お前の溜め込んだドロドロ全部 ①
「まあ……まあ……まあ……よくあることだぜ『主人公の少年』」
憐れむような女の声が聞こえる。
全身を貫く刃が骨に食い込み内蔵をえぐる、その感触が生々しい。痛みは夢のように曖昧なのに……怖い。何が起こってるんだ。
「物語が当てを外すなんてことはな。……
女の
フードが後ろに落ち、その黒髪が流れ出るのを見て、俺はぼんやり美しいと思った。野生の狼のようだ。
「お前の待ち望んだ非日常への
女は何を話してるんだろう。
その鋭い弧を描く眉の下で、真紅に輝く両眼が見開かれ、笑っている。持て余す狂気がその瞳を踊らせているように見えた。喜んでいるのか、激昂しているのか。まともな人間じゃない。
「ジャガナートは間もなく始まる。世界を変える気がないなら、せめてお前の溜め込んだドロドロ全部吐き出してから死ね……」
刃が乱暴に引き抜かれ、女の爪に戻る。
肉が裂け、骨を削られる激痛。
倒れた地面から身を起こすと、貫かれた箇所から光る液体がこぼれる。血……ではないが、それより本質的な何かが失われていくようだ。死ぬのか。
――久凪くん、
そうだ、この刃は傷付けようとするイメージ……それに呑まれたとき、俺は本当に傷付き、死ぬ。
――だからいつもこう思って……キミはヒーローだって。どんなにピンチでも最後には必ず勝つヒーローだよ。
「わ……我が手に来たれ……勇者の
右手から光が伸びる。そうだ、これが俺の力。
「お前が……何言ってんのか知らんけど……俺は弥鳥さんとこの世界を出ていく、そう決めたんや」
「へぇ……それで?」
「だから……殺されてやらん!」
俺は片膝を立てて剣を構える。こんなのはみんな真似事だ。だから最後までやってやる。
女は暗い微笑みで俺を見下ろしていたが、ふと脇に視線をやった。
「……おいおいおい、それは随分ひどいチートだぜ」
その言葉が終わらぬ間に、無数の光の矢が女の身体を吹き飛ばした。
ミサイルでも直撃したかという衝撃に俺も倒される。
「久凪くん! ごめん遅くなって」
透き通る声が懐かしい。中空から現れた弥鳥さんが俺の前に降り立った。
その姿を見上げて俺はぞっとした。彼女の身体……手足や肩、腰などの一部が半透明に消え……溶けかかっているようだ。
「み、弥鳥さん!? その身体……」
「えへへ……ちょっと無茶しちゃった。早く表層へ戻ろう」
透き通った右手を差し伸べながら、弥鳥さんが困ったように笑う。無茶をすれば世界から弾き出される……ってのはこのことか?
立ち上がって恐る恐るその手に触れるが、しっかり感触はある。
「い、痛くないん……?」
「ん、平気。キミこそ」
弥鳥さんが俺の傷口に手をそっと当てる。鈍い痛みが少し緩やかになった気がした。
「いつもなら治してあげられたんだけど」
表層現実では出血多量でショック死だろうが、いまの俺には“HPは残り僅か”という程度の認識しかなかった。それはそれで深刻な事態なんだろうが。
「ごめん、俺のせいや」
「あはは、お陰でこんなところまで来れたね」
いまにも倒れそうな弥鳥さんを俺は自然と抱き寄せていた。いつもと逆だ。
壊れてしまいそうな
「……あれがジャガナートなんやろ? 俺達が目指す……」
紫色に染まる異形の空に静止する巨大な歯車――。静かな廃墟の街から、俺はその威容を見上げた。
「そう。この理不尽な世界に苦しむ人々の
「
「うん……ボクには分かる。近いうちにキミは
俺を見つめる弥鳥さんの瞳には
「……あれ?」
弥鳥さんが怪訝そうに言ったときだった。
キリルルルルルルルル……
電子的な音響が頭の中で鳴る。
その瞬間、俺達の周囲に精密機器めいた無数の構造体が浮かび上がった。指先程度からせいぜい
俺はようやく、レイヤーを移動できないことに気付いた。
「虚海船……? レイヤーを固定してる。こんなところに……」
弥鳥さんの言葉が唐突に断ち切られ、振り向くと彼女がゆっくり仰向けに倒れるところだった。
その胸を何かの冗談のように、一本の巨大な牙が貫いている。
「み……とり……さん」
俺は呆然とその光景を眺めていた。
背中へ貫通した牙が地面に突き刺さり、彼女の身体は不自然に傾いだまま止まった。
「まあ……まあ……まあ……そう急ぐなよ、少年」
黒衣の女が立ち上がっていた。黒髪が渦を巻いて風に舞い、その中心で両目が紅く光っている。矢に撃たれた痕は微塵もない。
「
「弥鳥さん……」
俺はゆっくり弥鳥さんへ歩み寄る。
何だこれ……。彼女の両手は地面すれすれに垂れ、ぴくりとも動かない。
「ならば……聞かせてくれ少年。お前の物語がこの世界をどう見ているか」
女が顔を空へめぐらせるので、俺もつられて周囲を見回した。
遠くに高層ビルらしいバベルの塔めいた建物群が見える。その間に、恐ろしく巨大な蒼白い姿が見えた。20~30階の高さはあろうかという巨人。
校舎の屋上で見た
このレイヤーからだと、その頭部の
「
その言葉で、なぜだか俺にも知覚できた。
ジャガナートを監視するように浮遊する船団、廃墟じみた塔の数十階に陣取る魔物めいた集団、大地に腰をおろして瞑想にふける灰色マントの男……。
このレイヤーには、本来この世界にいない存在……別世界からの来訪者が入り込んでいる!
「ジャガナートを制御できる奴なんていやしないだろうが、無数の世界を巻き込むほどの
自分の言葉に感極まるといった調子で、目を見開きながら女は
その背後に、ゆっくり街を徘徊する巨大な
「人類史上稀に見る暗黒の祭典が始まるって訳だ。さてこの大舞台で……お前は何をするんだ?」
「お……俺はただ……」
圧倒されていたのか。俺は言葉を失くした。あまりに大きな話が展開していて、まるで自分事として呑み込めない。
「……ああ、それじゃあサービスだ、少年」
黒衣の女がおもむろに両手を掲げると、周囲が暗闇に覆われた。
寄る辺のない宇宙空間に、俺とその女だけが浮かんでいる。
「シルウェステルの魔導具がひとつ……
女の詠唱に呼応して、暗黒の空間を無数の蒼い流星が飛び交い、光の線を描き始める。
それが大きな球を中心に展開する幾何学的な光の紋様を浮かび上がらせると、女は目を細めて面白そうに眺める。
「少年……その球がいま自覚できる“お前自身”だよ。だが見ろ、本来のお前はそこから連なる別の時間から割り込んでいるんだぜ」
「何の……ことや……?」
女が球から伸びる光の線を示すと、その先のもうひとつの球体が見る間に大きくなる。胸騒ぎのする気配があった。
「あれが本来のお前だ。思い出せないか? お前は14歳の中学生なんかじゃないだろう? 生きることに絶望した貧弱なオトナの魂だ……」
身体が、その光が描く球体模様の中へ吸い込まれる。とても
……カーテンの閉め切られたマンションの一室。
壁を覆う棚は本やガラクタに埋め尽くされ、ペットボトルやビニール袋の散らばる床は足の踏み場もない。
薄暗い部屋をノートパソコンの青いライトが照らしている。
――お前は世界に殺されかけているじゃねぇか……。人を拒絶し、世を怨み、不安と恐怖を噛み砕きながら辛うじて命をつないでいる……。
女の声が反響していた。
そうだ、俺は忘れていた。インターネットが世界を覆っていた。マンガも動画もそこで手に入ったし、SNSが
俺は誰なんだ。この記憶は何なんだ。
「誰か……助けて……」
薄暗い部屋で
「……どうだ少年?」
いつの間に目を閉じていたのか、女の声で俺は我に返る。
無機質な廃墟の街で、黒衣の女が目を輝かせながら俺を見下ろしていた。
「そのちっぽけなお前がふらふら舞い込んだこの舞台で、どんな物語を描こうというのか教えてくれよ」
静寂が流れた。
俺はうずくまったまま、地面に転がる瓦礫を見つめていた。
「……暗黒の祭典、人類史上の……」
自分が何を言ってるのか分からなかった。だが、何かを言うべきだという確信があった。
「何や知らんけど……えらいことが起こってるんやな」
俺は少し笑いながら、ゆっくり顔を上げる。黒衣の女の紅い目を見返す。
「でも俺には……世界がどうなるかなんて関係ない。だってこれまでも……世界は俺と関係ないところで廻ってきたんやから。この世界は俺に関心がない、だから俺がその世界を捨てる、それだけや」
身体がうっすらと光っていた。
俺は女を見据えて立ち上がり、掲げた右手に剣を顕現させる。
「異世界から集ったお前らは、これから
面白がるように見開かれていた女の瞳が、すっと細められた。
「……それで勝てればいいな、少年」
女は残念そうに笑うと、一歩前へ足を踏み出す。
「……失われゆくすべて
女の言葉に合わせ、その黒衣が漆黒の羽根で覆われる……それは肉体すら一体化し、その姿を人間と鳥の融合した奇怪な生物へと変えていく。
「……死へ還す前に、せめてお前のすべてを受け止めてやるよ、少年」
手足の鉤爪、角のように逆立つ体毛、その凶悪な姿は見る間に2倍以上の大きさに膨れ上がる。ああ、俺は死ぬんだ。いまここで。
そう思いながら俺は剣を握り、全身に
こんなところで死ぬなんて、まったく予想外だ。俺はなぜか、その意外な死が世界に対して報いる一矢のように思えた。ざまあみろ、俺がこんな死に方をするなんて思わなかっただろう。
弥鳥さん、一緒に行くよ。ここが世界の果てだ。
「死なないよ、久凪くん」
後ろから声がした。
振り向くと弥鳥さんの身体がゆっくり起き上がり、眩しいほどの金色の輝きを発している。
ああ弥鳥さん、確かにそれはひどいご都合主義だ。
その身体を貫く牙に無数の亀裂が走る。
「
異形の存在が感嘆の声をあげた瞬間、牙は光の粒子となって飛散した。その粒が俺の頬に当たって弾ける。
「久凪くん、ありがとう。その気持ち……純粋な、心の底からの声があれば、ボクはいつだって蘇る。いつだってキミを助けに来るよ」
白い制服、金色の装身具、そこに傷も汚れもない。
髪を後ろで結い上げた赤いリボンが颯爽と
「さあ、まずはここから出ていこう。この
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