ボク達が世界から出ていくため ②

 どっ、どっ、どっ、と大きな音が頭を打つ。

 全神経が彼女に集中していて、それが自分の心臓の音だとしばらく気付かなかった。


「平気?」


 狭苦しい教卓の中で、頭上から弥鳥みとりさんのささやきが降ってくる。どこか楽しそうなのが少し悔しい。


「だだっ……大丈夫や」


 息を細切れに吐き出し、俺も囁き返す。

 廊下の足音が教室の前を通り、そのまま遠ざかっていくと、ふたりとも大きく息を吐いた。


「ふぅ、よかったね。見つからなかった」


 彼女の胸が顔にくっつきそうで、俺は慌てて教卓から這い出た。いまのはあくまで緊急避難であって……。

 後から身軽に飛び出した弥鳥さんが平然と膝の埃を払っているので、俺は心の言い訳をやめる。そもそもこんな風に人を振り回す女子なんて、現実世界にいやしないはず。


「お……お前……」


 いや、お前って呼びかけは偉そうか?


「き……きみは誰なんや」


 そこから? と意外そうに彼女は眉を上げる。


「ボクは、キミの言う“向こう側”……別の世界から来たんだよ」


 唇を面白そうにとがらせて、不思議さんめいたことをあっさり口にする。

 その後ろ髪と赤いリボンが揺れた。夕暮れの風が教室に吹き込んだらしい。


「キミもそうだよね、久凪くなぎくん。この世界への来訪者」

「え俺も……?」

「ボク達はこの世界では余所者なんだ。だから戻りたいと願う。そのキミの願い、ボクだけが理解できるよ」


 凛とした瞳を輝かせ、引き込まれるような微笑みを浮かべる彼女が俺には空恐ろしい。

 またひやりとした風が吹く。目がかすむ。何か奇妙だ。


「何なんそれ……」

「信じられない? じゃ……現実の層レイヤーを移ろう。表層だけじゃ見えないことが分かるから……」


 俺がおかしいんだろうか、暗がりの中で弥鳥さんの瞳が本当に光って見える。金色の光……それは弾丸となって俺の現実を打ち砕いていた。


「えと……もしかして……もうそうなってる?」


 教室に漂う薄もやが青や紫に発光している。そのキラキラする霞の向こうで、泥細工のような影達がもぞもぞ動いている。

 変容する現実。ああ、思い出した。この言いようのない開放感、これがレイヤーを移る感覚――。


「そう……今朝やったからね。キミはもう重なったレイヤーが見え始めてるはずだよ」


 俺は渡り廊下でのあやのの姿を思い出した。そして図書室での白昼夢……あれもそうなのか?


「レイヤーを深く潜るほど、キミは力を引き出せる」


 弥鳥さんが廊下に目をやる。そこから奇妙な影がじっと俺を見返していた。

 急に不穏な空気を感じて、さっきまでの開放感が消え去る。何だあれ? 何が始まる?


「……誰にも負けない、キミ本来の能力をね」

「えええ……?」


 その影は両目をどんよりあかく光らせ、教室内へにじり寄ってくる。中学生にしてはやや小さいが、触角を生やし直立する大トカゲが頭を揺らして歩いてくるとなると誰だってびびるだろう。


「ちょ……弥鳥さん? こいつ何なん……」


 俺は後退りしながらヘルプのメッセージを込めて弥鳥さんに目をやる。

 金色に輝く瞳はただ俺を見つめて笑っていた。面白いでしょ? とでも言いたげだがまったく共感できない。


「これを武器にして!」


 弥鳥さんが何かを放り投げた。

 思わず受け取ったそれは、よく見るとカッターナイフのようだった。いや、俺の手に触れてその形になったような……。


 ぐずぎぃ……!


 鳴き声に驚いて振り向くと、トカゲの口が突然大きく裂け、体ごと跳ね飛んでくる。

 俺は悲鳴を上げてカッターを突き出した。

 どん、とそいつの体重がのしかかる。カッターの刃がそいつをかすめた感触があった。


 ぎひぃ……っ


 目のくらむ閃光……直後、そいつは幾つかの肉片……粘土状の塊になって飛び散った。

 ねばねばした泥状のものが頭からべっとり降りかかる。妙に甘ったるい匂い……だが端的に言って吐きそうだ。


「久凪くん……キミはやっぱり凄い。もう真夜マーヤーを使ってる」


 嬉しそうに弥鳥さんが駆け寄って、倒れた俺に手を差し伸べる。


「みみ弥鳥さんこれって……何やこれ……っ」


 俺のステータスは“茫然自失”から“混乱”へ移る。

 慌てて彼女の手をつかもうとしたとき、握っていたカッターナイフが消えているのに気付いた。

 立ち上がると、髪の毛やシャツにかかった泥がぽたぽた床に落ちて、青や紫に瞬く。


「ここの言葉で……そう魄蟲キータ、人の心のよどみ……ありふれた存在だから平気さ」

「……平気ちゃうけど! こここんなんが学校におるのにみんな大丈夫なんか……?」

「レイヤーがズレてるからね。お互い干渉しにくいんだよ」

「じゃいまは……わざわざ危険なとこに移ったってこと!?」


 弥鳥さんが面白がるような表情で顔を近付ける。


「ふふ、見えなければいない、ってことにはならないからね。ほら……」


 彼女の指先が伸びて俺の髪をなでる。

 またしても唐突な接触に俺の無垢な心は逆上しかけるが、その指はすぐ離れる。その指先には手品のように小さな生き物がぶら下がっていた。


 ぎぐふぅぅ……


 ハトやウサギのように可愛くなかった。言うなればゲジゲジとカラスを混ぜて擬人化したような。

 わあっと間の抜けた声をあげて俺が飛びのくと、その勢いで頭や背中からバラバラ奇妙な虫だか爬虫類だかがこぼれ落ち、床にぶつかってぎいぎい鳴いた。神経を削る素敵な声だ。


「心の澱みが見えないと、自分がどうして辛いのか分からない……辛いことにすら気付かないかも知れないね」


 俺は全身が総毛立って身体中を払う。

 床に落ちたそいつらがもぞもぞこっちに戻ろうとするので、慌てて教室の隅へ逃げる。ぶつかった机がギギギと床をこする。格好悪いことこの上ないが、人にはどうあっても逃げなきゃいけないときがあると思う。


「でも見えるなら、戦えるんだよ」


 振り向くと、彼女が俺に手の平をかざしていた。


「……静謐の心を照らせ幽けき光カウムディー……そして影をあるべきところへ」


 手の平から発した蒼白い光線が俺を貫き、思わず目をつむる。凛と冷たい風が身体を吹き抜けた。


 くらんだ目を開くと、薄暗い教室のあちこちが黄色や緑に光っていて、床も壁も柔らかく震えているように見えた。虫達は消え失せ、あちこちでうごめいていた影も隅へ退散している。

 嘘のように気分が晴れていた。


「凄い……!」

「あはは、まあすぐ元に戻るけどね」


 輝きの中に弥鳥さんが立っている。

 その額、首もと、腰周りや手足に、金色の光模様が浮き上がり、高貴な装身具をまとう王女のようだ。


「久凪くん、外に出よう」


 金色の光を湛える王女様の姿に見とれながら、俺は素直に後について廊下へ出た。


 教室の外はすっかり異界だ。

 立ち込める青白い霧、奇妙な浮き彫りの壁……古い寺院や神殿のような雰囲気。天井を這う模様が脈動し、羽虫めいた影が発光して飛んでいく様子に、次々目を奪われる。非日常へ足を踏み入れる高揚感が俺の心を満たす。


「あ、ちょっと気を付けてね」


 先を歩く弥鳥さんが廊下にうごめく影を指す。胴体がゲル状のアシナガグモ、背中に突起を生やしたワニなど、奇怪な姿がごそごそ歩き回っていて、どうやら高揚するとばかり言ってられないようだ。


「なかなか……愉快やね」

「あはっ、襲ってきても大したことないから、そんなに怖がらなくていいよ」

「だっ誰が……」


 すっかり心を読まれてるようなので俺は言い訳を諦める。


「ね、このまま窓から出てみよう」


 弥鳥さんは光に包まれた顔で振り返りながら歩調を早める。天使にでも誘われたようだった。それとも妖魔の誘いだろうか?


「窓から!?」


 俺も足を早めて追いかける。


「そう、あそこから!」


 弥鳥さんが手を向けると、突き当たりの窓がはじけるように開く。超能力! と興奮する間もなく急に床を蹴る感覚が消え、身体がすごい勢いで窓に吸い込まれていった。


「飛ぶってことかよぉ!」

「あはははは」


 我ながら見苦しくじたばた暴れる俺の手首を、目の前を飛ぶ弥鳥さんが掴む。

 次の瞬間、船外に放り出された宇宙飛行士のように、俺達は学校の遥か上空まで吹き飛んでいた。


「……久凪くん」


 一瞬飛んだ俺の意識を、弥鳥さんの優しい声が起こしてくれた。


「ほら、いま学校を見下ろしてるんだよ」

「飛んでる……今朝と同じや……」


 上空の強い風が身体をなぶる。

 不思議な色に輝く黄昏の空が視界をおおい、弥鳥さんの髪や制服がはためいていた。

 

「レイヤーを移れば飛ぶことも簡単……世界が見渡せるでしょ?」


 弥鳥さんが手を引き寄せるので、顔がくっつきそうになる。

 俺はぎこちなく頷きながら視線を下に向ける。緑色に発光する雲が街並みを染めていた。


「え……? 弥鳥さん、あれ何なん?」


 街のあちこちに立つ半透明の影を見て俺はぎょっとした。

 廊下の影達よりずっと大きい……住宅や、オフィスビルを越えるほどの影もいる。それぞれ妙な形で、目覚めたばかりのようにどんよりとした動き何とも不安を誘う。


「あれが……魄魔体ヴァーサナー。心の澱みが凝り固まったもの……」

「街中にあんなに……?」

「久凪くん、あれも見える?」


 弥鳥さんはジャガナートの予兆が見えたあの高層ビル群を指す。

 じっと目を凝らすと……20~30階の高さがあるだろうか、恐ろしく巨大な人影が微かに……見えた。


「うぅわっ……あれは……っ!?」

「あれも魄魔体ヴァーサナー。あんな大きなものは普通あり得ないんだけどね」


 非日常もそろそろ行き過ぎだ。いつの間にこの街は怪物の巣窟になっていたんだろう。


「これほど多くの魄魔体ヴァーサナーが生まれてるのは、ジャガナートのせいなんだ」

「世界の……ことわりを壊すっていう……」


 図書室の白昼夢……あの巨大な山車と、その上に乗った女の子の姿が浮かんだ。


「そう。それはある意味では救いなんだ。だって苦しみを生む仕組みも壊してくれるからね。だからいまの現実に縛られ、苦しむ人達の救いを求める心が、魄魔体ヴァーサナーとなって具現化する……この澱んだ心を消してくれって」


 俺達の高度は少しずつ下がり、校舎の屋上へ降り立とうとしていた。


「……だけどね、久凪くん」


 弥鳥さんは、何かを打ち明けるように静かに言葉を続ける。


「ボクはジャガナートに救われたい訳じゃない。ただその力で向こう側へ行きたいんだ。キミはこれを夢だと思う?」

「……俺には……」

「夢なのかも知れない。だけど世界の理を変えるほどの夢さ。……それなのに、そこから目覚めたとき、それまでよりほんの少し生きるのが楽になった……その程度の物語をキミは求める?」


 弥鳥さんの眼差しが俺を貫く。その瞳の訴えることが俺には分かる。


「表層の現実からは決して届くことのない、無窮むきゅうの領域へ足を踏み入れ、あらゆるくびきから解き放たれた燦爛さんらんたる可能世界の海に浸る……その夢を、ただひとつの狭苦しい現実を生きるための道具にする、そんなことをキミは願う?」

「弥鳥さん……」

「ボクはその力で、この世界から出て行く。夢を見られるなら、目覚めようとは思わない。……キミもそうだよね、久凪くん」


 俺はようやく理解した。この不思議少女がなぜ俺の前に降り立ったのか。


「俺は……もっとましに生きたいなんて思ったことないんや。ただ、誰か俺をここから連れてってくれって、そう願ってた……」

「そう……いだ世界にひとりいたボクのところへ、キミのその声が届いたんだよ」


 俺達は屋上に舞い降りた。

 異形の影達がうごめく街。その前に彼女が立っている。俺が永遠のごとく待ち、焦がれ続けてきたものが目の前にあった。


「……弥鳥さん、ありがとう」

「うん」


 彼女が差し出した手を握る。

 俺には実感できた。苦しみがなくなることじゃない、苦しみが誰かに理解されること、それが救いなんだ。


「じゃあ行こう、ふたりで」


 弥鳥さんが嬉しそうに微笑んだ。


「……ジャガナートへ!」


 叫びと共に、その全身が金色に輝いた。掴んだその手から電流が流れ込むようだ。世界がぐにゃりと歪み、気が遠くなる。


「……久凪くん、ボク達の力を合わせればもっと深いところまで潜れるんだよ。こうやってね」


 弥鳥さんの悪戯っぽく笑う顔がすぐそばにあった。何て危険で魅力的な笑みだ。


「それはジャガナートへ近付くことでもあるけど、そこへ向かう魄魔体ヴァーサナーに近付くことでもあるんだ。すぐに気付かれると思う。夏の虫を前にした炎だよ、ボク達は」

「ええええ……?」


 レイヤーを移るうち、周りの影達の姿が随分はっきりと見えてきた。そいつらが、一斉にこっちに向き直ったように見えた。

 すぐ近くで巨大な足音が響く。そして這い摺るような振動。

 慌てて屋上の端から見下ろすと、蛇めいた巨大な頭部を持つステゴサウルスのような黒い影が、咆哮を上げて向かってくる。


「ちょ……あれ!」

「うーん、やっぱり襲ってくるみたいだね」

「でどうすんの!?」

「大丈夫だよ、ボク達なら」


 怪獣めいた影が柵を踏み越えて校庭へ入り込む。地震のように大地が震えた。さっきまではホラーだったが、どうやら特撮ものに変わったらしい。

 怪獣には目もくれず、弥鳥さんは正面から俺を見つめていた。あの微笑みを浮かべて。


「たとえ息絶えたっていいよね。これは世界を守る戦いじゃない。ボク達が世界から出ていくための戦いなんだから」

「……!」


 恐怖と混乱の中、それでも俺は自分が笑っているのが分かる。

 このいざないは冒険の始まりだ。魔王の野望を打ち砕くための……いや、地下迷宮に秘められた俺達だけの宝を見つけ出すための冒険。死ぬほど待ちわびた誘い。


「え、ええで。一緒に行こう……!」


 俺はこのとき初めて、弥鳥さんの瞳を正面から見つめられた気がした。そう、これが世界に吹いた風なんだ。

 襲来する巨大怪獣を前に、俺達は手をつないで校舎の屋上に立っていた。



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