ボク達が世界から出ていくため ①

天刑陣てんけいじんは完成しました。貴女あなたに逃れる術はありません」


 頭に直接声が響く。

 星々を砕く壮大な光の刃が飛び交い、時空間に包囲網を形成する。

 その中心、虚海に浮かぶ岩塊の上で、片膝を突いた人影が周囲を睨み付けていた。


「……そう思うか?」


 ズタズタに引き裂かれた黒い衣をまとったそれは、針金細工のようにか細い身体を震わせていた。すでに大きな傷を負っているのは明らかだ。

 それが凄絶な笑みを浮かべた。


恒真の守護者アガスティアでさえ拘束のあたわぬものがそこにあるぞ」


 フードに隠れた頭部から、その苛烈な視線がこちらを――俺を射抜いていた。


「……ジャガナートのことを言ってるのですか? しかし貴女にそこに到達することは……」


 岩塊を取り巻く暗黒から、かすかに動揺する気配が伝わる。

 その様子を楽しむかのように、人影はゆっくりいびつな姿勢で立ち上がると、片手を高く掲げた。オーケストラを指揮する尊大さ。

 その動きに追随して、足元の瓦礫から何かが生じ始めていた。


「これが切り札だよプルシャ」

ドグマを司ヴァルる漆黒の羽根ラヴェン……失われた虚海船……そうか貴女は……」


 瓦礫が分解され、巨大な構造物に再構成されていく。

 黒い人影がその中に乗り込む直前、もう一度こちらを――次元を超えてこの俺をじっと見つめた。


 ……目覚めると昼だった。

 その奇妙な夢が霧散した後も、最後に見たその視線ははっきり俺の記憶に残った。






 廃ビルから自宅へ帰ると、俺はいつの間にか眠ったようだ。

 あの少女は現実だったのか。すべてが夢だったかと思えたが……そんな風に納得するほど俺は日々に満ち足りてはいなかった。

 このいだ世界に風が吹くなら、嵐の先触れだろうと俺は歓迎する。いま何かが確かに、この現実を変え始めているに違いない。それが俺の思い込みだろうと、行動すれば同じことだ。






「おー久凪くなぎかぁ……最後の聖戦やってただろ、観たか?」


 図書室へ入ると眠そうな声がかかる。司書の平沢久遠くおん先生だ。

 気を使えばそれなりの美人になりそうなのに、化粧っ気がなく、いつもボサボサの黒髪を無造作に括っている……だけど俺はあの縁の赤いメガネに、その奥で悪戯っぽく笑う瞳に、妙にドキドキさせられる。


「えっと……いや観てないですね」

「なんだよぉ、せっかく教えてやってたのに。レンタルで観ろよ」


 考古学者インディアナ・ジョーンズの映画第3作。平沢先生の好きそうな映画だ。後で動画でも検索してみるか。


「……忙しそうやのによく俺が入ってきたの目に入りますね」

「んー、お前が入ってくるとすぐ分かるんよ」

「また……魔法だとか言わんといてくださいよ」

「いやいや」


 平沢先生がカウンターから身を乗り出してくる。


「これは愛やで? 久凪くん」

「はあっ!?」


 いつもの挑発だ。俺は紅くなる顔を見られたくないのでとっとと通り過ぎようとする。


「ああおい、久凪よ」


 先生が後ろから声をかけてくる。ちょっと真剣なトーンだった。


「なんすか」

「最後の聖戦はなぁ、ショーン・コネリーの父親像が本当にいいんだよ」

「……そうすか」


 いちいち外してくる。


「……じゃなくて、例の“黒いメイドさん”の噂やけどな……やっぱり不審者が夜うろついてるみたいやよ。他にもほら、最近妙なこと起きてるからなぁ。お前まだ夜中に出歩いてるんやったら気ぃつけやぁ」

「……そんときは魔法で助けてくださいよ」

「ははぁ、あたしが魔法使いって信じてくれて嬉しいわ」


 先生の赤いメガネがきらっと光る。

 俺はそそくさといつもの自習スペースへ向かう。

 ほとんど授業に出なくなった俺がそれでも学校へ足を運べたのは、この図書室がいびつながら居場所になっていたからだ。


 俺は机の上で、棚から適当に選んだ英和辞書(小学館ランダムハウス英和大辞典)を開いた。


 Jaga……nert……?


 今朝、あの少女から聞いた単語。あれが妄想でないなら、何か手がかりがあるはずだ。


――ジャガナートが始まる。


 闇の中でかすかな光にしがみつくように、俺はそれらしい綴りを探して辞書をめくった。


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 Jagannath

 1〔ヒンドゥー教〕 ジャガンナート:ビシュヌ(Vishnu)の化身クリシュナ(Krishna)の名;「世界の主」の意.

 2 =Juggernaut 5(2).

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 なるほど、それらしい言葉が出てきた。ここにあるJuggernautについても調べてみる。


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 Juggernaut

 1 ((しばしば j-)) 大規模で破壊力のあるもの(戦争・大戦艦・強いフットボールチームなど).

 2 ((しばしば j-)) 盲目的献身[残酷な犠牲]を強いるもの(絶対的な制度,主義,迷信など);不可抗力.

 3 ((英話)) ((しばしば j-)) 他の車の妨げとなるような大型トラック[ローリーなど].

 4 ((j-)) 巨大な存在,「巨人」

 5 〔インド神話〕

 (1)ジャガノート:ビシュヌ(Vishnu)の8番目の化神クリシュナ(Krishna)の称号.

 (2)(インド Orissa 州の Puri にある)クリシュナの神像(Jagannath):毎年の例祭に,その巨大な山車にひかれると極楽往生できるという迷信から,信者たちが車輪の下に身を投げ出したという.

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 俺はふと、自分が原色に彩られた異国の街角に立っているのに気付いた。


(……? ここは……)


 身を焼く気だるさ。

 そばの水瓶から、俺はぬるくよどんだ水をすすっていた。テレビを観ているように、自分の動きを外から眺めているようだった。

 甲高い鐘の音が響き渡る。周囲で興奮した群衆が奇声を上げていた。


(ああそうだ、俺はもうすぐ報われるんだ)


 俺は、自分がその熱狂の中にいることを知って嬉しかった。

 大地を支える巨像の鼓動のようなドラム。

 そして通りの向こうから、真っ赤に彩られた巨大な山車が現れた。その高みにある台座に、伸び放題の黒髪を貴金属で飾り付けた幼い少女の姿があった。


――あたしは……じゃがなーと……。


 少女の声が聞こえる。

 その髪の間から、彩色で強調された大きな目が俺を無感動に見下ろしていた。


――あなたの苦しみ……あたしに……捧げることを許してあげる。


 少女が獰猛な笑みを浮かべた。その救済の約束に、俺は涙が溢れるのを感じた。


(そうだ、助けて……助けてください……)


 やがて大地を磨り潰す無慈悲な車輪の軋みがやって来る。

 その前に投げ出した自分の肉体が一瞬で挽き潰されるとき、あらゆる苦しみから俺は開放される……。


――キミを救うために来たんだよ。


 熱気に満ちた白昼夢の余韻に、夜明けに聞いた彼女の言葉が風鈴のように鳴った。


 俺は現実に返る。

 図書室で辞書を広げたままだ。……これは何の症状だ? 睡眠不足か?

 しかしたったいまの強烈な認識を、俺は忘れない。現実を壊し、苦しみのない世界へ逃げ出せる方法があるのだとしたら、そのこと自体が大きな救いだ。






 ふと視界の片隅に気付く。

 自習スペースの反対側に、前髪を顔にかぶせながらノートに熱心に鉛筆を走らせる女子がいた。毛先の跳ねたおかっぱ。いつもの黒縁メガネ。

 あやのだ。

 例のごとくマンガを描いているらしい。ひとりノートと格闘する様子は図書室でも目立つが、あいつはそんなこと気にもかけていないだろう。


「おお真野や」

「また何か描いてるん。ちょっと見せて欲しいなあ」


 女子が3人――校則より派手な格好の子達が、あやのの後ろでニヤニヤ笑っていた。ひとりは同じクラスの高嶋小鳥だ。

 あやのが無視を決め込んでいるので、女子のひとりが邪魔するようにノートの上に手を置いた。

 あやのが面倒そうな表情で顔を上げる。俺にはその表情の危険さが分かるので恐ろしい。


「ちょっと、何やっとんの?」


 ……とは言えず、俺はただ見ているだけだった。こういうとき、俺は世界に吹く風を願う。この行き場のない現実を壊してくれる風を。


 バシャン!


 大きな音が図書室に響いた。

 英和大辞典が派手に閉じていた。

 ……俺の手で。


 図書室に不穏な空気が流れた。背後に平沢先生の睨むような視線をちくちく感じながら、俺は栗皮色の背表紙をただ眺めていた。

 何をやってるんだ俺は?


「何あれきしょ」


 しらけたような言葉を残し、3人組はだるそうに図書室を出ていった。

 ちらっとあやのの方に目をやると、本人の視線と正面衝突して俺は狼狽うろたえた。いまにもつかみかかって来そうな形相だった。






 図書室を出る頃には陽が暮れかかっていた。部活帰りの生徒達に混じるのが嫌で、俺は渡り廊下からぼんやり校庭を眺めていた。


 ッ!


 後ろからの衝撃に俺はつんのめった。


「あんたな……いらんことせんといて」


 振り向くとあやのが、たったいま俺を蹴りつけた足を戻しながら、不機嫌そうに睨み付けていた。いや、確かに小さい頃なら日常茶飯事だったが、中学生にもなって女子に蹴り飛ばされるなんてことがあるか?


「ちょ……えええ?」

「あんな奴らこわないし。助けてもらおうとか思てへんねんあたしは」

「そんなつもり……」

「カッコつけんなアホ」


 ここは俺だってかっとなるところだ。ところがきっと睨み返すと、夕陽に染まるあやののセーラー服が妙に眩しくて釘付けになる。

 何か目がおかしい。あやのが民族模様の布と羽飾りを身に付けているように見える。まるで荒野で生きる誇り高い少女戦士のように……。


「……何や、見つめんな……」


 あやのは急に視線を泳がせて一歩下がった。俺も急に気恥ずかしくなるが……何となく一矢報いた気になる。

 目の錯覚は消え失せていた。これも睡眠不足のせいか?


「べ別に見つめてへんわ……」


 そこでどうしていいか分からなくなる。こいつと話すといつもこうなるのはなぜだろう。

 ふたりが固まって何秒間……遠くに生徒達の話し声が聞こえていた。


「君ら仲良いなぁ」


 平沢先生の呑気な声が呪縛を解いた。図書室を閉めて出てきたところのようだ。


「久凪、真野ちゃんに変なことすんなよぉ」

「いや、こっちがされてんすけど」


 そう抗議したところで下校のチャイムが鳴った。

 あやのは先生に会釈だけして、無言のままとっとと歩いて行く。去り際にメガネ越しのひと睨みをくれるので、俺もとっさに睨み付けようと身構えるがまったく間に合わない。

 まるで今朝の繰り返しだ。あのときはその後に……


――ようやく会えた。久凪くなぎ勒郎ろくろうくん。


 生々しくあの少女の声が甦る。そうだ、あやのはひとまずどうでもいい。俺は彼女に会えることを期待して学校へ来たんだ。彼女は転校生だったはずだから。






 あやのが消えてから、俺も教室棟へ歩いていく。

 何気なく2年生の教室を覗いてみるが、下校時間を過ぎて誰もいるはずがない。俺は何を期待していたんだろう。


(助けてください……)


 頭の中で誰かが言った。すでに陽はビルに沈み、教室の中は薄暗い。

 そこに人影が立っていた。

 俺はちょっとした叫び声を上げたと思う。


「久凪くん……キミの心は決まった?」


 透き通った声だった。

 彼女がそこにいた。いるはずのない、だけど目の前にしたらいるのが当たり前だと思える存在。


弥鳥みとり……さん……?」


 あの見慣れない制服のままだ。赤いリボンで後ろ髪を束ね、少年のように立っている。


「ボクのこと、夢だと思った?」

「えっ……いやそんなこと……」


 弥鳥さんの大きな瞳は俺を正面から見つめる。その前では何を言っても言い訳じみて、言葉はぼそぼそ消えた。


「……何かが……起きてるって……分かってるよ」

「ふふ、そうだよね」


 彼女が笑う。

 そうだ。いま世界に確かに風が吹いている。彼女の唐突さが俺を救う。


「あ、見廻りの先生が来る。ほらこっち!」


 弥鳥さんが俺の右手首をつかむ。

 えっと言う暇もなく、俺は教卓の内側に引っ張り込まれていた。


「ちょ待っ……」

「し!」


 仰向けに倒れ込んだ俺の上に弥鳥さんが被さる。

 狭苦しいスペースに押し込まれて……微かな香りにくらくらする。これは彼女の香水?

 目の前に弥鳥さんの首筋が、胸元があって、俺は思わず息を止めた。

 何だこれ。いま俺の世界に何が起こっているんだ。


 コツコツと廊下を歩く見廻りの先生の足音が響いていた。



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