒い触手が横切った。
『見つけた……! クク、先に仕掛けるで』
『無茶はしないでよ。こっちもすぐ行くから』
頭に響くククの返事を待たず、俺は空中で剣を顕現させて飛び降りる。
「
ぎこちなく路地を走るムカデとイカの合いの子のような影が、俺の声に反応して動きを止める。こいつらの習性だから狙い通りだ。
きるるぅぅぅ……!
金管楽器のような声と共に、金属的な触手が空中の俺を捕えようと飛ぶ。
剣を横殴りに一閃。1、2本を半ば切断しながら、俺は影の前に着地する。
「素直にジャガナートへ向かえばええのに……表層で悪さするからククに捕まるんや」
鳴き声を上げて向かってくる影の攻撃をかわし、腹部に剣を突き立てる。
すぐに
「胎蔵……一切の因果を含有せし光のもとへ還れ」
女の子の声が闇に包まれた俺の耳に届いたとき、周囲の影が飛散した。
俺は地面に転がり、吐き気を
「大丈夫? 足留めだけでいいのに、君はいつも無鉄砲をやって……」
ブレザーを着た10歳前後の女の子――ククが立っていた。男の子のようにショートにした髪から逆だった毛がひと房揺れている。
その差し伸べる手を取って、俺はゆっくり起き上がる。
ククの身体には白銅色の装身具が輝いていた。この子の
「ククの印だと……ただ消えてまうからな。ちょっとでも触れてやりたいし」
「まだマイトリーといた頃の癖が消えないんだね。ほら……」
ククは顔を近付けて俺の首元に触れる。そこに複雑な装飾の首飾りめいた銀色の輝きがあった。
「この
俺は曖昧に
――また会えるよ。もしキミの心が望めば。純粋にそう願えば……
そうだ、俺は忘れない。この世界から出ていこうという最初の願いを……彼女にまた会うために。
【Ⅱ章】 君だけの断章/冥界からの呼び声は彼女
弥勒菩薩に救われた男子中学生はいるだろうか。それも制服姿で空を駆ける少女の姿の、だ。妄想性障害の症例にしてはあまりに無邪気だし、ライトノベルのモチーフにしてはインパクトが足りない。
そもそも弥勒というのは2000年以上昔にインドで入滅したお釈迦様の後継者として、人々を救うために覚醒する存在らしい。ヒーローを約束された主人公のようなものだけど、その覚醒は56億7000万年の未来というから気が長過ぎる。阿弥陀様なら「ナムアミダブツ」と唱えればすぐにでも助けてくれるらしいが、この現代で弥勒に救ってもらえるのは期待薄だ。
ところが少し(平沢先生にも聞きながら)調べてみると、弥勒は覚醒までは天界(兜率天)にいるそうで、じゃあいますぐそこへ行こうって信仰があったらしい。これを「上生信仰」というが、これと真逆の発想でいまこの現世に弥勒を迎えようという「下生信仰」というのもあった。そりゃ遥か未来の救いよりもモチベーションが湧くだろうし、弥勒様にしたって退屈しないだろう。
「
「そんでカルナー……じゃなくてクク、お前はなんでその姿なんや」
自宅マンション6畳の部屋で学習机に片肘を突きながら、俺は窓際に座った小動物を眺める。
真っ白な毛並みに、頭から背中にかけてオレンジ色の模様がついたマスコットめいた生き物。小さなキツネかイタチのようなひょろりとした体に乗った無邪気そうな顔が、こっちを見つめていた。
「しばらく君の傍にいるなら、この方が何かと楽でしょ?」
「……せめて普通の猫とかの方が違和感ないんちゃう?」
「普通の猫が喋る方が違和感あるよ。レイヤーをずらしてるからどうせ普通の人には見えないんだし」
女の子の声でククが話す。
あの日神社でカルナーと名乗ったこの子は、普段小動物の姿で俺の傍にいる。愛称があった方がいいと言い出したのもこいつだ。
「別に一緒におらんでええんですけど」
そう言うとククはわざとらしくため息をつく。
「君達のおかげで事態は予測不能の領域にあるんだよ。僕としては、ジャガナートが終わるまで君には平穏な日常にいてもらいたいんだ。色々影響があるんだから」
ジャガナート――世界の
深い深いレイヤーで出会った黒衣の女はそれを暗黒の祭典と呼んだ。この現実と地続きの場所でその大いなる
「そういえばクク、賢者の石って知ってる?」
「……錬金術の言葉だね。金を作る触媒だっていう。それがどうかしたの?」
「いや……」
「それより勒郎」
ククが窓際からとんと床に降りる。
「また遅刻じゃないか。学校に行き始めたのは嬉しいけど、それならしっかり時間を守ろ?」
「……やれやれ」
物語のジャンルが微妙に変わったなと俺は思った。
あ、久凪や。おう。遅えな。
教室に入るとぱらぱら声がかかる。休みがちな生徒が2時限目から遅れて来ようが、周りにとっちゃ変わらぬ日常のさざ波に過ぎないってことは救いでもある。
カバンを肩から下ろしたところで、向こうの机に座ったあやのと視線が合う。
黒縁メガネの奥の切れ長の目が、いつもより気持ち優しそうに見えた……のは俺の勝手な思い込みか。
あやのの後ろの窓の向こうに、見慣れた街の眺めが広がっていた。
「はいこれ」
あやのが素っ気ない態度でキャンパスノートを手渡す。
屋上の風がその髪を撫でるので、おかっぱのクセがいつもより目立って見えた。
「うん……ありがと」
目が合うとまた怒られそうなので、俺も視線を外してノートを受け取る。
受け取ったノートが何ページか
「おお……見せてもらうの久しぶりや」
「……後で読みぃや」
ノートをぱらぱら眺めると、あやのは明後日の方向に顔を向けながら怒ったような声を出す。
裏紙にいつも絵を描く女の子だったあやのは、やがてマンガとしての表現を始め、そのノートは一時期クラスで回し読みする人気連載になった。それからまあ色々あって、小学校も高学年になるとあやのはノートをほとんど人に見せなくなったが、それでも俺と
「凄いよな、続けてるって。これお前の使命みたいなもんやな」
「どうしたん急に。……気ぃ遣うの嫌やから言うけど、あんたさ、最近何があったん」
「うんまあ……色々あってんけど……何て言うか、俺ってひとりよがりやったかなあってショックで」
「へぇ? 勒郎のくせに何今さら」
「えええ」
俺は校舎屋上フェンスの土台ブロックに腰かけながら話していた。
正面には建ち並ぶ高層ビルが見える。あのとき、あのビルの向こうに、この世の理を破壊する恐るべき予兆が見えたんだ。
「例えば……辛くて、もうダメや消えたい、みたいな気持ちって外からやと分かれへんやん。普通に歩いてる人が一杯おるの見ると俺みんな凄いなって思うけど、そのうちの何人が心の中に澱んだもの抱えてていまにも倒れる寸前なんやろなって」
「ふぅん……誰かとそんな話でもしたんか?」
「まあ……話したってほどでもないけど」
これまで剣を突き立ててきた
「とにかく
「えー何や? 彼方がおらんようになって弱気になったんか?」
「はあ? べ別にそんなん……いや……そうなんか俺?」
あやのはフェンスに背中をもたれさせ、俺と同じように遠くの高層ビルを眺めている。
「あんたの言うことな、拗ねててもしゃあないって、それその通りやと思うわ。あんた見てるといっつも思うし」
「うわあ……やめろよお」
「いひひ……。でも後半は全然そう思わへん。みんなと同じように生きていかなとかな」
誰かに宣言するように、あやのは言葉を続ける。
「人それぞれ辛いことあるやろ。そこで何とか生きてるんやん。その生き方が周りと違ってたとしても、それでなんであたしから気後れせなあかんねん。『みんなみたいにちゃんとしろ』とか言う奴と喧嘩できるようにがんばらなあかん、とは思うけどな」
「ああ……そこはそんなにがんばらんでええで」
「うるさいな……。そう言うあんたも、みんなに合わせようとか全然思てないやろ?」
俺は黙って高層ビルの向こうを見つめていた。
「あんたのお母さんが……あんなことなってもな。うちもお父んはどうしようもない奴やし。それでもあたしらなりのやり方で生きてけばなんとか生きてけるやろ。学校休もうが」
「……ええ話っぽく言うてるけど、お前この前は学校来い言うてたやん」
「あはは、それで来たんやったら単純過ぎるわあんた」
「えええ」
「勒郎、なにか憑き物が落ちたような顔だね」
どんどん早くなる夕暮れが通学路を斜めに照らし、俺の前をとことこ歩くククの白い毛並みも橙色に染める。
「お前にそんなこと分かるん」
「そりゃね。あやのちゃん? 今日はあの子と話せて良かったじゃないか」
「はあ? あいつは別に昔からの……」
大声を上げかけて止める。レイヤーを少しずらせばテレパシー的に話せるが、表層ではつい声に出るから周りから見るとやばい絵になる。ククの姿が見えるならまた違うんだが、それはそれで騒ぎになるだろう。
「君が前向きになってくれて僕も嬉しいよ」
「……まあ、そうすか。そうやね。拗ねてたらあかんね」
歩きながら独り言のように俺は小声で呟いた。
いまはとにかく家であやののマンガを読むのが楽しみだ。帰るのが楽しみだなんて久しぶりだ。
「……あの、見つけました」
ぼんやりしてたんだろう、息がかかるほどの距離に少女がひとり立っていて、ぶつかる寸前だった。
血の気の薄い顔に、見開いたように大きな目が俺を見つめていた。
妙に焦点のずれたその瞳に磁力めいた力があって、俺も目を逸らせない。
「……えと、あの?」
「
少女の大きな瞳から涙が
「えと……どこかで?」
ゆっくり視線を移す……ウェーブがかった長い黒髪。制服は確か隣の中学のものだ。前にそろえた両手で鞄を持ち、じっと俺の顔を覗いている。
「勒郎! 危ないよ、それは」
足元でククが叫んでいる。
「勒郎っておっしゃるんですね。勒郎。勒郎。上の名前もお聞きせずに下の名前で呼んでしまうなんてすみません。ああでも結局そう呼ぶようになるならいいんでしょうか? 勿論あたしのことは
俺は痺れた頭で考えていた。少女はククの言葉を聞いた。つまり重なったレイヤーを知覚している!
首元でククにもらった
周囲の景色が垂れ幕を降ろすようにずるりと崩れる。レイヤーが凄まじい勢いでずれていく。
「勒郎……!」
ククの声が徐々に遠くなる。
目の前に少女だけが残り、その全身を影が覆っていく。
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