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「……夏。怖い。怖いよ」

 遥は泣き言を言う。震えて照準が定まらない。呼吸がしづらくて息が苦しい。呼吸ってどうやるんだっけ? 遥の背中は部屋の壁に密着している。どくんどくんと、心臓が強く鼓動をしている。左手には入ってきたドアがある。天井でちかちかと明かりが点滅する。それはまるで遥の意思が明かりをつけることと明かりをつけないことを同時に、研究所のシステムに向かって命令しているような現象だった。

 真っ暗な床に照子の白い手が伸びる。その手が床をつかむ。照子の爪が確認できる。(真っ白な爪だ。そこには赤い血が滲んでいる)這うように移動してくる。

 さっきから照子は一人で立って、歩いて移動しようとはしない。きっとまだ、うまく体を動かせないんだ。ずっと照子を見てきた遥にはそれが一目でわかる。照子は奥の、奥の部屋からずっと、こうして床の上を這うようにして、この場所まで移動してきたんだ……。

 白い手の次は頭。真っ白な髪の毛。……上半身。……下半身。

 そのすべてが力なく震えている。照子は外では生きられない。(今の照子は、言ってみれば水の中から出て、陸に上がった魚のようなものだ。人が宇宙服を着て、宇宙に出るようなもの)照子もその事実を知っているはずだ。それなのに照子は安全な部屋(無菌室、及びその奥の遥の個人的な研究室)から出て遥に近づこうとしている。


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